20120914 若松城(鶴ヶ城)④
投稿日 : 2012年10月12日
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廊下橋門の枡形の石垣は、北出丸の大手門よりさらに2mくらい高い感じです。
門の規模といい、高石垣といい、対外的にも見栄えは良いし何で大手を変えたんだろ?
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茶壷櫓から見た廊下橋。
いろんなところで紹介されるアングルですが、良いものは良いです。
その後蒲生氏と入れ替りで、伊予松山より加藤嘉明が移封されてきます。
そして子の明成の代に、北出丸や西出丸を修築。
倒壊した天守閣も、現在の天守と同じ外観の5層の天守を築きます。
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本丸、本丸、と言っていますが、本丸は正確には石垣と多聞櫓で2つに分割され、左の石垣を越えた先が本丸御殿のあった「本丸」で、ここは帯曲輪になります。
多聞櫓は走長屋と呼ばれ、本丸東側のこの辺りは、蒲生氏の時代に築かれた野面積みの石垣です。
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天守閣までやってきました。
左に見えている本丸の入口は、蒲生氏以前は表門。
加藤氏以後は裏門になりました。
裏門とはいえ立派な櫓門であったろうと思います。
写っていませんが、門の左の石垣は公園化の過程で改変されているようです。
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本丸の東側には、小天守とも言うべき御三階櫓がありました。
現在、櫓台の石垣から復元工事の真っ最中でした。
御三階櫓は、城下の阿弥陀寺の本堂として現存しているのですが、これを元の本丸に移築するのではなく、新たに復元されるようです。
小天守とは言っても、戦闘用ではなく数奇屋風というか、実際重臣が密談に使ってたらしいです。
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天守閣です。
これも良く出てくるアングルですww
戊辰戦争後に城内の建造物は撤去されましたので、現在の天守は、昭和40年に鉄筋で外観復元された復興天守ってやつで、内部は博物館になっています。
天守から延びている多聞櫓は南走長屋と呼ばれ、干飯櫓とともに2001年に復元されました。
近年の文化庁の方針で、天守は存在しなかったのに建てちゃったり、ちょっと地味だから派手にしちゃえとかって事実と違う復元?は許可されなくなりました。
南走櫓や干飯櫓は、往時の工法で復元されたものです。
この辺りの石垣は、他の野面積みの石垣が築かれてから約50年後に、布積み崩しという積み方で築かれています。
それにしても良い天気でラッキーだったな。
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本丸の表門である鉄門(くろがねもん)です。
加藤氏の時代に本丸表門として造られました。
加藤明成はその後家臣との諍いから改易され、山形より保科正之が23万石で移封されます。
武田家の旧家臣だった保科家を継いだ正之は、実は徳川幕府二代将軍の秀忠の庶子で、三代将軍家光の実弟でした。
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西出丸への出入り口、西中門です。
廊下橋門と同様に本丸の出入り口は、規模が大きいです。
もちろんここも枡形門です。
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