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家村浩明のブログ一覧

2016年04月24日 イイね!

フォードの不在……《10》

フォードの不在……《10》フォードがこの日本マーケットから撤退するというニュースに接して、私たちにとっての“消失”を惜しむ……。そんなメモをこのブログ上に残したいと書き始めた記事だったが、予想外に回を重ねることになった。その長くなった理由は、ひとえに本棚の隅から「 THE FORD CENTURY 」(フォード百年史)なる重厚な書物を引き出してしまったことによる。

思いがけずこの本に分け入って、私は、フォード社とヘンリー・フォード、そして「T型」(モデルT)について、ほとんど何も理解していなかったことを知った。また、自動車史は「高級車史」と「レース史」で始まるものだと思い込んでいたが、どうもそうではない? 実は自動車史には、その黎明期から、確固たる「大衆車」があり、多くの人々にクルマとその利便性を届けるための歴史を刻んできたこともわかってきた。(学習をし直さないといけませんね……)

その大衆車の歴史を切り拓いたのが、ヘンリー・フォードと彼の「T型」である。そしてヘンリーは同時に、廉価車を大量に作る「フォードの方法」が“商売”として成り立つことも明らかにした。クルマだけでなく「自動車工業」の歴史が、ヘンリーによって拓かれた。そこから競争も生まれ、そうした自動車産業がアメリカだけでなく、ヨーロッパ、そして世界へ波及して、今日のような多くの人がクルマを使う社会が始まったのであろう。

欧米では、「馬車の時代」と呼んでいい時期が2世紀以上あったはずだ。その間に、馬や馬車はどのくらいの価格であったのか。高価であり、王侯貴族と上流階級しか馬車は使えなかったとは、いろいろな本にも書いてあるが、もしそうであるなら「馬車の時代」が続く限り、庶民が乗り物を「私有」できるような社会は到来しなかったことになる。

しかしヘンリー・フォードは、「内燃機関」を利用すれば、そんな状況をブレークスルーできるのではないかとイメージした。この先見性とそこからの実践的な展開は、見事にして偉大なドラマだったというしかない。アメリカでは、いわゆる工員の日給が5ドルで、最低保障が月に130ドルであった頃に、T型が290ドルだった時期があるという。つまり、庶民の月給の二倍プラスで「新車」が買えた。そんな状況をヘンリーと「T型」は、モータリゼーション草創期の1910~1920年代に創出したのだ。ヘンリーは「クルマ」だけでなく「カスタマー」も創ったのである。

折口透氏はその著書「自動車の世紀」で、「ヘンリー・ロイスがあくまでも質を追求したのに対して、フォードは量の追求によりモータリゼーションの開花をうながした」と述べている。ヘンリー・ロイスとはロールスロイス創始者のうちのひとりだが、この一文はさらに「以後の自動車の歴史は、この二人のヘンリーが求めつづけた質と量という二大要素の発展の歴史といってよいだろう」と続く。

ただ、この「質」と「量」はどっちが優位とか、そういうものではなかったのではないか。モノあるいはモノ作りが語られる際には、その「質」の方だけが取り沙汰されることが多いが、しかし「質だけ」の追求は、ロールスロイスがそうであるように、ごく少数の顧客にしか届かない製品/商品を作ることになってしまう。それに、真に「量」を確保して展開するには、T型やVWビートルがそうであったように、先進性や「良質」は欠かせない要素であるはずだ。

1910年代にT型で成功したフォードは、その後、GMとともに、ヨーロッパをはじめとする「世界」に進出を開始した。そして、そのターゲットには日本も入っていた。1925年には、横浜・子安にフォードが組み立て工場を設立。これに呼応するかたちで、GMも大阪に生産と販売の拠点を設けた。

この頃の日本市場にとってのフォードやシボレーは、もちろん「大衆車」とはいえなかったが、軍用車やトラック以外の「乗用車」というカテゴリーを実車で示したのがフォードとGMであった。1930年代の日本の自動車人は、フォード車に独占されたそんな状況を何とかしたいと、乗用車作りに意欲を燃やしたともいわれる。

