8月6日といえば、昭和20年に世界で初めて核攻撃が行われた日です。
もちろん8月6日の今日は広島で式典があったわけですが・・・・
今日の
産経新聞の記事
米保守系のマスコミが記念式典にルース駐日米大使を派遣したことに対して、当時原爆を投下したエノラゲイ号の機長だったティベッツ氏の息子が批判したとのことです。
まぁこれだけ読むと、人口密集地に核攻撃して何万人もの虐殺行為をしたことを正当化するのはなにごとぞ!
と、日本人としてカチンとくるのですが・・・
同じく
今日の東奥日報の記事とあわせて読むと考えさせられます。
10数年前に元機長にインタビューしているのですが、こう答えています。
>「世間は私に涙を流すべきだと考えた。残りの人生を泣きながら暮らすべきだと。彼らは理解していない」
>「あえて言おう。戦争には倫理など存在しないのだ。子どもを殺す。女を殺す。老人を殺す。それが戦争というものだ」。
>「私は彼らとは異なった立場であの日にかかわっていた」。
最後の「異なった立場」というのが考えさせられます。
核攻撃を行ったことで日本本土上陸作戦を行うことなく敗戦に導き本土決戦による多くの将兵・民間人の犠牲を結果的に防いたという説は米国で広く信じられていますが(私はあくまでも国力低下を招いた通商破壊戦であり、原爆は要因のひとつに違いはなくても、ソ連の参戦が終戦を決定的にしたのであると考えていますのでこの説に対しては否定的です)、確かに受け取りようによっては式典に大使を送ることは米国が核攻撃に対して過ちを認め謝罪したとも受け取れます。
もちろん人口密集地に対する核攻撃は虐殺でしかないわけで、大罪です。
が、ここでそれを米国が認めるということは当時核攻撃を行ったクルーは「犯罪の片棒をかついだ極悪人」ということになります。
それはティベッツ氏にとっては父の名誉を傷つけることと解釈してもおかしくありません。
もっといえば、核攻撃にかかわった将兵だけでなく、戦争に参加した多くの将兵にとっても「あの戦いは正しかった」と正当性がなければ虐殺犯になってしまいますし、命を懸けて戦った何百万人もの将兵にとって正当性を失うことは名誉を汚されることになります。
もし私が60数年前にニューヨークに核攻撃を行えと軍から命令を受けていたなら、やはり投下レバーをひいていたでしょう。
それがどのような結果になるのかを判っていても命令を受けた末端の立場としては他に選択肢はないわけですから。
ですから私たち日本人にとって絶対に受け入れられないことであったとしてもティベッツ氏の息子が父の名誉を守るために核攻撃の正当性をうったえるのも正直いってわかります。
真に批判すべきは多くの犠牲者をだすことがわかっていながら核攻撃を決定した人、提案した人、NOと言える立場であったにもかかわらず計画を進めた人でしょう。
末端の兵士に責任云々を求めるのは筋違いだと思います。
・・・とはいえ、例えばどこかのならずもの国家が私の町に核ミサイルをぶち込んで私の家族や友人など多くの人を虐殺したとして、後に発射にかかわった末端の兵士が目の前に現れたとしたら命令だから仕方なかったと正当性をいくらうったえようが、怒りの矛先を向けるには筋違いだとわかっていても彼を絶対に許さないでしょう。
数秒後にはその彼はもはや人間の形をしていないたんぱく質の塊と化しているに違いありません。
当然です。
被害者にとっては相手の名誉なんて知ったこっちゃないですし怒りと悲しみと憎しみが残るだけです。
戦闘に直接かかわりのない民間人を虐殺した広島・長崎での核攻撃は人類のもっとも重大な大罪に間違いありませんが、核攻撃をされた側とした側に両者とも受け入れがたい認識の大きな相違がある事実を知る必要があるかもしれません。
Posted at 2010/08/07 01:55:05 | |
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