20130914 苗木城②
投稿日 : 2013年11月19日
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左の階段は、本丸への登城道です。
看板の立っているところには、綿蔵門という門がありました。
縄張り図だと右側には勘定所、さらに先に進むと台所門があり、その先が御殿でした。
他の資料だと、御殿の方向は勘定所の建物で塞がっていて、一階部分が勘定所門という門になっているのもあります。
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礎石が並べられているのが、御殿跡です。
ここに建っていた建造物も、一部が掛け造りになっていたようです。
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御殿跡から本丸側を見るとこんな感じ。
巨石と組合わせた打込みハギの石垣が見事です。
当時は、石垣に巨石を用いるのは一種のステータスでした。
元々石が産出する所とは言っても、一万石程度の小大名がよく築けたものです。
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御殿の西側の一段低くなった場所に的場跡があります。
弓や鉄砲の稽古場だったそうです。
その後武田氏の美濃侵攻に晒される中で本家の岩村遠山氏が滅亡。
そして上洛戦半ばでの信玄の横死の後、長篠の戦い~甲州征伐~本能寺の変と時は流れ、信長の死後、信濃以東から信長配下の武将が引き上げたため、徳川家康が信濃や甲斐に侵攻しほぼ手中に治めました。
苗木遠山氏はというと、織田家臣団の主導権争いには加わらずに徳川家康の傘下に入ります。
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城の南西には、不明門跡があります。
「あかずのもん」ですから、非常時にしか開けない門です。
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不明門跡から帯曲輪の南側進むと清水門跡があり、その先にこんな大岩が露出しています。
この大岩の下に湧水があることから清水門というそうです。
社の鳥居の大きさから想像してみて下さい。
当然人が潜れる位の鳥居ですから、相当大きいことが分かると思います。
苗木城は、元々こんな大岩がそこかしこに露出した山を利用しています。
建造物を建てるような平場は少なく、石垣を築いて少しずつ平場を造成し、さらに足りない分は懸造りで補っている。そんな感じ。
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帯曲輪の南東部、物見矢倉跡です。
石垣から張出した懸造りだったようです。
織田家筆頭家老の柴田勝家を賤ヶ岳の戦いで破った秀吉は、織田家の勢力の殆んどを受け継ぎ、今度は徳川家康と小牧長久手の戦いで雌雄を決することになりますが、その争いの中、秀吉の配下となった森長可に攻められ苗木城は落城。
遠山氏は、家康を頼り浜松へ逃れます。
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帯曲輪の東部、石垣で何段かの平場が造られたところを登り切ると、仕切門がありました。
帯曲輪のここまでが二の丸、仕切門から先は本丸です。
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