そして第二次大戦が終わり、1950年代以降に、日本自動車工業は“追いつけ追い越せ”で驚速の進歩を遂げ、世界を制することになるが、その「戦後日本」で私たちの“先生”となったのがアメリカとフォードだった。1920年代に、ヨーロッパの一部の自動車人が「デトロイト」を学んだように、日本の自動車工業もまた「フォード」をその師とした。そして、1980年代半ばにはその「学習」を終え、それだけでなく、アメリカ本土で自社の工場を設立し米人を雇用するまでになる。日本自動車工業の、驚異の飛躍・30年であった。

……こんなことに思い至ると、この日本マーケットでフォード車があまり注目されない、また、そんなに売れないことの理由が見えてくるような気がする。日本の自動車メーカーは“生徒”として、あまりにも優秀だったのだ。もう“先生”は要らないという地平にまで、日本のクルマは駆け上ってしまった。そんなレベルの国内メーカーがひしめいているのが、この日本マーケットである。

象徴的にロールスロイスとフォード、あるいは「質」と「量」という対比を用いるなら、この日本では「量」をジョブとするメーカーは、ドメスティックだけで飽和状態にあるといえるのではないか。そういうマーケットに、さらに国外の量産メーカーが割り込もうとする方が、逆にむずかしい。故に、輸入車のトップスリーを競う三つのブランドのうち、二つがいわゆる高級ブランドという事態になるのだ。

つまり、フォードだけが、日本マーケットで不振なのではない。シボレーなどのGM、ルノーやプジョー、フィアット、またヒュンダイまでが同様なのだ。海外メーカーがこの国で、「量産品」を「量販」することは、国内メーカーがヴィヴィッドである限り、きわめて困難。なぜなら、すべての国内メーカーが最も得意とするところが、ほかでもない、その「量販」だからである。

○タイトルフォトは1928年フォードA型。「THE FORD CENTURY」より。

(つづく)
Posted at 2016/04/24 21:08:05 | コメント(0) | トラックバック(0) | Car エッセイ | 日記
2016年04月08日 イイね!

フォードの不在……《9》

フォードの不在……《9》さて、ヘンリーはT型を作り、そして作ってからも“それ”をさらに安価にして行くという戦略を採り続けた。ただ、クルマだけでなく「カスタマー」も創ったというのがフォードの偉大なところであろう。「ヘンリーは、誰もが自動車を持てるように、価格を下げ続けました。手ごろな価格の自動車を作るためには、生産性を高める必要がありました。ヘンリーは大量生産方式と賃金の引き上げによって、この目標を達成します」(「 THE FORD CENTURY 」)

1914年、アメリカ社会は停滞していたと、「 THE FORD CENTURY 」の著者ラス・バナムは書く。その頃アメリカでは、どの業界でも平均手当は1.75ドルほどだった。また、1913年にフォード社は、勤続年数が3年以上の従業員にクリスマスのボーナスを支払おうとしたのだが、該当する従業員は1万4000人のうち640人だけだったという。

つまり、労働者の定着率が極めて低かったのだ。そのことを知ったヘンリーの行動が、いかにも生真面目なアメリカ人という感じで注目である。そう、高い給料を取っていたなら、従業員はその仕事を失わないよう一生懸命に働くはずと、フォード社員の賃金を上げたのだ。これは数ある“ヘンリー・フォード伝説”のうちのひとつになっているらしいが、ともかくフォード社は一日当たりの賃金を一気に倍の5ドルにした。「賃金をカットしたら、客の数までカットすることになる」というのがヘンリーの説明だった。

「多くの新聞記者たちは、ヘンリー・フォードは資本主義の基盤を崩壊させたと書きたて、フォード社は確実に破綻するだろうと予想しました。ウォール・ストリート・ジャーナル誌は『犯罪ではないにしても経営上の大失敗だ』と嘲笑」したと、ラス・バナムは記している。しかし、メディアの読みは外れた。賃金を上げることで従業員の定着率は高まり、結果として、従来よりも“少人数”で生産することになって、フォード社の生産性は上がったのである。

「ヘンリー・フォードは、製品の品質を向上させながら価格を下げることが可能であることを証明したのです。この理論の恩恵を受けたのは一般の人々でした。庶民も、自動車を持てるようになったのです」(「 THE FORD CENTURY 」)

