**「キミのクルマに対してやりたいことが何となくわかるよ」**
若い頃の自分。
個人的な思いを振り返ってみれば、このような言葉、言われたことはない。
一見すれば、ずっとクルマに恵まれた環境にいたように思われるかもしれないが、
そんなことはまったくない。
別に苦労自慢をしたいわけではなく、周囲の職人や整備士仲間よりも遅咲きも遅咲き。
というのも修行先を自力で見つけては門を叩き、本当に見ているだけの見習い、洗車係、掃除係・・・と、なかなか仕事らしい仕事はさせてもらえなかった。
そのぶん、昔ながらのやり方、職人道のようなことは、いちおう一通り経験してきたように思う。
かつては3K業種、いまで言えば、ブラック企業ということになるのかもしれないが、
これは、この世界の見方では、いじめとは言わない。
「嫌なら辞めろ」
「もう来なくていい」
絶対上下制の世界。
これがあたりまえ。
あたりまえだから文句なし。
文句言うときは辞めるとき。
実際、そうして、何人もの若い奴が反発したり、嫌気がさしたり、我慢の限界に達して辞めて行った・・・。
きょう、GTRマガジンの誌面をみていて、ふと思い出されてきたのは横浜のある工場での洗車係のとき。
そこは人気のない工場で、たいして仕事がない。
車検が一日に1台か2台か。
そんな程度。
閑散。閉塞。
当時、そこで修行していたのは業界全体が不景気でもあり、見習いを雇ってくれるような余裕のあるところなどなく、ようは、他に務め先がなかったからだ。
そんなだからか、当然、先輩の職人たちはいつも機嫌が悪く、暇もあって、新人は邪魔な存在。
「仕事教えて、仕事取られちゃ、たまったもんじゃない」
そんな気持ちがあったのかもしれない。
なにも教えてはくれない。
もちろん、こちらの不徳、不遜、業の深さも多いにあってのことだとは思うが。
だから、ほとんど自力。独学。
見て盗むもなにも、すべて実地、怒られ怒られやっていた。
「洗車でもしてろ」
一日一台しか入庫がないのだから、ようは、一日かけて一台を洗車をする。
これは、仕事としてラクって思うひともいるかもしれないけど、仕事を覚えたくて来た者にとっては、ある意味、拷問にも等しい。
来る日も来る日も、一台だけ。
きっちり洗車する。
隅々まで。
それこそ、もう洗うところがないくらいなので、仕方なくボディの裏側まで。
冷える屋外でバリに手を切ることもあるけど、そんなの気にならない。
「負けてたまるか」と踏ん張って、「だったら徹底的にやってやろうと」ウエスで磨いていた。
なので、まあ、なかなか思ったように仕事はさせてくれなかったけど修行はさせてもらったと思う。
このような経緯を何社か繰り返し、あっちで叩かれ、こっちで叩かれ、そうこうしてどうにかこうにか、なんとか一丁前になっていったようなもの。
いまの時代、もうそんな職人教育は、まあ、そう多くはないことだろう。
辞めるか、鬱になるか、訴えるか、炎上するか・・・時代柄そんなところか。
ひと昔は、「嫌なら辞めろ」と言える強さがあった。
絶対的な権力があった。
やる気のない奴、根性のない奴は辞めて結構というスタンス。
ひとつの流儀として、ヤキ入れというのがある。
入ったばかりの新人に、あえて、一度地獄を見させて根性を試す。
ほんとうにやる気があるのかどうかのテスト。
その道に本格的に入門するための儀式のようなもの。
自分自身を振り返れば、なんだかね・・・
なんとなく思うことだけど半生そんなだったかもしれない。
いまだからわかることだけど、当時は、その渦中にあるときは、ありがたいんだか、ありがたくないんだか・・わからない。
内心、反発心。
少なからず態度にも出ていただろう。
しかし、それが、反骨心として前向きなやる気としてのエネルギーとして活きる側面もあるということを経験者のひとりとして思い返せば確かに感じる。
だからといって特に推奨するわけでもないが。
それが、いつしか時代が変わったね。
やりたいことがやれる。
やらせてもらえる。
理想的な、話のわかる先輩や上司がいる・・・。
でも、それは果たして、それだけでもって、いいのかどうか。
やさしさと生ぬるさは違うと思うし、厳しさと暴力も違うと思う。
ただ、気づいたことは、心の世界からみても、自分の本気を覚悟することは人間心理としても避けては通れない。
自分なりの新しいステージへと飛躍していくためには、古い自分の殻を脱ぐ必要がある。
それは、同時に、馴染んだものを手放す怖さがあるゆえに躊躇ったり、諦めたり。
現状に止まるための都合の良い理由を見つけ、変化から自分を守ろうとする。
人間が一番恐れていることは、現状から変わるということ。
逆にいえば、現状維持、安定がいちばん安心する。
ゆえに、なにか新しい事をなそうとしたり、チャレンジしたりするには、その本気さの確認のため、なにかしらの勇気や覚悟を必要とする。
手放したり、別れたり、馴染んだ環境を変えたり、気持ちとして困難さを超えて。
そして、素晴らしい出会いや、運命的な出会い、チャンスというのは、そのようにして自分自身の本心を確認する儀式を経た後に自然起こる。
修行時代、笑顔などだせなかった。
屈託無く笑ったり、幸せ感じたり、喜んだり・・。
無縁というか、自分にはなかった。
だから、自分の歩んできた道は、また全然違うレールの上だったのかもしれない。
でも、だからこそ、わかってあげることのできる立場に立てるのかもしれない。
不遇な気持ち。
やるせなさ。
くやしさ。
腹立たしさ・・・。
人の持つ、そんな様々な気持ちに対して、カラダで経験してきた者ゆえの理解が。
いまのご時世。
たぶん、クルマに触れさせてもらえない見習いはいないと思う。
でも、もし、どこかにいたなら、けして諦めないで欲しいと思う。
「仕事」になっていないかもしれないけど、貴重な修行にはなっているから。
思うようにならず耐えに耐え、それでも意志失わなければ、いつかチャンスは来るはず。
なぜなら、目の前の困難は誰かからさせられているというよりも、自分で自分の意志を磨き上げようとしているのだから。
悔しさはバネに。
怒りは涙に。
涙は愛に。
Speed Groove. yoshi