
ラリー・セリカの熟成。ドライバーに、ユハ・カンクネンとディディエ・オリオールという最強の布陣。宿敵ランチアがワークス活動を縮小した……という状況の中での1993年だったが、この世界、やはり甘くはなかった。トヨタの独走を阻んだのはフォードである。そのウェポン「エスコートRSコスワース」はコンパクトで、かつ前後の重量バランスに優れ、タイヤに優しいクルマだった。エスコートはあっという間に3勝して、トヨタと並んでしまう。第9戦のアクロポリス・ラリー終了時点では、チャンピオン争いはまったく予測のつかない状況になっていた。
また、コリン・マクレーが乗るスバルの「速さ」も、トヨタにとって予想外だった。このスバル(レガシィ)にニュージーランド・ラリーでトヨタは完敗。スバルの速さは本物で、続くフィンランド1000湖ラリーに登場したニューカマーのスバル・インプレッサにも、トヨタはほとんど“負けかかる”事態となってしまう。結果としてはこのラリー、北欧人であるカンクネンが何とか制し、フォードはノー・ポイント。トヨタはようやく一息ついた。
そして、9月のオーストラリア、WRCの第10戦。ランチアの「壁」を突き崩し、立ちふさがったフォードを退け、スバルに対しても一日の長があることを示したトヨタに、1993年の──いや、20年来の栄光の日がついにやってきた。2位のアリ・バタネン/スバル・レガシィに6分近くの差をつけて、カーナンバー6のカンクネン/セリカがフィニッシュ。トヨタの1993年のチャンピオンが決定したのだ。
この優勝マシンのフロント・ウインドーには、2分のペナルティ・タイムを示すステッカーが貼ってあるが、それはカンクネンの余裕の証明でもあった。WRCの闘い方には、わざとスタートを遅らせてペナルティを食らってでも、先頭を走るリスクを負うよりはいいという作戦もあるのだ。
──WRCというのは壮大なゲームである。10ヵ国以上の異なった場での闘い。それぞれに自然条件が違い、路面の状況が異なり、雪から超ドライまで、さらに季節も変わる。年間通して闘うということは、それぞれにミートしたマシンを作り、入念にテストをして、クルマについてもきちんとしたセットアップを出さなければならない。場合によっては、そのラリーだけのスペシャル・ドライバーを用意する必要さえある。
また、3日間以上にわたるひとつのラリーに参戦するためには、ドライバーだけでなく、メカニック、タイヤ・エンジニア、そして監督、マネージャーなど、すべてのチーム・スタッフとパーツ、サービスカーも絶え間なく動き回らねばならない。その行動を決するラリー・コーディネーターという職種が存在するほどに、その闘いは複雑にして高度だ。
そして、ラリーカーというハードウェアそのものも、シーズン中であってもディベロプメントされねばならないし、停滞はまったく許されない。たとえば今年のランチアは、セミ・ワークス態勢にしてしまったために、あるラリーでは、プライベーターが乗る最新フォード・エスコートに、あのカルロス・サインツが惨敗してしまったのだ。
1993年、トヨタはメイクスとドライバーのダブル・タイトルを獲得したが、もちろん1994年も、WRCに王者として参戦する。カンクネン、オリオールがセリカで走る。そして日本人ドライバーの藤本吉郎がTTEワークスに加わり、4戦に参加する。
1994年シーズンについて、オベ・アンダーソン監督は「93年以上に、多くのチームやメーカーが勝つ年になるだろう」と言い、続けて「しかしわれわれは、93年と同じようなリザルトになるように闘うつもりだ」と、ディフェンディング・チャンピオンとしての展望を語った。ハードでタフで、そしてインテリジェントなイベントである「WRC」の1994年は、1993年以上の熱いバトルになりそうである。
(了)
(「スコラ」誌 1993年 コンペティションカー・シリーズより加筆修整)
○2016年のための注釈的メモ
WRCの1994年、トヨタとセリカは“防衛”に成功した。メイクス・チャンピオンシップでは、トヨタが11ポイントの差で、新星スバル・インプレッサを押さえた。ドライバーズ選手権でも、コンスタントにポイントを重ねたトヨタのディディエ・オリオールが、小差ながらもスバルのカルロス・サインツを上回った。
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Posted at
2016/02/17 19:45:36