
第6章 12時間前のシェイクダウン part1
「何でポルシェは速くないんだろう?」……サルテ・サーキットのピット内でモニターを見ながら、橋本健はちょっと不思議に思った。白と紺のウェア、背中には「HONDA」の文字。栃木の五人のスタッフとともに、94年6月、橋本はル・マンにいた。24時間レースの予選が始まったのだ。
予選一日目の水曜日。彼らのレーシングNSXはあっさりと4分18秒台をマークした。ドライバーのクリストフ・ブシューは「あと3秒はタイムを縮められる」と言った。これに対して、GT-2クラスのライバルと目されるポルシェ・カレラRSR勢のタイムは4分27~28秒だった。
クルマは仕上がってる! こう考えた橋本は、第二回目のタイムアタックは気温の下がるナイト・セクションにしようと決めていたが、もし他車が上に来なかったらアタックはしなくていいという指示まで出した。
ただ、順調なのはこの48号車のみで、他の2台はタイムが伸びず、とりわけ47号車はミッション・トラブルやオイル洩れ、スターターの不調などにも見舞われて苦戦の予選となっていた。47号車のドライバーは高橋国光、土屋圭市、そして、飯田章。「チーム国光」の三人である。ル・マンにこの三人で出場する、この夢は94年に現実のものとなり、高橋国光はル・マン未経験の二人を気遣いながら、この“奇跡の6月”が本当にやってきたことを喜んでいた。
48号車はレーシングNSXの開発ドライバーと言っていいアーミン・ハーネと、F1経験もあるベルトラン・ガショー、それにクリストフ・ブシューが乗る。この三人のナショナリティはドイツとフランス。46号車は、清水和夫と岡田秀樹、そしてフィリップ・ファブル。ここは日本/スイスである。
3台のNSXは橋本のプラン通りに、欧州組、日/欧組、そして日本人のみという三タイプで構成されていた。
3台のNSXは基本的には同一スペックである。だが、タイムの出ない47号車と46号車をサポートするため、ドライバーを集めての合同ミーティングも行なわれた。ともかくクルマの出来は悪くない。タイムは出せるのだ。こうして、94年6月のル・マン・ウイークは始まった。
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レーシングNSXにとっての初めての24時間レースについて、仕掛け人であり、エンジニアであり、そしてル・マンの現場では総監督という立場になった橋本健は、率直なところ、どういうイメージで実戦に臨んだのだろうか。たとえば、24時間を走りきれると読んでいたか?
現場での橋本は、つとめて明るい表情を振りまきつつ、「完走できるよ!」とチームとクルーに語り続けていた。それは、(オレがまず弱気でいたんじゃ、どうにもなんない)という判断からであり、同時に、NSXの速さを目の当たりにしての嬉しい驚きからでもあった。
ただ心の奥底には、レースに関わりつづけてきたエンジニアとしての冷静な展望があった。(何かはわからないが、きっと何かが起こる。何といっても、やり切ってないという現実があるのだ。完走は、たぶん、ない……)
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「チーム国光」は予選一日目、トラブルの続出に泣いていた。ただ、この種のマイナートラブルが初日に出てくれたことを良しとしようと、みんなが思っていた。もともとテストの時間は足りてないのであり、三人のドライバーのうちの二人はル・マン初体験なのである。また、この三人でレースの実戦を闘うのも、この「94ル・マン」が実は初めてであった。
そして高橋国光は、土屋圭市の言語表現力にひそかに期待をかけていた。ル・マン24時間というレースの、特有の“空気”。国光自身が大好きな、この6月の祭り。それを圭市に語ってほしかったのだ。(圭ちゃんなら、ぼくよりずっと巧く、このレースの素晴らしさ、厳しさ、その深さをみんなに伝えてくれるはず……)。当の圭市はレースが始まるまでは、N1耐久のちょっと長いやつという程度にしかル・マンを認識しておらず、国光の深い意図には気づいていなかった。
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レースのマネジメントはドイツのクレマー、車体を作ったのはイギリスのTCP。エンジンは、チューンド・バイ・ホンダ栃木。メカニックらチームクルーはすべてヨーロッパ人で、ドライバーのナショナリティは前述の通り。これに、橋本、丸谷、石坂らの栃木のスタッフがどれぞれの立場で合同する。この多国籍のチャレンジャーたちが走らせるNSXのフロントカウルには、ドイツとイギリスと日本の国旗が掲げられる。
ル・マン・ウイークはファイナルの「24時間」に向けて、着々と時を刻みはじめていた。
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事件が起きたのは、予選二日目だった。最速のNSXである48号車がメインスタンドを過ぎての右コーナー、通称テルトル・ルージュでスピンし、クラッシュしたのだ。ドライブしていたのは、ベルトラン・ガショーだった。
NSXはドライブシャフトが折れており、スピンの原因はたぶんこれだったが、ただ、リヤ・アッパーアームのピロボールもグシャグシャになっていて、サスペンションが壊れたという可能性もあった。
大破したクルマを見た橋本健は、すぐに全チームに走行中止の指示を出した。これは、全車に同じトラブルが発生する可能性がある。ドライバーを危険に曝すことはできない。そう判断したのだ。
ル・マンという怪物が少しずつ、新参のエントラントに、その牙を剥きはじめたのだろうか。
(つづく) ──文中敬称略
○解説:『 Le Mans へ…… 1994レーシングNSXの挑戦 』
この記事は、1994年に雑誌「レーシングオン」、No.174~NO.180に連載されたものに加筆・修正し、1995年3月に、(株)グラフィティより刊行された小冊子、『ル・マンへ……1994レーシングNSXの挑戦』を再録するものです。本文の無断転載を禁じます。
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Le Mans へ… 1994NSXの挑戦 | 日記
Posted at
2014/04/03 07:11:56