20130914 苗木城①
投稿日 : 2013年11月19日
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岐阜県中津川市苗木にある苗木城です。
美濃国(岐阜県)の東部から信濃国(長野県)の一部を支配していた遠山氏の分家、苗木遠山氏の居城でした。
裾野に木曽川が流れる標高433mの高森山に築かれた山城です。
この城は、一般的に想像するような城とは一線を画す特異性で知られています。
元々頂上部に大きな岩が露出しているのを利用して石垣を築き、さらに京都の清水寺に代表されるような懸造りを多用した櫓群が建っていたそうです。
そしてそれらの建造物は、漆喰塗りの白でもない、板張りの黒でもない、赤土の赤茶色w
赤壁城とも木曽川から立ち昇る霧で城が隠れるという伝説から、霞城とも呼ばれました。
明治維新後に廃城になり建造物は残っていませんが、何時かは見てみたい城のひとつでした。
この図は、現地で入手した苗木城主要部の案内図です。
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現在の苗木城跡の入口、風呂屋敷門です。
門の手前に駐車場があり、国道257号から車で入ってこれます。
途中に苗木遠山資料館があり、苗木城や明治維新まで城主だった苗木遠山氏の資料などが展示されているようですが、岩村城で時間を大分費やしてしまったので回避。
今更、寄って行かなかった事をかなり後悔してます。
風呂屋敷門の石垣は、左右で造った年代が違うようです。
右側の石垣は「布積み」、左側は「落し積み」。
左右で積み方が違うのも、明治維新まで存続していた城ですから不自然では無いです。
無いのですが、二の丸まで車が入れる道がついてますから、改変されている可能性も有るんじゃないかな?
入口を入った右側には、足軽屋敷跡や龍王院という寺院跡があります。
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風呂屋敷門から200mほど行くとあるのが、大手門にあたる風吹門です。
門の左側の石垣の手前を登って行くと北門があります。
苗木遠山氏は、遠山一族の中でも有力な分家で、岩村城の遠山本家と明知城の明知遠山氏と合わせて「遠山三人衆」と呼ばれていたそうです。
江戸時代の町奉行として有名な「金さん」は、旗本になった明知遠山氏の出身です。
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風吹門の左側の石垣は、門の内側入るとこのような感じです。
むき出しになった大きな岩を利用し、周りに石垣が積まれています。
奥の一番高いところには、大矢倉という櫓がありました。
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風吹門の内側は三の丸です。
いつ頃の話しか知りませんが、堀切によって南北に分断されていたのを、堀切を埋めて三の丸が造られたのだそうです。
正面のベンチの辺りには、駈門という門がありました。
こちらは通用門みたいな感じ?
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木曽川からの登城道は、四十八曲りと呼ばれるつづら折れを経て、駈門まで続いています。
木曽川南岸の中仙道から川を渡り、この道から城に上がるのが大手道だったようです。
美濃と言えば、織田信長が尾張統一後に次に征服した国。
当時から最強と言われていた甲斐の武田信玄と、まだ対抗するすべの無かった信長は、対武田家の最前線となる東美濃の遠山氏を重要視していました。
本家の岩村遠山氏には叔母を、分家の苗木遠山氏には妹お勝の方を嫁がせているほどです。
このお勝の方の生んだ娘は、その後信長の養女として武田勝頼の正室となり、嫡男の信勝を産んでいます。
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駈門から20mほど下ったところにある竹門跡。
今回は行っていませんが、木曽川の畔までの登城道の途中にも石垣の遺構がいくつもあるそうです。
参勤交代の際には、殿さまは駕籠に乗ったまま四十八曲りを上がってきますが、竹門には入らずに外郭を迂回し、北門を通り風吹門から三の丸に入っていたそうです。
駈門は、駕籠が通れるような門ではなかったのかな?
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三の丸から二の丸へ。
土塁が残っていますが、二の丸との境には大門という門がありました。
大門の手前の左側、藪になっている辺りには、牢屋跡なんてのもあります。
幕末には苗木藩でも政変が起こり、上級武士が入牢するような事があったそうです。
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