京都旅行で私がどうしても行きたい場所がありました。
そこはJR奈良線桃山駅から徒歩15分ぐらいの場所にあります。

乃木神社です。
乃木神社とはその名前の通り日露戦争で名高い乃木希典陸軍大将を祀った神社です。

乃木神社内にある忠魂碑です。
陸軍大臣陸軍大将南次郎の名前があります。
南次郎は日露戦争で旅順要塞総攻撃を行っている1904年には日露戦争に出征し大本営参謀となっています。

帝国海軍将兵の慰霊碑です。
主戦場は陸でしたが日露戦争では黄海開戦、旅順港閉塞作戦、日本海海戦のほか数多くの海戦が行われています。

その慰霊碑には錨がモニュメントになっています。
これは装甲巡洋艦”吾妻”(基準排水量9326トン)の主錨です。
”吾妻”は日露戦争直前の1900年に竣工された装甲巡洋艦でフランスに発注されて作られました。
45口径20サンチ砲4門、40口径15サンチ砲を12門ほかを搭載しており、日本海海戦では連合艦隊の第2艦隊(上村彦之丞中将)隷下の第2戦隊に編成されていました。

私がどうしても見たかったもの。
これがそうです。
乃木将軍が指揮を執った大日本帝国陸軍第三軍が旅順要塞攻略戦の際に司令部として使われた柳樹房の民家です。
そのままのものをここに移築しています。

明らかに日本の民家とは違った佇まいですね。
旅順要塞攻略作戦では日本軍第三軍総兵力13万人のうち戦死1万5千400名、戦傷4万4千名というすさまじい損害を出しましたがその中には乃木将軍の2人の息子もいました。

旧乃木邸です。
乃木将軍は元長州藩士で1849年に今の六本木ヒルズがあるあたりに生まれました。
1858年に長府に帰郷しましたがそのときの乃木邸がこれです。

乃木将軍の胸像です。
乃木将軍は明治4年に陸軍少佐に任官、その後西南戦争に歩兵第一四連隊長心得として従軍していますがここで連隊旗を喪失する失態を演じ、生涯苦しんだといわれます。
日清戦争では第1歩兵旅団長として出征、旅順要塞攻略を担当しています。
その後台湾総督府、近衛師団長を歴任していますが日露戦争では旅順要塞を1日で陥落させた功績により第三軍の司令官に抜擢されます。
日清戦争当時とは比較にならないほどの強固に補強された要塞群や機関銃の登場などにより旅順要塞攻略は大激戦となり実に6万人近い大損害を受けています。
その指揮に対しては批判がありましたが難攻不落といわれた旅順要塞を陥落させた司令官というネームバリューはすさまじく、日露合計60万人の兵力がぶつかった奉天会戦ではロシア軍司令官クロパトキンは乃木第三軍がいつ投入されるかを恐れていたといわれます。
旅順要塞攻略戦で大きな損害をだしたことで乃木将軍は大きな批判をうけますが息子2人を攻略戦で失うと同情を受けています。
乃木将軍は大変温厚だったことで知られ、敵だった旅順要塞ロシア軍司令官アナトーリイ・ミハーイロヴィチ・ステッセル中将は降伏調印式での帯刀を認められたことに感激し武士道を高く評価しています。
また乃木が殉死すると香典を送っていもいるようです。

乃木将軍の愛馬璞号です。
旅順要塞陥落の際にステッセル将軍から馬”壽号”が贈られました。
璞号はこの子で璞号と壽号の像は拝殿の前で御霊を護って対峙しています。

乃木神社の拝殿です。
乃木将軍は明治天皇への強い忠誠心でも知られ、明治天皇が崩御され大葬が行われた大正元年9月13日に乃木夫妻は自刀しています。
多くの国民がこの殉死に感銘を受け大正5年にこの乃木神社が作られました。

これはさざれ石です。
国歌”君が代”に登場するさざれ石はこの石のことで、小さな石が炭酸カルシウムなどにより固まり、大きな石になったものをいいます。
君が代の由来になったさざれ石は岐阜県の揖斐川にあるそうです。
以上、乃木神社の見学でした。
このほかに敷地内に資料館があり乃木将軍の遺品が展示されていました。
乃木将軍の作戦の評価や殉死についての評価はさまざまですが、資料的価値も大変高いので機会があれば参拝するのもいいと思います。
Posted at 2008/12/30 10:51:10 | |
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