フォードが、従業員の賃金を「5ドル」にしたのが1914年。1912年に8万2388台を生産して600ドルだったT型は、1914年には30万8162台が生産された。1916年には生産が58万5388万台になり、価格は360ドルだった。(T型は1924年には290ドルになった)

ちなみに、この頃のヨーロッパは(1914年から)第一次大戦に突入していて、この戦争にアメリカは、1917年になってからドイツに対して開戦した。この1917年には、T型は70万台以上が作られ、そして対独開戦後は軍需生産に切り換えられて、フォードは3万8000台のT型を陸軍に提供した。

この頃のフォードとT型について、エッカーマンの『自動車の世界史』は以下のようにまとめている。まず、フォードによる“自動車の民主化”が行なわれたこと。そして、他社より高い1日あたり5ドル、月に130ドルの最低賃金(1914年)。後に、T型の価格は290ドルになった。(フォードは)ベルトコンベア労働者を、大量消費社会の一員にした、と──。

ヘンリー・フォードとフォード社は、人が使う乗り物とその在り方について、20世紀の初頭に新しい提案をした。それまでの「馬車の時代」は“豪華車の文化”と“スポーツカーの文化”だけだったと思われるが、乗り物(=ビークル)を馬車ではなくて“馬なし”──つまり「自動車」にシフトすれば、「豪華」と「スポーツ」以外のビークルも成立する。これがヘンリーの発見と展望で、その具体化が「T型」という新しい「大衆車」であった。

ここで、もうひとつ重要なことがある。それは、新種の乗り物とその「大衆化」という提案と展望は、実は「企業的」にも成り立つ。この事実をヘンリーとフォード社が、T型で証明したことである。発明家の思いつきや独りよがり、あるいはボランティアのレベルにとどまるのではなく、馬車に代わるその新種の乗り物はシゴトになる。もっと言うなら、「儲かりますよ!」と、新世紀の人と世の中に示したのだ。

こうして、ヘンリーとフォード社の「成功」で、まずはアメリカの自動車業界が「馬車の時代」の発想から脱皮した。金持ちのためのコーチビルダーによる豪華なクルマではない、新しいポジションが自動車文化にはある。このことが、ヘンリーとフォード社によって明らかになった。

エリック・エッカーマンの「自動車の世界史」は、この1900~1910年代について、メーカー間の激しい競争が始まったとするとともに、ジョン・ウィリスがフォードに次いで第2位のメーカーになったこと。そして、ウィリアム・デュラントが多くの会社を買収して、ゼネラル・モータースをつくり(1908年)、1911年に「大衆的」なブランド、シボレーが創設されたことを述べている。

同時に、この頃の「欧」と「米」の市場状況の違いには、主にヨーロッパを舞台にした第一次大戦が絡んでいると、エッカーマンは指摘する。第一次大戦によって、戦場であったヨーロッパ諸国は、戦勝国であっても経済的にはどん底状態になった。一方のアメリカは世界最大の債権国となり、新しく生まれた中産階級にシンプルな自動車を供給することができた。そのようなアメリカに対して、ヨーロッパのメーカーは貴族階級に華麗な四輪車を提供するという状況のまま。アメリカで誕生したような新しい購買層(中産階級)に対しては準備不足で、戦前の“手作り”の論理が残っていたというのだ。

……そうか、それ故に、エッカーマンも注目していたように、シトロエンやモーリスなどのヨーロッパの自動車人が、1920年代の直前、つまり第一次大戦の終了後、平和になった時点で「アメリカに学ぶ」視察旅行を敢行したのだ。T型は、アメリカのクルマ文化を変えたとともに、ヨーロッパの「小型車文化」の誕生にも影響を与えたのである。

アメリカを視察したヨーロッパの自動車人たちは、1920年代に入ると、シトロエン、モーリス、オースチン、オペルのように、自身の名前をブランド名にした小型車を続々と誕生させる。そして、これらの新しい「大衆車」が、それまでのヨーロッパ車のベーシック部分を構成していた、いわゆるサイクルカーや超・軽量車などを駆逐して、ヨーロッパの「小型車文化」を形成することになるのだ。

(つづく)
Posted at 2016/04/08 23:38:07 | コメント(0) | トラックバック(0) | Car エッセイ | 日記
2016年03月28日 イイね!

