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家村浩明のブログ一覧

2015年01月31日 イイね!

目立たぬ巨人からの、日本市場への優れたプレゼント──オペル・オメガ

目立たぬ巨人からの、日本市場への優れたプレゼント──オペル・オメガ§日付けのある Car コラム
§『アクション・ジャーナル』selection

ことニッポン市場において眺める限り、オペルとプジョーという二社はけっこう似ていると、いま気づいた。

まず、ともにヨーロッパの巨大な量産車メーカーでありながら、この国では、あまり著名でない。もうひとつのフィアットという大メーカーは“イタリア”というせいなのか、そこそこの知名度ありのようだが、この二社はこれまで、どうも知られざる巨人であった。

そして、自動車史の草創期から今日までをしっかり生き延びてきたという点にも共通項があり、なかなか堅実なクルマ作りをその旨とし、ドメスティックな市場でとても強い。こういう顔も、ともに持つ。

つまり、エキセントリックなところがまるでない。また、“高級オドカシ商売”もしない。このへんが「外車」という語感に、ややそぐわない? まあ、この国の現状ではこうも言えるので、ジャーナリズムにおいても、誌面上で“持ち上げにくい”メークスのうちの二つになっているようだ。また、「いかにも外車」というメルセデスやシトローエンといったメーカーが彼らのすぐそばにいて、それらの蔭に隠れてしまう、そんな気配もある。

そしておそらく、以上のような理由のすべてによって、90年代を目前にした今日のニッポン・マーケットに、非常に熱心な攻勢をかけてきている。このへんも、大いに似ているところである。その際の手段も、従来からの外車ディーラーという枠(=限定商売)に囚われることなく、日本車の販売ネットワークにも乗せて拡販をめざしている。それがプジョーはスズキ、オペルはいすゞであるのは、ご承知の通りだ。

では、他の有名ブランド車に較べて、この二メーカーの製品はどうなのか? この問いへの答えもまた、共通したところがある。たとえば製品においても、ともに過剰な「個性」を主張しない。そして、風土を超えての国際商品を希求している点も、プジョーとオペルの共通の特徴であろう。

とりわけ、今週のクルマ、オペルの3リッター級のセダンであるオメガは、隠れた良品である。それも、特筆すべきレベルの! 興味深いのは、このオペル・オメガが、われわれ日本人にもわかりやすい「高級車」としての特質を備えていることで、この静粛性の高さと装備の豊富さは、十分にその出費に見合うもののはずだ。

また、乗り心地の面でも、いわゆるスポーティ版でありながら、たっぷりとしなやかで、やわらかいレカロ・シートに包まれての走行は、快適にしてゴージャスなものであった。一部の西独車のように、たとえば、足やシートが硬いのは、これはドイツの走行条件があーだこーだから云々……といった“説得商品”ではないのだ。日本人が黙って乗って、そして、そのままわかる。説明不要の高級セダンなのである。

一方、「走り」の内容はまったく妥協のないもの。豪華さ、乗り心地、静かさの確保といったファクターは、「走り」をまったくスポイルしていない。オペル・オメガは、若々しいアスリート・カーでもある。

……外車ブームとかであるらしいが、その実態は、異国の(未体験の)有名ブランド志向でしかないのではないか。また、単なる「高価さ」への憧れという傾向も垣間見える。(高いこと、それ自体が買い手として嬉しい?)しかし、このオペル・オメガはそのような中で、正しくバリュー・フォー・マネーというべきモデルであり、クルマに500万円を出せるという方々に、このオメガは要チェック車種としてお奨めできる。

まあ、対・日本車という軸で考えると、価格にしても、ハナシは若干フクザツになるが、しかしここでも、決して不当に高価ではないはずだ。……そう、こういうクルマと価格の見合いをこそ、言葉のほんとうの意味で「リーズナブル」というのである。

(1989/06/27)

○89年末単行本化の際に、書き手自身が付けた注釈
オペル・オメガ3000(89年~  )
◆たしかにこれは、あまり上品な風貌とは言えないかもしれない。エアロ・パーツでワイドタイヤの迫力! ただし、これらもまた、アウトバーンという環境の要請を受けた造型なのだと思う。そして「上品/下品」という批評軸の意味を、ぼくは実は疑っている。あるクルマに対して、下品だという評は可能なのかもしれないが、それは翻訳すると、本能的とか、速さ剥き出しとか、つまりは性能の主張というだけのことではないのか。上品な自動車というのが、果たして、この世に存在し得るのだろうか……? 

