• 車種別
  • パーツ
  • 整備手帳
  • ブログ
  • みんカラ+

家村浩明のブログ一覧

2015年12月30日 イイね!

ちょっと寂しいプリウス「4代」の“旅” その4

ちょっと寂しいプリウス「4代」の“旅” その4……ふと、「文化戦争」という言葉が思い浮かんだ。もし、その種のバトルを仕掛けるとすれば、その場合の“大本営”は、メーカー内部ではどこ(どのセクション)になるのか。開発現場の主管やチーフエンジニアはクルマ作りで多忙を極めるだろうから、その「戦争」の司令官や参謀総本部長を兼任するのは、おそらく不可能。そうなると、技術陣(エンジニア)以外で総合戦略や「フィロソフィー」を司ることになると思われるが、でも日本のメーカーで、こういう「戦い」が得意なところって、たとえばどこだろう?

対して欧米メーカーであれば、その種の「戦争」は恐ろしく巧みに展開しそうである。たとえば「電動車」として走りだし、この時は化石燃料は使ってないので超・省エネである。そして、必要に応じてエンジン(内燃機関)をオン/オフし、クルマが止まったら「EV」状態にする。その時にはエンジンは止まっているので、すなわちアイドリング・ストップ。そして走れる状況になったら、ふたたび「電動車」として行動を開始する。

……とは、もちろんプリウスのことなのだが、こういうシステムの「新ビークル」を、もし欧米メーカーが最初に世に出していたらどうだったろうか。ロータリー・エンジンどころではない、自動車史上における大発明と喧伝して、さらには、従来車とは異なるから革新的なのであり、走行フィールにしても“旧車”とはいかに異なっているかという点が強調される。

さらには、その新システムの発見者を技術史の中でのヒーローに仕立てたり、その「彼」は南アジアを旅行中に、某都市の渋滞の中でクルマの「新しい動かし方」を思いついたのだとアピールしたり……。そして文化・哲学方面では、高速で走り回ってコーナリング・スピードを競うだけではない、「欧州発」とは異なる新しいクルマ文化が、当社によってもたらされたとか。各種メディアともリンクさせつつ、さまざまな挿話や物語が「新ビークル」を取り巻くようにするのではないか。

(クルマ史における最初のテストドライバーは、愛する夫カール・ベンツが作った世界初の三輪自動車を、グランマのいる街まで、息子とともに敢然と運転したベルタ夫人であるとされている。彼女の愛と勇気のドライブは、メモリアル・ルートとして今日に残され、125年後の2013年、メルセデス全自動運転車の最初の公道テストコースとして、ふたたび用いられた)

そして、そうした文化的なサポートとパラレルなら、「新ビークル」の開発陣は安心して、それをEVベースの異なるフィールのクルマとして究めていける。また、「新ビークル」とその「走り」は、従来の内燃機関によるクルマとは違っていればいるほど、そのインパクトも強くなる。

嗚呼、しかし! 寂しいことではあるが、プリウスは、そうした“文化的”な(?)サポートは望むべくもなかった。クルマ世界の評者や識者たちも、初代プリウスが提案した「新しさ」や「異文化」に寛容ではなかった。孤高の戦いを強いられたプリウスは、その2代目以降は「新文化」を語ることは少なくなり、クルマ作りとその「まとめ」の基準と“文法”を「ヨーロッパ車」に求めて、ひたすら“ゴルフ超え”に邁進することになる。

……とまで言ってしまうと、あまりに私感が入りすぎているだろうか? でも、初代プリウスに対して「電車みたいに走る」という“評”がネガティブな意味で与えられたのは事実だったし、着座位置を上げた「21世紀の高姿勢セダン」というパッケージング&レイアウトも(少なくともジャーナリズム上では)あまり注目されなかったはずだ。

ただ、「ヨーロッパ」という市場で求められるものを、2代目以降のプリウスに順次投入していったとして、それでクルマが“悪くなった”わけじゃないんだから、それでいいじゃないか。そうした「充実」を、何で「寂しがる」のか? そういう声は聞こえる。

