2011年04月20日
今日の中日新聞の記事(正確には東京新聞ですか)をみて思わずギョっとしました。
震災で破壊されて深刻な放射能汚染事故に発展してしまった福島第一原発ですが、あの悪夢のような建屋が爆発する映像が茶の間に流れた直後の3月半ば、政府は被曝限度量を従来の基準の2.5倍の250ミリシーベルトにに突然引き上げましたが、さらに500ミリシーベルトに引き上げ、”志願者”には制限なしにしてはどうかという検討をしていたようです。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/feature/nucerror/list/CK2011042002100013.html
強い放射線に浴びると遺伝子が破壊されたりガンになることはよく知られています。
それだからこそ放射線被曝量はどこに線引きをしたら良いのかが問題になっているんです。
「制限なし」
これが何を意味するのか、常識ある人なら判ると思います。
平たく言えば
「死んでもかまわんから行け」
です。
「決死」という言葉があります。
死をも覚悟して物事に当たることです。
原発で対処している方々は身の危険にさらされながら、事態の収拾に尽力されています。
本当に頭が下がります。
が、政府の考えていたのは「決死」ではなく「必死」です。
「必死」は字の通り必ず死ぬという意味になります。
「決死」と「必死」、言葉は似ていますが、天地ほどの違いがあります。
「決死」はあくまでも「生きて帰る」ことが前提ですが、「必死」は「死んで来い」に他なりません。
確かにあのとき、最悪の状態が考えられたのは容易に想像できますし、そのような状態になったとき、誰かを犠牲にしなくてはならなかった可能性があったかもしれません。
が、本当にそれを考えなくてはならなかったのか非常に疑問です。
ニュースで伝えられる断片的な情報ですが「支援を断った」「判断が遅れた」「首相の視察が対応を遅らせベントが遅れた」「コンクリートポンプ車の供与の打診があったが拒否した」という「ちょっとまてよ」的なことを何度も見たり聞いたりしてると思います。
混乱している状況ですからどれが本当でどれが事実ではないのかわかりませんが、事態がここまで悪化させたのですから明らかに人災です。
現場では命がけの作業をやらせておいて、それを命じる側がいいかげんな対応をして現場を危険にさらしておきながら「死んでもかまわんから来い」はいくらなんでもないでしょう。
命令を出す側は本当にそれ以外に方法はないのか、作業の交替時間を短くして被曝量を減らせないか、外国の技術で有効なものはないか、などを真剣に考えたんでしょうか?
現場は劣悪な状況下で出来る限りのことをやっているのに、短絡的に被曝限度量を上げてしまえという考えは非常に疑問です。
何しろあのとき決死の覚悟で原子炉に向かう消防隊に向かって「放水作業を速やかにやらないと処分するぞ」と恫喝したぐらいです。
http://www.jiji.com/jc/c?g=soc_30&k=2011032100274
被曝限度量を上げる。
それどころか上限をなくしてしまおうと考えていた人たちは、仮にそういう結論が出ていたとして、それをどうやって伝えようとしたのか?
(どうせ指揮官にボソっといって後は部下に伝えといてくれじゃないの?)
だれがどう責任をとるつもりだったのか?
(どうせ犠牲が出たら現場の責任にするんじゃないの?)
目の前にいる人間に「死んで来い」と言う覚悟が本当にあったのか?
原発対応されてる方々が全員ご無事に任務を終えられることを心から祈ってます。
↑ここまで詳細な想定と訓練、マニュアルがあったのに今回は・・・・
まさかマニュアル破棄してないよね?
Posted at 2011/04/20 20:37:34 | |
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