フォードの不在……《8》

フォードの不在……《8》前回の「庶民は馬車に慣れており、移動手段の馬が原動機に変わるという変化を無理なく受け入れた」という「 THE FORD CENTURY 」の指摘は興味深い。アメリカには、庶民でも馬車を扱い、さらにそれに慣れていた。そんな「馬車の時代」があったということが、ここで明らかになった。実はこれは欧州大陸や英国でも同様であり、これらの地域では17世紀の半ばくらいから各種の馬車が使われはじめ、18~19世紀は「馬車の時代」だったといわれる。

そして本書「 THE FORD CENTURY 」は、「庶民は馬車に慣れており……」に続けて、「T型はアメリカの社会を均質化し、文化的・物理的な障壁を打ち壊した」というドン・ワーリング(ヘンリー・フォードの伝記を書いた)の言葉を紹介している。これまた刺激的な言で、言い換えれば、もし20世紀の初頭にT型が登場しなかったら、そうした「均質化」社会は来なかったし、そうなるとしてもずっと時間がかかったはずということであろう。

ワーリングは、さらに言う。「農村の人々にとって、T型の登場は一生に一度というほどの大事件だった。農民たちは仕事が楽になり、思い立ったらすぐにでも気軽に遠くの街へ出かけられるようになった。きわめて現実的な意味で、T型はひとつの社会革命であった」(T型の登場は)「体力の点で厄介な馬や馬車を扱えなかった女性を解放することにもつながった。この仕事は、それまで彼女たちの父親や夫のものだったのだ」

……なるほど! 「馬と馬車の文化」は、このような意味では限界があったということであろう。「馬車の時代」では、仮に乗り物(馬車)の“性能”を上げようとすれば、馬車を引く馬の数を増やすしかなかった。また、長距離走の場合は、馬はある距離ごとに「交換」しなければならない。そもそも宿場というのは、そうやって馬をプールしておいて、必要に応じて交換する場という意味だった(はず)。「馬車の時代」には、そうした“兵站”にも似たシステムを作って、それを維持しなければならなかったのだ。

それから、多頭数の馬が引く、速くなった馬車を扱うことができるのは、体力の点からも、ある限られたプロフェッショナルだけだっただろう。西部劇映画でも、六頭立てなどの速い馬車を御しているのは屈強な男たちであり、そして女性は、たとえば「西部開拓史」でも「シェーン」でも、温和しそうな馬が一頭で引く小さな馬車を操っていた。

つまり「馬車の文化」である限り、乗り物を用いての人の行動には、速度にせよユーティリティにせよ、ある限定された範囲にとどまる。もし、そうした状況を打開しようとするなら、ビークルを動かすためには、馬以外の「原動機」を見つけるしかない。蒸気機関にせよガソリンエンジンにせよ、そうした原動機があることを知った当時の人々が、欧米の各地で“新種の馬車”作りにのめり込んだのは、その意味では当然のことだったのではないか。

ただ、そのような状況の中で、おそらくヘンリー・フォードだけが、その「馬から原動機へ」という新潮流に、社会の中の「誰でも」がその新しさを享受できるようにしたいという“デモクラシー”性を盛り込もうとした。……というか、エンジンとそれを積んだクルマであれば、さまざまな意味で「馬+馬車」を超えられるとイメージした。そのことを直感して、ヘンリーはまず「クワドリサイクル」を作り、さらに、そのコンセプトを発展させて「T型」として具体化した。この洞察と展望、そしてその実行力には、やはり偉大という言葉を捧げるしかない。

……ところで、終盤までこの書「 THE FORD CENTURY 」を読んできて、ようやく気づいたことなのだが、この本は、ラス・バナムというひとりのジャーナリストによる著作物であった。フォード社がその「百年」を記念して刊行した……という触れ込みだったので、社内データや社内報を100年分まとめたような、そして一種のPR本でもあろうと勝手に思い込んだのだが、それは大きな間違いであったようだ。