あるいは、00年代以降、多くの人々が「セダン以外」に乗るようになったから、逆にセダンは「ピュア志向」になった。たとえば60センチ以上のHP(ヒップポイント)のクルマに乗りたい人は、クロスオーバーでもSUVでも、その種の選択肢の中から、さっさと自分のクルマを選んでいるのだという解析もある。

そういう「分化」が進んでいる時代に、そうであっても「セダン系」に乗りたい人々は、あえて高いHPを望まない。この点について、マークXの開発陣は、たしかにHPは一度上げたが、その後、カスタマーからの要望で、新型では下げたと証言していた。プリウスの弟分で、2010年代に登場した新コンパクト・ハイブリッドのアクアも、軽量化を求めたせいもあって、HPは530ミリ付近でまとめられている。

また、最新の4代目では、たしかに全高は低くなっているが、人間工学でクルマを作ることを放棄したわけではない。ペダルと足/足首の関係、操作的にもこうなった方がベターであるということについては、人間工学的にも新たな発見があった。そういう要素は新プリウスに盛り込んであると、開発陣は語っていた。

(つづく)
Posted at 2015/12/30 14:45:06 | コメント(0) | トラックバック(0) | New Car ジャーナル | 日記
2015年12月27日 イイね!

ちょっと寂しいプリウス「4代」の“旅” その3

ちょっと寂しいプリウス「4代」の“旅” その3メーカーは、報道陣にプロトタイプを試乗前提で公開するに際して、「これまでのプリウスの『強み』と『弱み』として、以下のようなことを挙げた。まず「強み」は「圧倒的な燃費性能」と「先進装備」。そして「弱み」として「走りの楽しさ/乗り心地」、そして(価格に対しての)「内装の品質感」である。

また、新しいプラットフォームというか、クルマの新しい作り方として「TNGA」(トヨタ・ニュー・グローバル・アーキテクチャー)という考え方とコンセプトを用いた最初の市販車であり、「いつまでも運転していたくなるクルマにしたい」「小中高、そして4代目で社会人になる」ように、新プリウスを熟成させてきた……とも語った。

そのように設定したテーマに対しての「達成度」を考えると、新プリウスのそれはかなり高いと思う。その「達成率」を勝手に、また体感的に数値にしてみると、それは90%超であるかもしれない。動かして(走らせて)いる時にドライバーが感じるクルマとの一体感、何かを運転者が「入力」した際にクルマが返してくる「過不足」のない挙動、これらは見事というべきであり、新プリウスは開発陣が意図した通りの「ずっと運転していたくなる」クルマのひとつになっている。

ハードウェア論として、ここまで新プリウスを認めた上で、しかし、なぜ私は、このクルマを見て、そして乗って、一抹の「寂しさ」を感じてしまうのか。このナゾが自分でもなかなか解けず、それで、新プリウス関連の原稿も書けなかったのだが……。ただ、それについては、いくつか言葉を思い浮かべているうちに少しずつ見えてきた気がする。

たとえば、新プリウスは、「狭義のセダン」として成熟させるという道を選んでしまった。この場合の「セダン」とは、多くの人が日常的に使おうとするクルマというような意味だが、そうした「日常車」はいま、著しく「多様化」していると思う。(とくに日本マーケットの場合は──。たとえばスズキのハスラーは、クロスオーバーがウンヌンといった説明なんか抜きで、あっさりと買われている?)

そういう「視界」の中に新プリウスを置いてみると、このクルマが考えている「セダン」の範囲がすごく「狭い」ことに気づく。めざしたのは「ヨーロッパ車」、もう少し突っ込むなら、そのターゲットとなったのはVWのポロ/ゴルフ・ブラザースか。実際、開発陣からも、クルマを作りながら見ていたのはゴルフだったという意見は聞ける。

世界一を競っている量販車メーカー同士、期せずしてほぼ同時期にモジュール的なクルマの新開発方式を提案したなど、トヨタとVWのライバル関係を考えると、仮想敵をゴルフとして「4代目」プリウスを作ることにエンジニアが躍起となった。この感じは想像できるし、そうしたスピリットがクルマ世界を進展させていることにも異議はないが、でも、どうなのか。

