
F1マシンのコードネームで、いま一番有名なのは、王者マクラーレン・ホンダのあとに続く「MP4/*」ではないだろうか。1991年の第1~2戦を制したのが「MP4/6」であり、1990年のチャンピオン・マシンがご覧の「MP4/5B」。「MP4/4」がその前年、つまり1989年だが、いやぁ、このクルマは速かった! 16戦中15勝、そして13回のポールポジション獲得だ。
ほとんど神話のような強さだったこの年は、マクラーレンとホンダが初めてジョイントし、1・5リッター+ターボの最後の年でもあった。「鈴鹿」では、あのアイルトン・セナがスタートで、何とエンジン・ストール。しかしその後に、アラン・プロストも含む全車を抜き去り、セナにとって生涯初のワールド・チャンピオン。涙のクールダウン・ラップという、日本の観客にとっても劇的なレースとなる。
もちろん、マクラーレンの「MP4」シリーズは「ホンダ以前」から強く、たとえば1984年には、ドライバーにニキ・ラウダとアラン・プロスト。そしてパワーユニットがTAGポルシェという組み合わせで、16戦中12勝したし、1985年もプロストで、ドライバーズとコンストラクターズの二冠を得ている。
この時、ホンダのパートナーはウイリアムズ。マクラーレンMP4+TAGポルシェは最大のライバルであるとともに、最強の敵だった。1986年、ホンダ・エンジンはコンストラクターズのタイトルは得たが、チャンピオン・ドライバーはプロスト/マクラーレンだった。
1987年に至って、無敵のホンダ・エンジンは、ウイリアムズとネルソン・ピケによって、人とクルマのダブル・タイトルを得ることになる。この年、ドライバーのトップスリー、ネルソン・ピケ、ナイジェル・マンセル、アイルトン・セナは、すべてホンダ・ユーザーだった。その翌年の1988年とは、そういうエンジンとマクラーレンとのカップリングであったわけで、前述の凄いリザルトもフシギではない。
さて、「MP4」である。この「M」はマクラーレンの「M」であるといわれているが、ちょっと微妙な部分があることは後に述べる。そして「P4」とは“プロジェクト4”のことで、誰のなのかというと、ロン・デニスにとってのプロジェクトである。
では、プロジェクトの「2」とか「3」はあったのか? これはあった。「P1」から始まり、ロン・デニスがF3やF2のフィールドで、レース屋として着実に活動していた時期である。そしてロン・デニスの第四段階、すなわち「P4」が彼にとってのF1フィールドへのデビューなのだった。
それは1980年の9月。名門と呼ばれ、事実そうであって、1974年と1976年にはチャンピオン・チームであったマクラーレンだが、この頃は超・低迷期だった。名車マクラーレン「M23」(かつてはこういうコードネームだった)以降、いいクルマを開発できず、チャンピオンを取ってくれたドライバー(ジェームス・ハント)にも逃げられ、名門は勝てないチームになってしまっていた。
そこで行なわれたのが、マクラーレンと、ロン・デニス「プロジェクト4」との合併だった。そしてこの時、1960年代のF1ドライバーであったブルース・マクラーレンが自己の名を冠して作った「チーム・マクラーレン」は、事実上消滅した。(ブルース自身は1970年に事故死)なぜなら、ロン・デニスは合併後、一年も経たない時期に、旧マクラーレンの監督テディ・メイヤーを追放し、主導権を握ってしまったからだ。
この合併劇は、名門F1チームと新興レース屋とのジョイントだったが、この二つのグループにはひとつだけ共通項があった。それはスポンサー、そう、マールボロである。先ほど「M」とは何かということで微妙なものがあるとしたのは、実はこれだ。「M」はマクラーレンではなく、マールボロではないのか?
ロン・デニスが自チームのF1マシンを「マールボロMP4/*」と呼んでいた時期は確かにあり、また、F1マシンはノーズにコンストラクター名を示さなければならないが、そのステッカーが「マールボロMP4」となっている写真も残っているのだ。
ともかくマクラーレンは、1981年シーズン途中から「MP4」となった。最初は「1」など付かない、ただのMP4だったが、これ以後のマクラーレンはすべて、MP4のいくつというコードネームとなって、今日に至っている。(注1)
○注1:2月21日に発表されるというマクラーレンの2016年型F1カーの名称は「MP4/31」である。
(つづく) ── data by dr. shinji hayashi
(「スコラ」誌 1991年 コンペティションカー・シリーズより加筆修整)
Posted at 2016/01/30 23:42:46 | |
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