では内部を見て行きましょう。
内部は三笠の当時の様子を再現してある展示や艦内の部屋、日露戦争の展示がなされています。

三笠の15サンチ(15.2サンチ)40口径単装砲の2番砲室です。
このように砲撃を行う様子が展示されています。
戦艦三笠にはこの15サンチ副砲が14門搭載されていました。

こちらは長官公室です。
戦艦はいわば国の象徴でもあり天皇陛下や皇室の方々が御来艦されたり外国の要人が来艦することもあります。
そのためそれにふさわしい接待ができるよう大変気品に満ちた作りになっています。

三笠の士官室です。
やはり気品あふれる作りとなっています。

戦艦三笠の艦首飾(菊花紋章)です。
帝国海軍では軍艦の証として艦首にこれをつけていました。
帝国海軍の「軍艦」とは戦艦、空母、巡洋艦などある程度の規模と格式をもった艦艇のことを指し、駆逐艦や潜水艦などの艦艇は「軍艦」にはなりません(艦首にこの菊花紋章もありません)。

東郷平八郎司令長官の像と当時使用されたとされる望遠鏡です。
東郷平八郎は元薩摩藩士で西南戦争、戊辰戦争に従軍し維新後帝国海軍に入隊、明治4年には英国留学を経験して主力艦艇の艦長に就任しています。
日清戦争では巡洋艦浪速にて英国船籍の商船「高陞号」を撃沈(実は清国兵と武器弾薬を輸送していた)するも国際法に遵守した行動だったため世界に名を馳せ、以後海軍大学学校長、常備艦隊司令長官、舞鶴と佐世保の鎮守府司令長官を経て再び明治36年には常備艦隊司令長官に就任しています。
明治36年からの日露戦争では連合艦隊司令長官として活躍し、旅順港口閉塞作戦、黄海海戦などで指揮を執り、そして明治38年5月27日の日本海海戦でロシア海軍のバルチック艦隊の主力艦38籍のうち撃沈19、捕獲5、座礁または自沈2、逃亡後中立国にて抑留9となり、帝国海軍の損害は水雷艇損失3のみというワンサイドゲームで壊滅させ世界的な英雄となりました。

こちらは三笠艦内にある各国海軍からの寄贈盾です。

三笠を艦尾から。
戦艦三笠は皇居のほうに向いていますが実はその延長線上にはロシアがあり、いつまでも日本を見守るとともにロシアに対してにらみを効かせるという意味があるようです。
日本海海戦では輝かしい戦績をもつ三笠ですがその後は不幸続きで日本海海戦後の9月11日には弾庫にて火災事故が発生し佐世保港に爆沈、殉職者339名を出しています。
さらに大正10月16日にはアスコルド海峡にて座礁、関東大震災にて被災し抑留岸壁に接触して浸水、さらにはワシントン条約で廃艦の運命になる予定でした。
しかし記念艦ということで永久保存がきまり、大正15年より記念艦三笠として横須賀にて保存されることにないました。
が、大東亜戦争終結後の昭和20年に米軍により接取され砲などを撤去させられさらに戦後の混乱の中で部品がはぎとられ、米兵による娯楽施設化にされるなど見るも無残な姿になっていたとされます。
この荒廃をイギリスのジョン・ルービン氏がジャパンタイムズに投書し大きな反響をよび、さらに米海軍のニミッツ提督が三笠の惨状を本に記しその売上金を保存の寄付にするなど連合国側から保存に対しての動きがあったようです。
昭和34年に復元工事が開始され昭和36年には復元記念式典が開催され今の記念艦三笠へとつながります。

こちらは三笠公園から見えた海上自衛隊の試験艦ASE-6102「あすか」(基準排水量4250トン)です。
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Posted at 2008/10/13 12:40:54 | |
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