「一生モノのRを作る」
メカ系はさておき、ボディ関係の記事を読んでみて思ったこと。
骨格部品が無いという状況に、カナザワさんもヨシダさんも実のところは苦労しているのではないか。
もし、僕がインタビューされていたのなら、ある意味素直に、少しづつでも追いつめられてきている様子を伝えるかもしれない。
それを、各社のみなさんが工夫をして、メンテナンスの方向で凌ぐ提案をしたり、ドナーを確保して移植する方法、はたまたいつの日かのリプロに希望を託す、そんなセカンドベスト、サードベストな選択肢の提案がより現実的になってきているように思える。
セカンド、サード、などと、これは厳しい見方をしているように自分でも少しは思うが、でもそれは、僕が現役だった頃に今の状況を見越して先回りして対策に動いていた人(お客さん)への敬意の気持ちも含まれていると思ってほしい。
そう思うと、ぼくがまだ現役だったころは、まだかろうじて部品があったわけで、
あの頃が部品供給の最後だったことになるのだろう。(今後生産が復活しなければ)
とはいえ、当時でも、近い将来に部品の打ち切りは予想できていたから、その頃のお客さんたちには、できるかぎり優先度の高い部品から確保しておくことをお勧めしていた。
とはいえ、それなりに金額のかかることだし保管場所の問題もあることなので、実際に行動できたひとはそれほど多くはなかったのかもしれない。
しかし、確保できていたかどうかはともかく、その将来を見越してなにかしらの行動ができていたかどうか、その方が実は問題の核であると思う。
予想できる危機があるのならば、なにかしらの対策はしておいたほうがいいと、たぶん頭ではわかっていたことだろうが、でも、それを実行に移せないのが人間味であり、人間心理というものだろう。
どうしたって目先の利益や、いっときの快楽のほうをついつい優先しがちになるもの。
ぼくたちは、そのくらい長期で物事をみたり考えたり、計画をしていくことは苦手なようだ。
ただ、もしそれを実行していた人がいたのならば、たぶん、いま少なくとも絶望的には感じていないことと思う。
あとは、どこに作業の依頼をするか、その方向での検討をすることにはなるだろうが。
そして、このような部品の無い状況だからこそと、かえって熱意をたかめてやる気を見せているのがヨシダさんのように思えてくる。
まあ、ヨシダさんにしてみれば心外なことかもしれないが、どことなく、かつていた、どこかの誰かさんを見ているようにもおもえてきて、全体としてはその熱意になんとなく懐かしさを喚起されるとともに、微笑ましくも思えてきてしまう。
記事にある印象深い言葉をいくつか拾ってみれば、
「クルマ談義に華を咲かす」
「ダメ経営者」
「私を必要として来店」
「パーフェクトに仕上げたい」
「あまり儲からなくてもいい」
と、これだけをみても、どこかの誰かさんとオーバーラップするような感じがしてきて、
にやけている読者がいるかもしれない・・・
思い返せば、その誰かさんは、連日のように誰かしら熱心なお客さんが来店し、クルマ談義に華を咲かせ、どうしたらパーフェクトに仕上がるかを語りあっていた・・・・
ただ、その誰かさんとヨシダさんとが決定的に違うところはヨシダさんが経営者であるということで、
ヨシダさんほどまでには自由な采配ができなかったのかもしれない・・・
そんな経緯があるからこそ、そのぶんヨシダさんには活躍してほしいと夢を託しているのだろう・・・。
とまあ、どうでもいいような冗談はさておき、「一生モノのRを作る」とはどういう意味なのか?
それについて考えてみてみよう。
まず、ヨシダさんの言葉を要約すれば、こうなる。
「依頼者が愛情を注ぎ続け、施工者が継続してそれに応え続けられるか?
双方の気持ちが一生モノであれば、一生モノのRが存在すると思います」
まあ、これは心理学でいえば、コミットメントというものに該当する言葉になる。
それは、覚悟、腹を括るといった意味であり、それは、ヨシダさんが次に言っている強烈なメッセージにつながっている。
「いついかなる時もなんとかする」
おそらく、恋愛心理として女性にモテるような男は、このような言葉がわりと普通に言えることだろう。
つまりは、根拠はともかく自信を表していることであり、
これを一般論の恋愛心理として読み解けば、男性よりも女性のほうが自信をもちにくい傾向にあることを表している。(ほんとうは男も自信がないのだが・・)
さて、話をGTRに戻せば、
将来、売却や手放すことを選択肢にいれている人は問題ない。
しかし、そうではないユーザーの多くは自分のRを将来どうしていくか、その決断の迫られる日が近づくにつれ、現実的になるにつれ、不安な気持ちを潜在的に持つことだろう。
そんなときに、「いついかなる時もなんとかする」という言葉が目にとまったならばどうだろう?