ひとりの著者が、そのジャーナリストとしての視点で、あるメーカーの「百年」を考察して記述した。だから、内容にしても文章にしても血が通っていて、無味乾燥でもない。構成や細部に、個人(著者)の息吹が感じられる、そんな書物になっている。

もちろん、フォード社やフォード家、さらに広告代理店などは、写真や記録を提供するなど、この書と著者にはかなりの協力をしていると思う。しかし、そうであっても、彼らは、著者が何を書いて何を書かないかということについては立ち入っていないのではないか。(だから、労働争議の際に会社側の警備員に殴られて鼻血を出した労働組合幹部の写真が載っていたりする)

そして、ここでも話題とした、フォードにとっての重要な「25台」というのも、フォード側が決めたのではなく、著者ラス・バナムによるセレクトだっただろう。世界中に子会社をどんどん作り、いろいろなメーカーと提携し、時には傘下に収めてきた。フォードという会社には、そういう歴史もある。これが著者の「フォード観」であり、ゆえに、マツダの軽三輪やレンジローバーが堂々と登場していたのだ。

さて、そのラス・バナムは、ヘンリー・フォードのパーソナリティというか、彼がどんな人であったのかということについて、この「 THE FORD CENTURY 」では、どう描いているか。「ヘンリー・フォード:非凡な一般人」という章があるので、そこから引用してみる。

「ヘンリー・フォードは、器用で仕事中毒の実業家であり、いったん決めたらやり通す厳しい独裁主義者でもありました。また、社会的な慈善家であり、自然主義者であり、すぐれた民俗学者でもありました。非常に多様性に満ち、奥の深い人柄から、これまでに百を超す数の伝記で、ヘンリーの人物像が描かれていますが、いくつかの側面を強調する一方で、全体像があいまいとなってしまっています」

「明らかなことは、実業家としてのヘンリー・フォードと、ひとりの人間としてのヘンリー・フォードという二つの人物像は、必ずしも一致はしていなかったということです。彼は自動車にとどまらず、国際政治、農産物の工業利用、環境保護、仕事を通した人間的成長などに興味を持っていました」

「ヘンリーは、シンプルで素朴なものを好み、見栄や人混みを嫌いました。上級階級の人々と付き合うよりは、むしろ自宅で家族や友人たちと過ごしていました」「酒、賭け事、タバコを嫌い、いたずらが大好きでした」

「彼は流行に合わせて自分の意見を変えることはなく、タバコや贅沢な食事、酒類を嫌いました。とくにタバコについては小冊子の中で、『白い奴隷商人』と呼ぶほどでした。禁酒法が施行されていた1929年に、彼は『米国に酒が戻ってくることがあれば、私は製造業を止めるだろう』と公言していましたが、これは実現しませんでした」

(つづく)

○タイトルフォトは、ヘンリー・フォードとトーマス・エジソン。「 THE FORD CENTURY 」より。
Posted at 2016/03/28 12:41:31 | コメント(0) | トラックバック(0) | Car エッセイ | 日記
2016年03月20日 イイね!

フォードの不在……《7》

フォードの不在……《7》「T型」発売以後のフォード社は、もう快進撃である。そして併行して、さまざまな改革も進めていく。後世に「フォード主義」とかフォードの方法として知られることになる、たとえば「流れ作業」にしても、それらはみな「T型」から始まった。クルマ(モデルT)が大量に売れた、さあ、どうやって作ればいい? ……この時のフォードはおそらくこういう状態で、言い換えれば「T型」によって、フォードというメーカーも変わったのだ。

「T型」は、発売の初年度には1万0660台が生産され、価格は825ドルだった。そのクルマが、1924年には「259ドル」になった。ヨーロッパへも輸出され、イギリスでは50万台のT型が売れた。そして単に乗用だけでなく、牛や馬の移動、消火活動のため、さらに芝刈りなどにも利用された。

フォードは1909年に、製品をT型に一本化した。新たに建設した工場に「流れ作業」を導入するのが1913年。組立ラインで、作業員は動かずに、車体の方が工場内を動いていく。今日でも行なわれている自動車生産の基本のスタイルは、この時に編み出された。この変革によって、それまで組立てに「12時間半」を要していたのが「5時間50分」になった。

