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2016年04月08日

フォードの不在……《9》

フォードの不在……《9》 さて、ヘンリーはT型を作り、そして作ってからも“それ”をさらに安価にして行くという戦略を採り続けた。ただ、クルマだけでなく「カスタマー」も創ったというのがフォードの偉大なところであろう。「ヘンリーは、誰もが自動車を持てるように、価格を下げ続けました。手ごろな価格の自動車を作るためには、生産性を高める必要がありました。ヘンリーは大量生産方式と賃金の引き上げによって、この目標を達成します」(「 THE FORD CENTURY 」)

1914年、アメリカ社会は停滞していたと、「 THE FORD CENTURY 」の著者ラス・バナムは書く。その頃アメリカでは、どの業界でも平均手当は1.75ドルほどだった。また、1913年にフォード社は、勤続年数が3年以上の従業員にクリスマスのボーナスを支払おうとしたのだが、該当する従業員は1万4000人のうち640人だけだったという。

つまり、労働者の定着率が極めて低かったのだ。そのことを知ったヘンリーの行動が、いかにも生真面目なアメリカ人という感じで注目である。そう、高い給料を取っていたなら、従業員はその仕事を失わないよう一生懸命に働くはずと、フォード社員の賃金を上げたのだ。これは数ある“ヘンリー・フォード伝説”のうちのひとつになっているらしいが、ともかくフォード社は一日当たりの賃金を一気に倍の5ドルにした。「賃金をカットしたら、客の数までカットすることになる」というのがヘンリーの説明だった。

「多くの新聞記者たちは、ヘンリー・フォードは資本主義の基盤を崩壊させたと書きたて、フォード社は確実に破綻するだろうと予想しました。ウォール・ストリート・ジャーナル誌は『犯罪ではないにしても経営上の大失敗だ』と嘲笑」したと、ラス・バナムは記している。しかし、メディアの読みは外れた。賃金を上げることで従業員の定着率は高まり、結果として、従来よりも“少人数”で生産することになって、フォード社の生産性は上がったのである。

「ヘンリー・フォードは、製品の品質を向上させながら価格を下げることが可能であることを証明したのです。この理論の恩恵を受けたのは一般の人々でした。庶民も、自動車を持てるようになったのです」(「 THE FORD CENTURY 」)

フォードが、従業員の賃金を「5ドル」にしたのが1914年。1912年に8万2388台を生産して600ドルだったT型は、1914年には30万8162台が生産された。1916年には生産が58万5388万台になり、価格は360ドルだった。(T型は1924年には290ドルになった)

ちなみに、この頃のヨーロッパは(1914年から)第一次大戦に突入していて、この戦争にアメリカは、1917年になってからドイツに対して開戦した。この1917年には、T型は70万台以上が作られ、そして対独開戦後は軍需生産に切り換えられて、フォードは3万8000台のT型を陸軍に提供した。

この頃のフォードとT型について、エッカーマンの『自動車の世界史』は以下のようにまとめている。まず、フォードによる“自動車の民主化”が行なわれたこと。そして、他社より高い1日あたり5ドル、月に130ドルの最低賃金(1914年)。後に、T型の価格は290ドルになった。(フォードは)ベルトコンベア労働者を、大量消費社会の一員にした、と──。

ヘンリー・フォードとフォード社は、人が使う乗り物とその在り方について、20世紀の初頭に新しい提案をした。それまでの「馬車の時代」は“豪華車の文化”と“スポーツカーの文化”だけだったと思われるが、乗り物(=ビークル)を馬車ではなくて“馬なし”──つまり「自動車」にシフトすれば、「豪華」と「スポーツ」以外のビークルも成立する。これがヘンリーの発見と展望で、その具体化が「T型」という新しい「大衆車」であった。

ここで、もうひとつ重要なことがある。それは、新種の乗り物とその「大衆化」という提案と展望は、実は「企業的」にも成り立つ。この事実をヘンリーとフォード社が、T型で証明したことである。発明家の思いつきや独りよがり、あるいはボランティアのレベルにとどまるのではなく、馬車に代わるその新種の乗り物はシゴトになる。もっと言うなら、「儲かりますよ!」と、新世紀の人と世の中に示したのだ。

こうして、ヘンリーとフォード社の「成功」で、まずはアメリカの自動車業界が「馬車の時代」の発想から脱皮した。金持ちのためのコーチビルダーによる豪華なクルマではない、新しいポジションが自動車文化にはある。このことが、ヘンリーとフォード社によって明らかになった。

エリック・エッカーマンの「自動車の世界史」は、この1900~1910年代について、メーカー間の激しい競争が始まったとするとともに、ジョン・ウィリスがフォードに次いで第2位のメーカーになったこと。そして、ウィリアム・デュラントが多くの会社を買収して、ゼネラル・モータースをつくり(1908年)、1911年に「大衆的」なブランド、シボレーが創設されたことを述べている。

同時に、この頃の「欧」と「米」の市場状況の違いには、主にヨーロッパを舞台にした第一次大戦が絡んでいると、エッカーマンは指摘する。第一次大戦によって、戦場であったヨーロッパ諸国は、戦勝国であっても経済的にはどん底状態になった。一方のアメリカは世界最大の債権国となり、新しく生まれた中産階級にシンプルな自動車を供給することができた。そのようなアメリカに対して、ヨーロッパのメーカーは貴族階級に華麗な四輪車を提供するという状況のまま。アメリカで誕生したような新しい購買層(中産階級)に対しては準備不足で、戦前の“手作り”の論理が残っていたというのだ。

……そうか、それ故に、エッカーマンも注目していたように、シトロエンやモーリスなどのヨーロッパの自動車人が、1920年代の直前、つまり第一次大戦の終了後、平和になった時点で「アメリカに学ぶ」視察旅行を敢行したのだ。T型は、アメリカのクルマ文化を変えたとともに、ヨーロッパの「小型車文化」の誕生にも影響を与えたのである。

アメリカを視察したヨーロッパの自動車人たちは、1920年代に入ると、シトロエン、モーリス、オースチン、オペルのように、自身の名前をブランド名にした小型車を続々と誕生させる。そして、これらの新しい「大衆車」が、それまでのヨーロッパ車のベーシック部分を構成していた、いわゆるサイクルカーや超・軽量車などを駆逐して、ヨーロッパの「小型車文化」を形成することになるのだ。

(つづく)
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Posted at 2016/04/08 23:38:07

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