ま、さきほどの恋愛心理とおなじく、そんな心強い自信あるところに頼りたくなるのが人間心理というものだろう。
そういう観点からみていくと、自信は強烈なモテ術、集客術につながることがみえてくると思う。
つぎに、水をさすわけではないが、集客イコール成功、か?という問題が起きてくることも、同時にみえてくる。
というのも、このブログ記事の裏のテーマとしては、「どうしたら自動車修理工場を成功させることができるのか?」でもあるので、次世代の修理工場経営者、幹部の方々に向けてここまで踏み込んでおこうと思う。
集客に成功するということは、そのぶんリスクも高まるということであって、そこで天狗になっていては、いずれ足元をすくわれることにもなりかねない。
そのため注意すべきは、限界を示す、ということ。
このあたりについては、カナザワさんが実にうまく対応をしていると思う。
カナザワさんの記事からいくつか言葉を拾ってみよう。
「修理にもレストアにも完璧はないのです」
「新車に戻すことは不可能です」
「悪い言い方をすれば、何をやっても中途半端」
「身の丈で修理して、あとは長く乗るためのメンテに回すべき」
まあ、これだけでみてもカナザワさんが、いったいどれほど権威を投影されてきたのかが垣間見える。
いわゆる”神の手”の持ち主のような扱いをされてきたということを示しているのだが、それはけして喜べることばかりではない。
なぜならば、カナザワさんとはいえ失敗をすることだってあるだろうし、いろいろな面において限界はあることだろう。
このさまざまな限界を示すことが実はとても大事なことであり、工場を安定的に発展できるかどうか、成功の軌道に載せられるかどうかの分かれ目ともいえると思う。
もし、ここで限界を示すことができず曖昧に進めていったならどうなるか・・・?
それは、おそらく、最終的には破綻へと進むことになるだろう、と思う。
たとえば、肉体的、体力的な限界かもしれない。
資金的な限界もあるだろう。
ひとり親方の工場でなければ、従業員とのさまざまな問題もおきやすくなってくるだろう。
そして、昨今のように、部品入手の限界もある。
これらを、まず、きちんと把握し、自分自身(経営幹部自身)に示しておくことが必要になってくる。
僕がみるかぎり、知る限りの狭い範囲ではあるが、ここが後回し、置き去り、見てみないふりをしている工場は結構多いように思う。
そうすると、その対比として、カナザワさんがどれほど、うまく対応しているかがわかってくる。
カナザワさんは今回のGTRミーティングで、ボディについてのトークショーを開催し、好評だったそうだが、
その内容は職人としての腕自慢的な方向ではなく、サビについての理解、メンテナンス、付き合い方という、どちらかというと守りの方向でのトークショーになっていたようだ。
ドンガラボディも、錆や劣化とどう付き合っていくかを知ってもらうため、ボディへの理解を深めてもらうために持ち込んだものであり、
そういう点をもってみても、カナザワさんが隠れた意味では作業の限界を示すとともに、ユーザーの意識や方向性を際限のないものから、自身のライフスタイルや身の丈にあったものへと、その選択肢の広がりを示そうとしているように僕には思えた。
これはぼくの勝手な想像だったが、「一生モノのRを作る」というタイトルと写真からして、
ボディ作りから始めてなにか根本的、革命的なGTR作り、僕の言葉で言えばEvolution的なモデルのプランが示されるのかと思った。
が、それは、まだ先のことなのかもしれないし、もう出来ないことなのかもしれない。
ただ、これだけグローバルにGTRが広まってきている時代なのだから、ここで終わってしまうのも、さみしい感じがする。
願わくば、世界的なスケールで知恵やアイデアが出て、それを実現できる日がくるといいと思う。
結局は将来のリプロに期待するという結論になっているが、それまでは、部品取り車(ドナー)の活用が主流になっていくのだろう。
かつての贅沢で究極的な修理方法ができる時代から、なにかあたらしい修理方法の時代へと、完全に踏み出したということになるのかもしれない。
もし、そんな時代を突き抜けていく職人がいるとすれば、それは既存の路線にはとらわれない、あたらしい感覚と勇気のある職人なのだろう。
そして、それはもはや職人とか板金屋という言葉には似つかわしくないくらいで、むしろアーティストと呼ぶにふさわしいようなスタイルである気がしている。
それというのも、Rを”作る”となれば、それだけの創造性と行動力を持っていることと、ある種のムーブメントを起こすくらいに人の心を動かす才能が要されると思うからだ。
ぼくは、そんな人が出てくるのを楽しみにしている。
yoshi