1914年には、一車種しか作らないその車体色を「黒」だけにした。理由は、黒色のエナメル塗料が最も早く乾燥したから──。道具に“色気”は要らないとヘンリーが言ったかどうかは定かではないが、ヘンリー・フォードが「自動車」をどう捉えていたかが伝わってくる挿話ではある。これによる実効もあって、一台の製造時間はさらに縮まり「93分」になったという。

歴史家のエリック・エッカーマンは、フォードの「モデルT」について、以下のように述べている。(『自動車の世界史』より)

──フォードは1908年にT型を発表し、ベルトコンベアによる生産方式を導入した。1914年初頭には組み付けラインを高くし、直立作業姿勢の原理を導入。さらに、標準化と規格化による部品の簡単化を実現した。また、ほとんどすべての部品の自社生産も行ない、型式と技術的変更を少なくして、異なった年式であっても交換部品の取り付けを可能にした。クルマは簡潔な機構で、村の鍛冶屋でも修理ができた。

さらにエッカーマンは、「フォードによる自動車の民主化」を指摘している。フォードは自社の工員に、他社よりも高い賃金を支払い、1日あたり5ドル、月に130ドルの最低賃金を示した(1914年)。T型の価格は290ドル(1924年)になった。ベルトコンベア労働者を大量消費社会の一員にした、と書く。

T型絡みでは、この「 THE FORD CENTURY 」には、興味深いヘンリーの発言が載っている。それは「T型の登場で、馬は不要になった。次は、牛が不要となる番だ」というもの。「牛」の件は後述するとして、まず、ここで「馬」といっているのは、馬車や農作業などにおける馬の役割のことであろう。

このコメントは「T型」の成功後に語られたようだが、ちょっと時をさかのぼれば、機械好きの少年だったヘンリーが蒸気機関やガソリンエンジンに触れた時の直感と展望が、この言葉になっていると思う。世に「原動機」というものがあるなら、乗馬趣味における馬は除外するとして、もう使役として馬を使う必要はなくなる。

そして、蒸気とガソリン、どちらの原動機も自作してみたヘンリーは、蒸気機関は路上での使用には適さず、“馬なし馬車”にはガソリンエンジンの方が優位だと確信する。さらに、「馬」と新種の“自動車”を比較して、ガソリンエンジン(内燃機関)であれば、維持費などの経済的な面でも、馬や馬車を超えられるとイメージした。だからヘンリーは、N型にしてもT型にしても、その価格には大いにこだわった。

農家に生まれ育ったヘンリーは、自身は成人して技術者となる道を選んだが、農業人であることを捨てたわけではなかった。「人間が馬を操り、何時間あるいは何日もかけて畑を耕すのは、なんと無駄なことだろう。トラクターがあれば、同じ時間で6倍の仕事ができるかもしれないのだ」(ヘンリー・フォード)

1882年というから彼が19歳の時だが、その年にヘンリーは、刈り取り機を改造して、農耕用の“蒸気トラクター”を作っている。この時の彼の目的は、「日の出から日没まで畑にいなければならない、平均的な農家の父親を助ける機械を作ること」だった。

ヘンリーは1906年に、実験車として「自走式耕作機」を作り、翌年にはそのトラクターに、N型に搭載していたエンジンを載せた。「軽くて丈夫な、操作が簡単で誰もが運転できるようなトラクター」を「誰でもが手の届くような価格で」作りたいとも語った。

農家に生まれ、少年期にガソリンエンジン(内燃機関)に触れて、それを仕事に選んだ青年は、その出自である農家と農民、そして農業、さらには社会全体のために、何をしたかったのか。こういう視点を設定すると、「ヘンリー・フォード」という存在とその行動は一挙にわかりやすくなるようだ。

ちなみに、ヘンリーの「次は、牛が不要となる番だ」という言葉の意味は「豆乳」のことであった。ヘンリーは、科学者ワシントン・カーパーと共同で、大豆の工業的用途の開発に取り組み、豆乳は牛乳に匹敵する高栄養食品であると奨励し、豆乳製造のための工場を建設した。