○2015年のための注釈的メモ
外国製の「量販車」というジャンル、またそのメーカーを、過去も現在も、日本マーケットはなかなかうまく“遇せない”ようだ。日本のカスタマーは、外国モノにはその種の要素は求めない? あるいは「量産モノ」こそ日本メーカーが大得意であることを、直感的に察知している? まあ、これらの相乗作用なのかもしれないが、ゆえに日本市場は、たとえばアメリカ車とそのメーカーにはあまり“熱く”なれない。そしてオペルとは「GMヨーロッパ」であり、この国のそんな風土と“気分”の中で、00年代に、オペルは市場からフェードアウトしてしまった。

ただ、ちょっとだけ“懐メロ”を歌わせてiいただくと、1970~80年代、当時GMグループであった「いすゞ」が日本で生産・販売したジェミニ、そしてアスカは、オペル車=GMの世界戦略車、そのジャパニーズ・バージョンであった。そして個人的にも、FRジェミニには乗っていたことがある。色は濃茶メタを選んだので、周りからは“ゴキブリ色のジェミニ”として親しまれたが(笑)。
Posted at 2015/01/31 13:19:18 | コメント(1) | トラックバック(0) | 80年代こんなコラムを | 日記
2015年01月30日 イイね!

素晴らしき父とその娘 ~ 映画『アラバマ物語』 《6》

その6 「ニガーと言ってはいけない、スカウト!」

一緒に行きたがったが、結局クルマの中で眠ってしまった6歳の少女。帰宅後、寝室にスカウトを寝かしつけ、父は「キャルを送ってくるから、家を頼んだぞ」と息子に言い、外に出て行った。家政婦のキャルは“通い”であるようだ。一人になった(スカウトは眠っている)ジェムは、不安に駆られたか、家を出て、夜の町に走り出す。「アティカス!」……。

その時、“ブー”の家のテラスにある“ぶらんこ椅子”が揺れていた。ついさっきまで、誰かが乗っていたのか? ということは“ブー”は外に出ていて、いま行動中? 不安そうに辺りを見回すジェム。

そしてジェムは、木の幹にある“穴”に、何かが置かれているのを発見する。それは、メダル+紐、あるいはキーホルダーのようにも見えるもので、ジェムはそれを手にすると、家に駆け戻った。(このナゾもしくは伏線は、この時はそのままに物語は進む)

女声のナレーション。
「アティカスに、学校でケンカはするなと約束させられたが、私はそれを守れなかった」
「とくにセシル・ジェイコブスの挑発は、私に、その“掟”を忘れさせた」

父との約束を果たせず、またケンカしてしまったスカウト。そんな自分を恥じているのか、彼女は顔を隠してテラスの椅子に座っている。そこに、父アティカスが来た。
父「どうしたんだ?」
娘「アティカスは、黒人(ニガー)の弁護をするの?」
父「“ニガー”と言ってはいけない、スカウト」
娘「私じゃない、セシルが言ったのよ。だから、ケンカした」
父「スカウト、どんな理由があっても、ケンカはしてほしくないな」

アティカスは、娘の横に並んで座った。
父「私が黒人(ニグロ)トム・ロビンソンの弁護をするのは本当だ」「子どものお前には、理解できないことがたくさんある。町の中には、トムの弁護に反対する者も少なくない」
娘「反対されてるのに、どうして?」
父「一番の理由は、もし(弁護の要請を)受けなければ、私は不公平な人間になることだ」(アティカスは「この町で、私は顔を上げて歩けなくなる」という表現をしている)「お前たちスカウトやジェムを、怒ったり説教したりする資格もなくなる」

父は、娘の肩に手を回して言った。「何を言われてもケンカはしないと、約束してくれ」。スカウトは悔しそうに「イエス……」と答えて、立ち上がった。

(つづく)
Posted at 2015/01/30 17:55:06 | コメント(0) | トラックバック(0) | クルマから映画を見る | 日記
2015年01月29日 イイね!

