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家村浩明のブログ一覧

2016年01月31日 イイね!

マクラーレン・ホンダ MP4/5B 《2》

マクラーレン・ホンダ MP4/5B 《2》さて、前述のように、後に輝かしい栄光に包まれることになる「MP4」系だが、そのスタートも、なかなかドラマチックだった。まず、それまで航空機の素材でしかなかったカーボンファイバーをモノコックに用いて、他のどのクルマとも違うマシンとしてF1界に登場した。今日のF1の“黒色のシャシー”は、実はこの「MP4」(/1)に始まるのである。

そして、このシャシーは戦闘力があった。1978年から1980年まで勝利ナシだったマクラーレンを、1981年のイギリスGPで勝たせた。1982年には、ドライバーのジョン・ワトソンにシリーズ3位の座をプレゼントした。

そんなマクラーレンのもうひとつのエピソードは「ニキ・ラウダ」である。大事故後、引退状態にあったこの名ドライバーに、一流好みの(?)ロン・デニスが復帰を強く求めたのだ。ともかく乗ってみてくれ、というわけで、1981年・秋にラウダがテスト。MP4でサーキットを走ったラウダは、このクルマなら!……とカムバック要請に応じた。

そして、1982年のロングビーチGPで、さっそく勝利。ラウダのマクラーレンは、ノンターボのフォード・エンジン(DFV)で、フェラーリやルノーのターボ・パワーに、シャシーによる闘いを挑んでいく。そして1984年はTAGポルシェ/V6ターボ・エンジンを得て、ラウダは5勝(僚友プロスト7勝)。一度引退したドライバーのチャンピオン獲得という“不死鳥伝説”をF1の歴史に残すことになった。

──マクラーレンMP4/5B。1991年のチャンプ・マシン、アイルトン・セナの愛機。このシャシーナンバー「4」は、初戦のアメリカGPでティレルのジャン・アレジとバトルを演じて勝利し、モナコでも勝ち、シーズン後半はセナのスペアカーとして使われたクルマそのものである。「MP4/5」は、さすがビッグチームのマクラーレンらしく7台が作られたが、その中でも劇的なリザルトを持っているマシンだ。

シャシーとしてのこの「5B」は、その名の通りに「5」の改良型。そして、「MP4/5」が、あの「MP4/4」(年間15勝!)のリファイン版。言い換えると、ホンダ・パワーの大いなるヘルプもあっただろうが、ともかく3年間、F1で通用した“名シャシー”であると評価できる。そのようなスグレものである「MP4/4」は、ロン・デニスの長年のパートナーであったデザイナー、ジョン・バーナードのマクラーレンへの置き土産である。

カーボン・モノコックをF1に持ち込んだジョン・バーナードは、1988年初頭にフェラーリに電撃移籍した。彼の手になる89年仕様フェラーリは、例のセミ・オートマチックをF1に導入したほか、大きなサイド・ポンツーンや特異なノーズ形状など、またまた新たなトレンドをF1世界にもたらした。そして熟成の1990年シーズンでは、そのフェラーリは「MP4/5B」の最大のライバルとなる。

この年、マクラーレンは確かにチャンピオンになったが、コンストラクターズ・ポイントでは121対110点と僅差だった。年間6勝を挙げたマクラーレンだが、しかしフェラーリもプロスト5勝、マンセル1勝で優勝回数は同じだ。ドライバーズ・ポイントでも、セナとプロストは大接戦となった挙げ句に、「鈴鹿」のスタート直後、両車の“絡み”で決着がついたのはご承知の通り。

1980年代後半以降で、優勝請負人をもし探すとすれば、ドライバーではアイルトン・セナ、アラン・プロスト。そして、それをデザイナーで見るなら、明らかにジョン・バーナードということになる。マクラーレン、フェラーリでその手腕を発揮し続けた彼は、いま、ベネトン・チームにいる。

ジョン・バーナードによるベネトン「B191」は、既に実戦デビューの時を待っている状態で、この堅実な才人はまたしても、F1マシンにニュー・トレンドを持ち込もうとしている。それは、コースによってマシンのノーズを付け換えるアイデアであるという。やはり、バーナードの仕事には目が離せない。