「技術」で農業や社会を助けたいというのがクルマやトラクターの製造だったとすれば、ヘンリーはさらに進んで、「技術」によって“農作物”を生み出したいと意図したのだろう。農業人にして技術屋──そんなヘンリー・フォードの主張と立ち位置が、この「T型の登場で、馬は不要になった。次は、牛が不要となる番だ」という発言に集約されていると思う。

「T型が発表された1908年、アメリカには600万軒もの農場があり、国民の半数以上がそうした農場で生計を立てており、それぞれの村の人口が2500人に満たない農村で暮らしていました。アメリカには20万台の自動車がありましたが、自動車を所有している農家は全体の2%にも満たないのが実状でした」

「T型は、こうした農家のニーズを満たす絶好の時期に登場しました。庶民は馬車に慣れており、移動手段の馬が原動機に変わるという変化を無理なく受け入れたのです」(「 THE FORD CENTURY 」)

(つづく)

○タイトルフォトは、彼の農場で種まきをするヘンリー・フォード。「 THE FORD CENTURY 」より。
Posted at 2016/03/20 18:33:03 | コメント(0) | トラックバック(0) | Car エッセイ | 日記
2016年03月15日 イイね!

フォードの不在……《6》

フォードの不在……《6》……急いで読者に報告しなければならないが、ひとつ早トチリをしてしまった。この書「 THE FORD CENTURY 」では、草創期フォードの「AからSまで」のモデルについて、まったく無視していると書いたが、実はそうではなかった。読み進んでみると、後半の技術史を語っているパートで、この時期のモデルについて、そしてこの時期の組織改変についても触れられていた。

まず、フォード社による最初の「フォード製品」は1903年の「A型」で、2気筒の8馬力エンジンを搭載。これには「15歳の少年でも運転できるほど簡単操作」という広告コピーとともに、850ドルのプライスタグが付いていた。

その後、フォード社は1905年までに1808台の「フォード」を売って、株主には配当金を出し、新たに三階建ての工場を建てた。つまり、新生フォード社は上々のスタートを切ったということであろう。そしてその間、車種も揃えている。「ご好評にお応えして、お客様それぞれのご要望を満たすべく、フォード・モデルの製品ラインをすべて取り揃えています」というのが、その時の広告コピーだった。

おそらく、ここまではフォードも、当時のそのへんによくあるようなカー・メーカーだったのではないか。ただ、「AからSまで」の間にはいくつか実験モデルもあったが、ヘンリーだけはその間、彼としてのテーマを持っていた。その彼のテーマが「より多くの人々のための経済的なモデル」を作るということである。

ただし、これは当のフォード社の中でも多数派ではなく、社内には異見があったという。共同出資者のマルコムソンは、K型(2800ドル)やB型(2000ドル)のような利益の高い高級車を作るべきだと主張して、ヘンリーに反対した。それがどのくらい本気だったかというと、マルコムソンは自身で別会社を起こし、豪華なツーリングカーの製造を始めたことで知れる。

しかし、彼が押したK型は910台しか売れず、マルコムソンは持ち株をヘンリーに売却して、他の株主もそれに倣った。これが1906年のことで、この結果、ヘンリーが58%以上の株を持ち、フォード社の主導権をヘンリーが握るという体制になる。

そんな新体制から生まれたのが「N型」だった。小型にして軽量、エンジンは4気筒で、価格は600ドル。そしてこれは画期的な自動車であり、初の給油式で、エンジンとミッションを備え、ワイヤーハーネスも整えられていた。この「N型」はヒットし、「その価格で入手できる最高級車として、瞬く間にセンセーションとなり」(「 THE FORD CENTURY 」)、1906年から1908年までの一年半で、業界の記録となる6930台を販売した。

「N型はヘンリーがめざしていたクルマだった。N型は小型で耐久性に優れ、軽量で、価格の割りには高性能であった。しかし、四~五人乗りのサイズではなく、最高三人までしか乗れなかった」という交通歴史学者ボブ・ケーシーの言葉を、「 THE FORD CENTURY 」は載せている。さらに彼は「N型を改良しようと実践を重ね、後続モデルに完璧なクルマを求めて研究を続けた」として、T型とのつながりに言及する。