素晴らしき父とその娘 ~ 映画『アラバマ物語』 《5》

その5 シボレーに乗った保安官

この町を、フェートン・タイプの乗用車で動き回るのは保安官のテート。このカウンティのシェリフで、彼が乗るクルマはシボレーである。(注1)フィンチ家の前の道路に、一頭の狂犬がいるという家政婦からの通報を受けて、アティカスが保安官のクルマに同乗して家に戻って来た。

遠くから見る犬は動きもおかしく、たしかに病気であるようだ。保安官テートは「こっちに向かってくる前に撃つべきだ。射撃は、きみの方がずっと巧い」と、アティカスにライフル銃を手渡す。「もう何年も撃っていない」と言いながらも、アティカスは一発で狂犬を仕留めた。

息子ジェムが目を見張る。ジェムはこれまで、父が銃を撃つのを自分の目で見たことはなかったのかもしれない。そんな息子に、保安官は言った。「何をビックリしてる? きみの父は、このカウンティでも一番の銃の名手なんだぞ」

そして、ある日のフィンチ家ガレージ。そこに収まっていたクルマを、アティカスがバックで車庫から出そうとしている。その時、子どもたちが駆け寄った。「一緒に行く」「連れて行って」

父は、仕事の話をしている間は「クルマの中でじっとしていられるか?」と確認し、二人がクルマに乗ることを許した。観音開きタイプのリヤ・ドアを開けて、後席に乗り込む息子ジェム。娘スカウトも、反対側のドアを自分の手で開けようとしている。

このフィンチ家のクルマは、サイドにウインドーが三つある、いわゆるシックスライト造型で、フォード/シボレー・クラスとはワンランク違う上級機種に見える。映画ではフロントグリルが映る場面が一度もないので、車種を特定するのはちょっと難しいが。

ただ、このクルマや着ている服を見れば、「うちも貧乏だ」とアティカスが娘スカウトに言ったのは言葉のアヤだったことがわかる。弁護士フィンチは、少なくともクルマについては、保安官より高価なものに乗っているし、また、服もいつも整っていた。

この時、夜をついてアティカスが出かけて行ったのは、「トム・ロビンソン」(被告)の家族のところだ。町はずれだろうか、少なくともフィンチ家よりは小さく、そして、その割りには人がいっぱい住んでいる(らしい)家の前に、アティカスのクルマが着いた。

夜を走るクルマに揺られてスカウトは眠ってしまったようだが、ジェムは起きていて、車内から父の様子をじっと見ている。子どもの目線の先にあるものを描くというシナリオのスタンスは、ここでも貫かれ、ロビンソン家に入ったアティカスが中で何をどう話しているのかは、観客にはわからない。一方、ジェムとスカウトが残ったクルマとその周辺で何が起こったかは、しっかり描かれる。

ジェムはクルマの中から、状況をじっと見ていた。すると、この家の子どもだろうか、黒人の少年が一人、クルマに近寄って来た。軽く手を挙げて、少年に挨拶するジェム。それに応えて、少年も頷く。

しかし、アティカスのクルマに近づいてきたのは、黒人少年だけではなかった。今度は、どこから現われたのか、酔っているらしい白人の中年男が近づいてきて、ボンネットを叩き、室内を覗き込む。中にジェムがいることは、外からは見えていないのかもしれない。この時クルマは、少年ジェムをガードするカプセルになっていた。

男がクルマから離れたと見たジェムは、黒人少年に「パパを呼んできて」と頼んだ。だが、呼びに行くまでもなく、用を済ませたアティカスが家から出て来た。そこに、酔った男が近づく。「ニガーの仲間め!」(お前は“ニガー・ラバー”だ!)脅したつもりか、この一言だけで、白人男は去って行った。

運転席に乗り込んだ父の手に、息子が触れてきた。父は「何も怖がることはないぞ」と息子に言って(原文には「すべてブラフなんだ」という言葉が入っている)、クルマをスタートさせた。帰宅後、少しだけ顔をしかめながら、父は「世の中には汚い部分がある」「お前には見せたくないが、残念ながら、それは不可能に近い」と、息子に言った。

(つづく)

○注1 
保安官が乗ってきたこのクルマを、写真一枚で「シボレーのAB型、年式は1927~28年だね」と鑑定してくれたのは、旧車と航空機に詳しい川上完さんだった。……「だった」と過去形で書かなければならないのは、悲しいことに、彼がもう故人だからである。彼の好きな航空機をネタに、共作で web 記事を作ろうとしていて、最初の五回分までは実際に原稿も作ったのだが、逝去によって、その掲載や展開も不可能になった。あまりにも急だった訃報に接して以後、彼と私の時間は止まったままだ。合掌、そして、ありがとう完さん……。
Posted at 2015/01/29 21:21:24 | コメント(0) | トラックバック(0) | クルマから映画を見る | 日記
2015年01月28日 イイね!