少しでも停滞していたら、すぐに出し抜かれる。それが「F1」である。王者マクラーレンの歴史も、そのことを語っている。勝ち続けることは、至難の業。現に1976年のチャンピオン・チームであるマクラーレンが1978年には未勝利になってしまい、それが1980年まで続いてしまった。ロン・デニスが王座をどう維持していくか。そして、かつての僚友ジョン・バーナードが何を仕掛けるのか。フォーミュラ・ワン頂点決戦への興味は尽きない。

(了) ── data by dr. shinji hayashi

(「スコラ」誌 1991年 コンペティションカー・シリーズより加筆修整)
Posted at 2016/01/31 07:50:21 | コメント(0) | トラックバック(0) | モータースポーツ | 日記
2016年01月30日 イイね!

マクラーレン・ホンダ MP4/5B 《1》

マクラーレン・ホンダ MP4/5B 《1》F1マシンのコードネームで、いま一番有名なのは、王者マクラーレン・ホンダのあとに続く「MP4/*」ではないだろうか。1991年の第1~2戦を制したのが「MP4/6」であり、1990年のチャンピオン・マシンがご覧の「MP4/5B」。「MP4/4」がその前年、つまり1989年だが、いやぁ、このクルマは速かった! 16戦中15勝、そして13回のポールポジション獲得だ。

ほとんど神話のような強さだったこの年は、マクラーレンとホンダが初めてジョイントし、1・5リッター+ターボの最後の年でもあった。「鈴鹿」では、あのアイルトン・セナがスタートで、何とエンジン・ストール。しかしその後に、アラン・プロストも含む全車を抜き去り、セナにとって生涯初のワールド・チャンピオン。涙のクールダウン・ラップという、日本の観客にとっても劇的なレースとなる。

もちろん、マクラーレンの「MP4」シリーズは「ホンダ以前」から強く、たとえば1984年には、ドライバーにニキ・ラウダとアラン・プロスト。そしてパワーユニットがTAGポルシェという組み合わせで、16戦中12勝したし、1985年もプロストで、ドライバーズとコンストラクターズの二冠を得ている。

この時、ホンダのパートナーはウイリアムズ。マクラーレンMP4+TAGポルシェは最大のライバルであるとともに、最強の敵だった。1986年、ホンダ・エンジンはコンストラクターズのタイトルは得たが、チャンピオン・ドライバーはプロスト/マクラーレンだった。

1987年に至って、無敵のホンダ・エンジンは、ウイリアムズとネルソン・ピケによって、人とクルマのダブル・タイトルを得ることになる。この年、ドライバーのトップスリー、ネルソン・ピケ、ナイジェル・マンセル、アイルトン・セナは、すべてホンダ・ユーザーだった。その翌年の1988年とは、そういうエンジンとマクラーレンとのカップリングであったわけで、前述の凄いリザルトもフシギではない。

さて、「MP4」である。この「M」はマクラーレンの「M」であるといわれているが、ちょっと微妙な部分があることは後に述べる。そして「P4」とは“プロジェクト4”のことで、誰のなのかというと、ロン・デニスにとってのプロジェクトである。

では、プロジェクトの「2」とか「3」はあったのか? これはあった。「P1」から始まり、ロン・デニスがF3やF2のフィールドで、レース屋として着実に活動していた時期である。そしてロン・デニスの第四段階、すなわち「P4」が彼にとってのF1フィールドへのデビューなのだった。

それは1980年の9月。名門と呼ばれ、事実そうであって、1974年と1976年にはチャンピオン・チームであったマクラーレンだが、この頃は超・低迷期だった。名車マクラーレン「M23」(かつてはこういうコードネームだった)以降、いいクルマを開発できず、チャンピオンを取ってくれたドライバー(ジェームス・ハント)にも逃げられ、名門は勝てないチームになってしまっていた。

そこで行なわれたのが、マクラーレンと、ロン・デニス「プロジェクト4」との合併だった。そしてこの時、1960年代のF1ドライバーであったブルース・マクラーレンが自己の名を冠して作った「チーム・マクラーレン」は、事実上消滅した。(ブルース自身は1970年に事故死)なぜなら、ロン・デニスは合併後、一年も経たない時期に、旧マクラーレンの監督テディ・メイヤーを追放し、主導権を握ってしまったからだ。

この合併劇は、名門F1チームと新興レース屋とのジョイントだったが、この二つのグループにはひとつだけ共通項があった。それはスポンサー、そう、マールボロである。先ほど「M」とは何かということで微妙なものがあるとしたのは、実はこれだ。「M」はマクラーレンではなく、マールボロではないのか? 

