20120914 若松城(鶴ヶ城)③
投稿日 : 2012年10月12日
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三の丸北側にわずかに残る堀です。
二の丸前の堀と分岐したところです。
蒲生氏の後に会津に移封されたのは、上杉景勝です。
本領の越後を離れることになりましたが、庄内地方や佐渡はそのまま安堵されていたので、会津領と合わせて120万石の大大名になりました。
2
二の丸堀北側。
二の丸の堀は、堆積物のせいか干上がっています。
石垣を使わない土造りで、戦国時代の雰囲気を残す部分です。
上杉景勝の会津移封は、伊達政宗への牽制の意味もありますが、関東の徳川家康に対する方がより重視されていました。
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二の丸堀南側。
土塁と合わせて10mくらいの高さがあります。
上杉景勝は、本拠として新たに神指城の造営を決め築城工事を開始、鶴ヶ城に対してほとんど改修は行っていないようです。
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二の丸東門です。
門の周囲のみ石垣になっており、かつては枡形門でしたが、公園化の過程で一部破壊されたようです。
二の丸南側にも石垣造りの枡形門がありましたが、同様に旧状を留めていません。
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二の丸の北側にある伏兵郭。
土塁で遮られ内部が見難くなっています。
二の丸東門からの侵入を許した場合に、本丸へ向かうルートを背後から襲える位置になります。
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二の丸から本丸への門、廊下橋門です。
廊下橋は、有事の際には破壊して侵入不可能にするものです。
右側の木が鬱蒼としているのが、廊下橋に対し横矢を掛ける御弓櫓跡。
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廊下橋門。
城内の他の門と同様に枡形門ですが、本丸の入口だけあって規模は大きいです。
蒲生氏の頃までこちらが大手だった訳ですが、それに相応しいものになっています。
上杉景勝はその後、関ヶ原の戦い前後の騒乱で徳川家康に敵対したために米沢30万石に減封。
代わりに再度蒲生氏が会津領主になります。
蒲生氏の治世の間に会津では大地震が起き、7層の天守閣は傾いてしまったそうです。
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廊下橋の両脇は、19mにもなる高い石垣が築かれています。
伊賀上野城の石垣には及びませんが、ゆるやかな曲線を描く見事なものです。
土造りの部分は茶壷櫓の跡で、御弓櫓と同様に廊下橋に横矢を掛けてます。
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