私の“ニュル”ノート 《3》

私の“ニュル”ノート 《3》その3 “ニュル伝説”

「都市伝説」とは、いかにも本当のことのようで、ふと信じかけてしまうけれども、しかし、よく考えればそんな実態はなく、要するに一種のホラ、もしくはウソ……ということであるらしい。そうすると、ニュルブルクリンクの「北コース」にまつわる話で、うっかり“伝説”という言葉は使わない方がいいのかもしれないのだが、ただ、「ニュル」では、そんな“伝説”の域に達したようなエピソード、また、この“道”についてのジョークや笑い話が、私の知る限りでもいくつかある。

まずは前回にも記した、レース中に、フラッグの指示に従わないクルマの屋根をオフィシャルが叩くという話。たしかに、このコースの「狭さ」を語るには、これはよくできている。しかし、走るレーシングカーは、たとえコーナリング中であっても相当に速いはず。そんなクルマの、しかもルーフという限られた面積を、棒でも旗竿でもいいが、その種のもので的確にヒットすることは可能なのか? この話はやはり眉にツバを付けて聞いた方がよさそうで、「ニュル」をめぐるジョークのひとつとして、静かに微笑んでいることにする。

そういえば、コースの狭さ、すぐにガードレールがあるという状況では、こういう話も聞いた。ある人がここでのレースに出場しようと、既に何度か参戦経験のある先輩に、スペアパーツとしてはどんなものを用意したらいいかと質問した。その時に返ってきた答えは、こうだった。「あ、要らない。あそこ(ニュル)は、やっちゃったら“航空事故”だから」……

「ニュル」では、もし事故ったら、クルマはグシャッとなって修復不可能。直せないくらいに壊れるから、スペアパーツなど要らない。これはなかなか本質に触れたブラックジョークで、冗談の衣を着たリアル話だとも思う。そして、このコースでレースする(他車と闘う)ことのシビアさを示す挿話でもある。

さらには、ちょっと不謹慎だが、こういうのもある。「ニュル」で事故があった。そして、ヘリコプターが飛んで来た。この場合は、事故ったドライバーは、デッド・オア・アライブのうち“アライブ”の方である。一方で、事故の後でピーポピーポと、救急車が走ってきたら、それは、もはや“アライブ”ではない可能性が高い。一刻を争う必要がないので、空軍でなく陸軍が来たのだ。そしてこれは、そのくらいにここでの事故が多いことを示してもいる。

あるいは、不肖私が自身の体験から作った、やや情けないレベルでの逆説ジョーク(笑)。それは、「ヘタッピで遅いドライバーほど、“ニュル”は安全である!?」。そう、コースは見えない、長くて憶えられない。ゆえに、遅いドライバーは何のプランもイメージもなく、目の前に次から次へ現われるコーナーを、ただただドロドロッとなぞるだけ。そういうドライバーは、そもそも、このコースが危険になるような速度で、ここを走ることはできない。ゆえに、壊さず、ケガもせず……。

そして、もうひとつ。あるメーカーのテスト担当の某氏が語ってくれた“ニュル伝説”がある。ただ、これは私が勝手に想像を入れて拡大解釈している恐れもあるので、メーカー名と人物名は伏せておく。

テーマは、「ニュル」を走るクルマにとって、必要な要素は何か。まずは基本的なこととして、ボディの剛性がある。強烈で複雑な「G」がかかるこのコースを走るクルマは、しっかりした足と、それを支える(それの支点となる)髙剛性のボディが必要。これが「ニュル」を走るための第一の要件、つまりボディの「張り」だ。

ただし、その髙剛性のボディ、つまり「張り」が有効なのは、「ニュル」においては、ある速度域までだという。それよりも速い領域、さらに高速で「ニュル」を攻めるなら、もう「張り」だけでは間に合わない。その領域で求められるのは、ボディの「しなり」である。「張り」と「しなり」、この二つの要素があって、はじめて、「ニュル」を走るに適切なクルマ(ボディ)になる。

その理由は、これまた私の想像が含まれるが、「北コース」のこの“道”は、コースや路面からのクルマへの「入力」が恐ろしく複雑! そして、そうした「質」だけでなく、その「量」もまたハンパではない。そこから、ある速度以上の高速で走ろうとすると、サスペンションの「能力」を使い切ってしまうのだ、おそらく……。そして、そこから先の領域では、ボディ(車体)自体を“サスペンション”にして、コースに立ち向かう。

言い換えると、そういう機能を持ったボディを、「ニュル」というコースは求めてくる。そして、クルマとボディにそんな「性能」を求めてくるのは、世界広しといえども、この「北コース」だけ。「ニュル」はそんな“伝説”を抱えた唯一無比の“道”なのであった。
Posted at 2015/01/28 23:57:21 | コメント(0) | トラックバック(0) | Car エッセイ | 日記
2015年01月27日 イイね!