ロン・デニスが自チームのF1マシンを「マールボロMP4/*」と呼んでいた時期は確かにあり、また、F1マシンはノーズにコンストラクター名を示さなければならないが、そのステッカーが「マールボロMP4」となっている写真も残っているのだ。

ともかくマクラーレンは、1981年シーズン途中から「MP4」となった。最初は「1」など付かない、ただのMP4だったが、これ以後のマクラーレンはすべて、MP4のいくつというコードネームとなって、今日に至っている。(注1)

○注1:2月21日に発表されるというマクラーレンの2016年型F1カーの名称は「MP4/31」である。

(つづく) ── data by dr. shinji hayashi

(「スコラ」誌 1991年 コンペティションカー・シリーズより加筆修整)
Posted at 2016/01/30 23:42:46 | コメント(0) | トラックバック(0) | モータースポーツ | 日記
2016年01月29日 イイね!

【クルマ史を愉しむ】vol.03 1954/1964/1974年

【クルマ史を愉しむ】vol.03 1954/1964/1974年○1954年
トヨペット・スーパーがデビューした1954年。
“戦力なき軍隊”としての自衛隊が発足し、ビキニ環礁の水爆実験で第五福竜丸が放射能を浴び、世界初の原子力船ノーチラス号(原潜)が進水した。前年から始まった日本テレビのプロレス中継を“街頭テレビ”で見て人々は熱狂。映画「ローマの休日」ディズニーの「ダンボ」「ゴジラ」第一作が公開され、マリリン・モンローが夫の大リーガー・ディマジオとともに来日。地下鉄・丸ノ内線が池袋~御茶ノ水間で営業を開始し、日比谷公園で第1回全日本自動車ショーが開催され、ホンダの総帥本田宗一郎が「マン島宣言」を行なったが、実際に参戦できたのはこの5年後だった。


○1964年
ファミリアがデビューした1964年。
アジア初のオリンピック(夏)が東京で開催され、女子バレーで「東洋の魔女」が優勝。その決勝戦の視聴率は、驚異の90%超だった。TVではワイドショーの原点「木島則夫モーニングショー」、人形劇「ひょっこりひょうたん島」が始まり、映画は「マイ・フェア・レディ」「ア・ハード・デイズ・ナイト」(ビートルズがやってくる、ヤァ!ヤァ!ヤァ!)、「飢餓海峡」が封切られた。若者はアイビー・ルックに身を包み、「ワンカップ大関」「かっぱえびせん」が登場。リポビタンDのCMキャラ王貞治選手が55ホーマーの日本記録を作り、「ミロのヴィーナス」が東京・上野に“来日”した。マイカーという言葉と「交通事故白書」が同時に生まれ、オリンピック開催を契機に高架の首都高速・羽田線=1号線ができ、東海道新幹線が東京~新大阪間を4時間に縮めた。


○1974年
ベレット・ジェミニがデビューした1974年。
アメリカでは「ウォーターゲート事件」でニクソン大統領が辞任、日本でも「金脈」を追及された田中角栄首相が退陣表明。オイルショックが日本にも波及し、なぜかトイレットペーパーが品薄となり、ガソリンスタンドの営業時間が短くなった。6月に富士スピードウェイで悲劇が起き、レーシング・ドライバー風戸裕と鈴木誠一両選手が亡くなった。プロ野球では中日が巨人の「V10」を阻止したが、日本シリーズではロッテに勝てず、「わが巨人軍は永久に不滅です」と長嶋茂雄選手が引退。映画は「スティング」「燃えよドラゴン」「エマニエル夫人」「砂の器」。井上陽水「氷の世界」のLPレコードがミリオンセラーとなり、この年初出場だった山口百恵は「紅白」で「ひと夏の経験」を歌った。

(タイトルフォトは、マツダ・ファミリア 1964年)
Posted at 2016/01/29 22:03:56 | コメント(0) | トラックバック(0) | クルマ史探索file | 日記
2016年01月28日 イイね!