なるほど! やっぱりT型への“導線”となるようなモデルはあったのだ。(これは、日本の1960年代トヨタにおける、パブリカとカローラの関係にちょっと似ているかもしれない)そして、もうひとつ明らかになったのは、ヘンリーという人は最初から、コンパクトで実用的な、そして廉価なクルマを作ることを考えていたこと。この発想とそこからの実践は、当時の状況を想像すると、やはり驚きに値すると思う。

……というのは、図らずもフォードの最初の共同株主マルコムソンがそうであったように、「高価なものを売ろうよ!」……となるのが、当時の普通の戦法のはずだからだ。草創期のフォード自身も、そのようにラインナップを揃えている。クルマというものが2800ドル(K型)とか2000ドル(B型)するのが普通であった(と思われる)時代に、しかし、ヘンリーがイメージして実作したのは、A型にしてもN型にしても、どちらも“アンダー1000ドル”カーだった。

そして、N型をベースに、その「ユニバーサル・カー」化を計ったのがT型で、このT型を大量に作るために考え出されたのが、後に量販車製作メソッドのスタンダードになる「流れ作業」である。

安いクルマだったから売れたのか、量産して安くなったので、多くの人が買ったのか。これはニワトリとタマゴの関係に似ているかもしれないが、廉価車を作って、それを売って、なおかつ儲ける(会社を存続させる)ためには、安価である分、そのクルマを数多く売らねばならない。

一方で、その「量販」を確実にして、その販売を加速するためには、単にクルマを安価にするだけでは、おそらく足りない。ヘンリーが非凡であったのは、ここで「廉価車」にこそ、新技術やハイ・クォリティを投入するという方策を採ったことだ。このヘンリー・フォードの果敢にして大胆な戦略が、クルマとその世界を変えた。

『自動車の世紀』(折口透)では、「モデルT」の“新しさ”について、「クルマは金持ちのものであるという常識を打破。大衆に手の届く価格を設定。安価、軽量かつ頑丈、誰でも取り扱える」と語り、加えて、「低価格車だが、惜しみなく最新の技術を投入。フレームに、当時は珍しいヴァナジウム鋼を使用。一体鋳造された4気筒エンジン。シリンダーヘッドは取り外し可能でオーバーホールが容易」だったと、当時のフォードとそのT型を評している。

そして「 THE FORD CENTURY 」によれば、1908年に新しい自社工場をピケット・アベニューに設立。これは「ユニバーサル・カー」の開発を目的としたもので、同じ年の10月に、T型の生産体制が整ったとしている。

その「T型」は、当時、最も軽量かつ小型で、その重量に対しては強力なエンジンを積んでいた。そして、スクリュー・ドライバーと数本のレンチ、さらにペンチがあれば修理できる簡潔な構造で、これはその頃「サービスステーションがほとんど無かったため、簡単で、手早く修理できることが重要だった」(ブライアン・フォード)からだった。

それは「高さがあって、角張っていた地味な」クルマであり、「人々は親しみをこめて『ティン・リジー』と呼んだ」。ティンは“ブリキの”という意味で、「リジーは、信頼のおける優れた使用人を指す俗語」であるという。つまり「ティン・リジー」とは、ブリキ製でチャチだけど、でも極めて有能な、とても信頼できる、わが家の執事……といった意味になるのだろうか。

○タイトルフォトは、1906年フォードN型ランナバウト。「 THE FORD CENTURY 」より。

(つづく)
Posted at 2016/03/15 17:40:15 | コメント(0) | トラックバック(0) | Car エッセイ | 日記
スペシャルブログ 自動車評論家&著名人の本音

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「【 20世紀 J-Car select 】vol.14 スカイラインGT S-54 http://cvw.jp/b/2106389/39179052/
何シテル?   01/15 10:59
家村浩明です、どうぞよろしく。 クルマとその世界への関心から、いろいろ文章を書いてきました。 「クルマは多面体の鏡である」なんて、最初の本の前書きに...
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