素晴らしき父とその娘 ~ 映画『アラバマ物語』 《4》

その4 モッキンバードだけは撃つな!

しかし、学校に行ったスカウトは、初日から、さっそくケンカしてしまう。その相手は、家に農作物を持ってきた農夫カニンガムの息子だった。ジェムは、妹の行為を謝りたいということもあったのか、その息子をディナーに招待する。

フィンチ家の夕食の席に来たカニンガムの息子は、食卓でステーキを囓りながら、「ロースト(牛肉)は久しぶりだよ。いつもウサギかリスだから」と言った。この息子は父と一緒に狩りをして、その時に獲れたものを食べているということだろうか。

その狩猟は銃で行なっているので、今度はジェムが父に“銃体験”を訊いた。この時の父アティカスの答に、映画の原作名になっている「マネシツグミ」(=モノマネ鳥=モッキンバード)が出て来る。

アティカスは、初めて銃を撃った(父に撃たせてもらった)のは13歳か14歳の時だったと、ジェムに語る。最初は裏庭で、空き缶を撃って練習した、と。そして「慣れてくると、鳥を撃ちたくなるものだ」と続けたアティカスは、さらに言った。

「アオカケス(ブルージェイ)なら、好きなだけ撃っていい」
「でも、マネシツグミ(モッキンバード)だけは、絶対に殺すな」

すぐに、ジェムが父に訊ねる。「なぜ?」
父「モッキンバードは、きれいな歌声を聞かせてくれる無害の鳥だ」「庭も荒らさないし、巣もむやみに作らない」「ただ美しい声で、われわれの心を癒してくれる」

……なるほど、“モッキンバード”は、アメリカのカントリー・ミュージックの歌詞にはしばしば出てきて、また、そのままこれをタイトルにした曲もある。単語だけは聞いていたが、それがどんな鳥なのかはこの映画を見るまでは知らなかった。

ここで、家政婦のキャルが食卓にシロップを届けた。牛肉は滅多に食べないという今夜の客の少年は、そのシロップを、皿の上の牛肉にたっぷりと掛けてしまう。これは、獲ってきたリスの肉などを食べる際には、カニンガム家ではこうしていたということかもしれないのだが。

しかし、その“暴挙”にスカウトがキレた。「何してんのよ!」、叫ぶスカウト。すかさず、アティカスがコンコンと指でテーブルを叩く。警告の意味だが、この時の対象は“暴挙”の少年ではなく、自分の娘だった。

続いて、いかにもフィンチ家らしいと思える光景が展開される。他の白人家庭でこんなことが起こるのかどうかはわからないが、家政婦キャルが食堂に入って来て、一家の食卓に介入したのだ。キャルは言った、「スカウト、お話しがあるわ。こっちへいらっしゃい」。その声に、素直に立ち上がる少女。

キッチンで、黒人女性のキャルはスカウトに説教した。「あの子は、お客様なのよ」(原語では「 That boy is your company. 」)「食べ方に文句を言ってはいけません。いい子にできないなら、台所で食べなさい」

台所からも逃げ出したスカウトを追ってきたのは、父アティカスだった。テラスにある椅子にいる娘の横に、父が座った。「学校はおもしろくない、もう学校へは行かない」と言うスカウト。そんな彼女に、アティカスは語りかけた。
「考え方を少し変えればいいんだ。そうすれば、みんなと仲よくやっていける」
「相手の立場で考えてみることだ。その人になって、想像力を働かせるんだ」

さらに、父アティカスと娘スカウトは会話する。
父「スカウト、妥協って知ってるか?」
娘「法を破るってこと?」
父「いや、よく話し合って、互いに理解することだ」

女声のナレーション。
「アティカスに、解決できない問題はなかった」「誰が何と言おうと、ジェムと私は、そのことを知っていた」

(つづく)
Posted at 2015/01/27 18:43:59 | コメント(0) | トラックバック(0) | クルマから映画を見る | 日記
スペシャルブログ 自動車評論家&著名人の本音

プロフィール

「【 20世紀 J-Car select 】vol.14 スカイラインGT S-54 http://cvw.jp/b/2106389/39179052/
何シテル?   01/15 10:59
家村浩明です、どうぞよろしく。 クルマとその世界への関心から、いろいろ文章を書いてきました。 「クルマは多面体の鏡である」なんて、最初の本の前書きに...
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