プリウスがトヨタの基幹車種であるからこそ、VWのゴルフと正面から対峙して、そしてそれを超えたかった。このようにテーマ設定をしたのなら、それはそれで一理はある。しかし、基幹車種であるからこそ、トヨタとプリウスはもっと広い視野で、この「地球」を見ていきたい。VWと対抗するに、そうした発想と展開もあり得たはずだ。

たとえば、ゴルフもポロもよくできたクルマだが、それはあくまで、「ヨーロッパの、ヨーロッパによる、ヨーロッパのためのクルマ」ではないかという視点である。「ヨーロッパ」という言葉が曖昧すぎるなら、もう少し正確に「ドイツ」と言い換えてもいい。アウトバーンが発達し、高速移動がクルマの前提であり、ちょっと郊外へ行けば、乗用車が百数十キロの速度で“コーナリングする”(!)ように「道」が設定されている。そうした土壌から生まれたミディアム車が、たとえばゴルフであり、そのコンパクト版がポロであろう。

その同じフィールド内で、ゴルフやポロにガチで対抗しようとすれば、それらと同じように「低重心」にしたいと、エンジニアなら思うだろう。サーキットのグリッドに、一台だけ「高重心」のレーシングカーを並べたくはない。俺たちにも同じようなクルマを作らせてくれ!

しかし、このコンペティティブなコンセプトが有効なのは、その「サーキット内」だけではないか。世の中には、サーキット以外の道もある。いや、そもそも基本的にサーキット以外の道で生きているのが「日常車」(市販車)というものである。

また、クルマが競う場(マーケット)は「ヨーロッパ」や「ドイツ」だけではない。北米や日本は「ヨーロッパ」とは微妙に異なる環境だし、さらにいうなら、中国大陸や東南アジア、そして南米、アフリカなどもクルマにとっての舞台だ。こうして見ると、「ヨーロッパ」というステージで「ゴルフ」に勝ちたいというのは、基幹車種プリウスの目標として、いささか小っちゃくないか?

【 タイトルフォトはVWゴルフR 】

(つづく)
Posted at 2015/12/27 09:41:54 | コメント(0) | トラックバック(0) | New Car ジャーナル | 日記
2015年12月25日 イイね!

ちょっと寂しいプリウス「4代」の“旅” その2

ちょっと寂しいプリウス「4代」の“旅” その2「4代目」をめぐって、センチメンタルな言葉が飛び交う文になってしまったが、では、どうであったら「寂しく」なかったかをちょっとイメージしてみる。歴史に 《 if 》 を問いかけるのはあまり意味がないが、仮に2代目以降のプリウスがその「走り」をもっと「よく」したいと念じたとして、しかしそれは、こんな「低姿勢」のクルマにしなくても達成できたはずと、私は思う。

トヨタにはそういう技術力──というか技術陣のファイティング・スピリットがあるし、00年代以降、高いHP(ヒップポイント)のクルマで「いい走り」をするモデルを送り出してきた実績もある。そもそも、そうした技術的に困難と思えるテーマを掲げて、しかしそれをブレークスルーしつつ、誰もが扱いやすいように巧みにまとめるというのは、同社の技術陣の好むところで、また得意ワザでもある。

たとえば、プリウスは絶対に「HPは600ミリにする!」と決めていたら、そのテーマのもと、彼らはそれをやり遂げただろう。でも、そうはしなかったことが、この4代目でわかる。それが残念であり、そしてちょっと寂しい。

ただ思い出してみると、初代の「高姿勢セダン」コンセプトをプリウスが放棄するかもしれないという気配は、実は2代目の頃からあった。その理由のひとつは、2代目以降のプリウスが「ヨーロッパ」をその視界に入れたことである。「欧州」というマーケットとジャーナリズムで評価されたい、そこで通用するクルマにしたいというのがプリウスの課題になった。

そして、この新しいターゲット設定と併行して、初代の「走り」についての何とはない批判にも、作り手として対応する必要があった。その批判は、むしろ日本国内において顕著だったと推測するが、それは概ね、このクルマ(プリウス)はわれわれが知っている「自動車」とは感覚的に異なるという指摘だったであろう。

原動機の作動音や“呼吸音”もなく、変速もせず、ただただスーッと走る。それが電動ベースの「ハイブリッド・プリウス」だった。初代登場の時点で、電気自動車(EV)の走行フィールを知っていた評者がどのくらいのパーセンテージでいたのかはわからないが、「どうもEVみたいで……」というフレーズをネガティブな意味で用いる「批評」は、いくつかこの耳でも聞いた。

ただプリウスにとっては、「EVみたいだ」という評は正しすぎるほどに正しい。何よりプリウスは、そもそも「EV」として動きたいクルマだからである。発進から走行まで、ずっと「EV」でありたい。しかし、バッテリーの電気を消費するだけの“電池車”では、走行距離ひとつ取っても限界が生じる。そこでガソリンエンジンを搭載し、そのパワーを走行と発電・充電に使う。ゆえの異種混合、つまり「ハイブリッド」。これが初代もいまも変わらぬ、プリウスの主張と立ち位置であるはずだ。

(基本的にエンジンで走行し、そのアシストとして、必要に応じて「電動」システムを稼働させ、クルマをより速くタフにするというタイプの「ハイブリッド」ではない)

ただ、そうであるのだがプリウスは、これまでとは違う方式で動くクルマなので、走行フィールも違ってアタリマエですよ……という主張はしなかった。また、私たちは、これまでとは異なる種類の自動車を作っていますので……とも言わなかった。そしてジャーナリズムもまた、「これは、これまでになかった、アナザーなクルマなんだぜぃ!」というヨロコビ、もしくは別カテゴリーとして評価し直すということをしなかった。あるいは、そういう「批評」の方法があることに気づかなかった。

ただトヨタが「これはアナザーなクルマで」という路線で、外部からの「評価」に対応しなかったのは、多分に企業風土もあると思う。このメーカーは、ネガな評価を受けることがけっこう好きなのだ(笑)。……いや、プロダクトを貶されて嬉しいということはないだろうが、ネガティブな評価こそ、それを真っ正面からいったん受け止め、そこから反攻する。企業として、また技術屋として、こうした正面突破的なジョブを好んでいるように思う。

初代に向けられたいろいろな評価を経て、以後、トヨタとプリウスがめざしたのは、普通のガソリン自動車から乗り換えても、何らの違和感がないハイブリッド車にすることだったと思う。つまり、「ハイブリッド」から生じる違和感は、すべてなくす。ベースが「EV」であることも、それをオモテには出さない。要するに、何かの条件が付いたクルマとしてまとめることはしない。

そして突然、ハナシを今日に飛ばせば、この「4代目」の“普通感”は見事なものである。走らせて、クルマにモーターとエンジンの二つのパワーソースが積んであることを体感できる瞬間は、筆者が鈍感であることもあってか(笑)ほぼ皆無。また、電動状態なのかエンジン駆動か、あるいはその双方で走っているのか。この区別を、モニターなしで知ることも極めて困難。もし、今回のプリウスって、要するに“ただのクルマ”になったね……という類の評言が発せられたとしたら、それこそがトヨタのめざしたものだったであろう。

(つづく)
Posted at 2015/12/25 18:28:52 | コメント(0) | トラックバック(0) | New Car ジャーナル | 日記
2015年12月24日 イイね!

ちょっと寂しいプリウス「4代」の“旅” その1

ちょっと寂しいプリウス「4代」の“旅” その1最新の4代目となったトヨタのプリウス。その「プロトタイプ」というかたちで実車に乗って以後、時間だけが経ってしまった。試乗した感想をなかなか書けなかったのは、何をどう書いたらいいか決められなかったからだ。端的には、その感想・評価の文にどんなタイトルを付けるか。それが見えなかった。でもようやく、その“揺れている”こと自体を書けばいいのではないかと思い至った。

新型プリウス、実車を見ての最初の印象は「低い!」ということ。これは全高のことである。そして、昨今のモノサシとして、このモデルにはいったい何が「クロスオーバー」しているかをイメージしてみると、どうも「クーペ」くらいしか思いつかない。この点が私を戸惑わせた。

2010年代半ばに世に出る新型車、今回のプリウスが採り入れなければならなかった要素、それが「クーペ」なのか? そうだとしたら、初代からこの4代目まで、プリウスというモデルが強いられた“旅”は、あまり真っ直ぐではなかったことになる? なぜ、そうなってしまったのか? また、その“旅”の結論は果たして必然なのか?

こんないくつかの「?」が私の中で一気に噴出して、まとまりが付かなかった。そして、初代(1997年)からの十数年という、長くはないが、でもそんなに短くもない時間。その間、このモデルが直面した“ロング・アンド・ワインディング・ジャーニー”を思うと、一種の寂しさも含む複雑な感覚にとらわれる。ちなみに、新プリウスをここで書くにあたってタイトルとした「ちょっと寂しい」は、クルマ(4代目プリウス)やその内容のことではなく、書き手(私)のココロである。

       *

1997年、初代のプリウスが世界に「提案」したことは、大きく二つあった。ひとつは省燃費をめざして、「ハイブリッド」という一台のクルマに複数のパワーソースを搭載する方式を選択したこと。そしてもうひとつは、「21世紀のセダン」はかくありたいという新レイアウト&新パッケージングである。

プリウスなるモデルが登場して、世の中が沸いたのは、たしかに「ハイブリッド」だった。だからこそ、開発陣は悔しがっていた。「21世紀のセダン」は「人」を優先に設計する。まず「人」が座りやすい椅子とその座面の高さを探究し、そういう椅子に座った「人」を、クルマとしてどう「包み込む」かを考える。プリウスではこれを行なったのだが、この点に関しての世のリアクションは薄かったからだ。

1990年代の後半、トヨタの中で、いわゆるHP(ヒップポイント)は「600ミリ」付近がいいということが発見された。クルマのレイアウトやスタイリングはそこを出発点として、ラウムをはじめとするいくつかのモデルが生まれ、そのひとつがプリウスだった。

そのようにして高い着座位置を設定すると、「人」は自然とアップライトに座るようになる。そのような「人」を車室内に収容するべく、クルマの全高が変わる。高さについては、少なくとも数値として1500ミリ以上が必要だ。新機構のいわゆるセンターメーターにしても、HP600ミリの着座姿勢とリンクしてのものだと、初代の開発陣は語った。

公表された最新「4代目」の全高は1475ミリ。従来型(3代目)に対して「20ミリ下げた」とメーカーは言う。ただ、こういう全高にするとした時点で、「HP600ミリ」でクルマを作る(まとめる)ことはほぼ不可能になる。

今回のクルマ、ヒップポイントはいくつなんですか? 「4代目」の開発陣にこう問いかけたが、トヨタのクルマとしては極めて珍しいことに、即答が返ってこなかった。(メーカーとしては、今回は「HP」という言葉を使わず、そして、その数値も公表しないということにしているようだ)試乗後に、私の体感から「ヒップポイントは520~525(ミリ)くらいですかね?」と振ってみると、開発陣はとくに否定はしなかった。新プリウスのHPは、たぶんそのへんの数値であるのだろう。

何よりメーカーは、新プリウスは「低重心パッケージのスタイリング」をめざしたと謳い、その基本諸元として「重心高:約20ミリ改善」を挙げている。また、歴代プリウスの「強みと弱み」では、その「弱み」として、「走りの楽しさ/乗り心地」があったとしている。

つまりこの4代目で、トヨタとプリウスは、これまでの自身の歴史であった「高姿勢のセダン」というコンセプトを捨てた。もしくは、「弱み」であったとするプリウスの「走り」の問題を解決するには、「高姿勢」のままではやれない。このように判断したとも見える。そうした決定や判断、そのどちらもが、短い言葉で言えば、やはり寂しいのだ……。

(つづく)
Posted at 2015/12/24 12:17:15 | コメント(1) | トラックバック(0) | New Car ジャーナル | 日記
2015年12月22日 イイね!

【90's コラム】「高さ」による“安寧” ~ ビスタの場合

【90's コラム】「高さ」による“安寧”  ~ ビスタの場合クルマのカテゴリー分け、またその車型の分類が「RV」のヒット以後、いわばバリアフリーな状態になっている。人々がいろいろなタイプのクルマに乗り始めた。こうして、クルマに対してのアプローチが自由になっている昨今、既存のジャンルというべきセダンやステーションワゴンは、どうしたらこんな時代にミートできるか。

こういう見方を設定すると、新型の「ビスタ」とそのワゴン仕様「アルデオ」というのは、むしろ、わかりやすいモデルであるかもしれない。まあ、セダン系が「RV」に学んだのだと言ってしまえばそれまでなのだが、新ビスタの新しさはズバリ「高さ」である。このクルマ、ハイブリッド車プリウスと同じセンターメーターの採用など、インテリアの新提案もあるが、それ以上に重要なのは「1500ミリ+」という全高とシート座面の位置だ。

数値を明らかにすると、ビスタ/アルデオは、地上から約60センチ(600ミリ)のところにシート(前席)座面が設定されている。一方、これまでのいわゆるセダンは、それがだいたい地上から40~45センチだった。たかだか15~20センチ差だが、この違いがもたらすものは、実はなかなか侮れない。

その設定を「60センチ」にすると、まずはクルマに乗り込みやすくなる。背筋に余計な負担がかからず、身体が平行移動するような感じで、車室内のシートに収まることができる。腰痛の気配がある人には、これは恩恵であろうと思う。

そして、走り出してもいくつかの事実を発見する。アイポイントがこれまでよりも高くなった分、何となく運転が穏やかになるのだ。たとえば高速道路では、追い越し車線に出なくてもいいという気分になる。高速道路の左車線を、自分のペースで走れれば、それでいいじゃないか、と。

なぜ、そうなるかというのを突き詰めていくと、高いところに位置して移動することでの一種の不安感からだという説はあるかもしれない。そういう側面をあえて否定はしないが、ただ、そんな“防衛本能”以上に、クルマに乗っている時間を、もっと安寧に過ごしたいという無意識の願いがかなうということの方が重要ではないか。

スポーツカーが典型だが、低姿勢のクルマのコクピットに収まって、道やコーナー、さらには他車や誰かと闘うためにクルマを操る……のではなく、ちょっと高いところからの眺望も愉しみながら、解放感とともにのんびりと走る。地上から「60センチ」のシートに収まると、気づかぬままにこういうことができてしまう。

ただし、この「高さ」ということでは、いくつかのRVがそうであるように、運転席に収まることが“よじ登る”ような所作になってしまうと、それもまたストレスになる。また、その全高が災いして鳥籠タイプの駐車場に収まらないボディ形状だと、市街地でクルマを使う場合はしばしば不便だ。高すぎず低すぎず、運動性と快適性・実用性のちょうどいい接点としてのクルマの「高さ」――それが「シート高は60センチ」と「全高は1510ミリ程度」である。

最近の注目コンパクト2ボックス車ラウムも、このレイアウトでまとめているが、3ボックスのセダン型であっても、敢然とこの「シート高」でクルマを作ってきた。それがビスタであり、それをそのままステーション・ワゴンのカタチにしたのがアルデオである。

クルマはいまや生活の一部であり、クルマに乗ること、使うことは何ら特別なことではない。だからこそ、クルマに乗っている時間を“闘いの時”にはしない。このようにしてクルマを日常的に使っているユーザーは多いはずだが、そうした人々にとって、今回のビスタ/アルデオのような“安寧なクルマ”は大いに歓迎なのではないか。

(「ダイヤモンドEX」誌 1998年)
Posted at 2015/12/22 10:00:09 | コメント(0) | トラックバック(0) | 90年代こんなコラムを | 日記
スペシャルブログ 自動車評論家&著名人の本音

プロフィール

「【 20世紀 J-Car select 】vol.14 スカイラインGT S-54 http://cvw.jp/b/2106389/39179052/
何シテル?   01/15 10:59
家村浩明です、どうぞよろしく。 クルマとその世界への関心から、いろいろ文章を書いてきました。 「クルマは多面体の鏡である」なんて、最初の本の前書きに...
みんカラ新規会員登録

ユーザー内検索

<< 2015/12 >>

  1 2 3 4 5
6 789 101112
1314 151617 1819
2021 2223 24 2526
272829 3031  

愛車一覧

スバル R1 スバル R1
スバル R1に乗っています。デビュー時から、これは21世紀の“テントウムシ”だと思ってい ...
ヘルプ利用規約サイトマップ
© LY Corporation