マツダ787B 《2》

マツダ787B 《2》さて、マツダ「787」である。細部の違いで、米国IMSA仕様の「787」、ル・マン24時間を含む世界耐久選手権仕様「787B」の二種があるが、もちろん同じクルマだ。そして1990年、このマシンはひそかな野望とともに「ル・マン」に参戦した。

市販車に搭載されている「2ローター」(おむすび型の回転するロータリー・ユニットを二個重ねたもの)から始まったレーシング・ロータリーは、この年、ついに「4ローター」に到達していた。この年の結果を先に書けば、同社のいう「レーシング・マルチ」を搭載したマシンは、総合7位(歴代日本車の最高位)と出場全車の完走だった。

レーシング・ロータリー・エンジンの場合、1ローター当たり150馬力というのがひとつの目安である。したがってそのマルチ化は、単純にパワーアップの手段として有効なことは見えていた。そしてそれが問題ないこと、レーシング・スピードで連続24時間走行しても、十分以上の耐久性があること。そのことが1990年に確認できた。

マツダの夢はふくらんだ。「4ローター」のさらなるコンパクト化(とくに全長方向)とエンジン・ユニットの軽量化。これらの基本的なシェイプアップに始まって、吸気系、燃焼系、排気系のすべてが見直された。そして、そもそも1ローター=150馬力なんて誰が決めたんだ?……というところからレーシング・ロータリーを再考し、ツメていった。

「R26B」と呼ばれる、その新設計ロータリー・エンジンが獲得した出力は700馬力/9000回転。ちなみに「4」で割ってみると、1ローター当たり175馬力ということになる。つねに極限であるはずのレーシング・エンジンから、なお、これだけの“モア・パワー”が絞り出された計算だ。(これについてはマツダは、さらなるパワーアップも可能だと語っている)

そして「R26B」搭載車のシャシーは、それまでの「767」系から「787」へ発展していた。ロータリーの耐久性はそれまで、数々の24時間レースで実証できた。次は、ロータリーの「速さ」のアピールだ。これがマツダ「787」の課題で、それまでの「マツダ」とは違う何かをル・マンで示さねばならない。

ただ、客観的には1990年の「ル・マン」は“ニッサンの年”だった。勝ちに行ったニッサンの前に、マツダはかすんでしまった。そして、レースのウイナーはまたしてもジャガー。「787」は挑戦者らしさを見せることもなく、マツダにとって表彰台ははるか彼方だった。

4ローター・ロータリーに秘めた野心、1990年で確認できた耐久性、しかし結果は、言ってみれば「完走」だけであったこと。そんな自信と屈辱の後の、そしてレギュレーションの変更で、異色のロータリー・エンジンが「ル・マン」を走れる最後の年になること。こうした野望や思惑が渦巻く中に「1991年ル・マン」の時は来た。

1991年、サルテ・サーキット。マツダ「787B」は、速くて、そしてタフだった。決勝はメルセデスC11とジャガーXJR12の対決模様で始まったが、それにマツダが割って入った。そして、ジャガーを抜いて2位に上がったマツダ。だが、燃費の問題がある大排気量のジャガーは、マツダを追えない。さらに、先行する首位メルセデスにプレッシャーを掛けるように、マツダがペースを上げていく。

それに対抗して、メルセデスは2位とのギャップをさらに広げるべく、タイムを上げての走行に入った。しかし、そのハード・プッシュが招いたのはミッションのトラブル。ピットに止まっているメルセデス、ストレートを駆け抜けるマツダ……。

1991年、ル・マン24時間。マツダ「787B」のオーバーオール・ウイン! 堅実にして速いロータリー・パワーの、見事な勝利だった。ラストの3スティントは、ジョニー・ハーバートが連続してひとりでドライブすることになったが、フィニッシュ後のジョニーは脱水状態となって動けず、表彰台の中央では、ベルトラン・ガショーとフォルカー・バイドラーの二人だけがトロフィーを受けた。

         *

はじめに、エンジンありき。これが他のメーカーとは異なる、マツダのレース活動の一大特色だ。たとえば、特異なそのエンジン形状は、レシプロ・エンジン搭載を前提に作られた既存のレーシング・シャシーとの組み合わせが不可能。エンジンの実走テストひとつを取っても、ロータリーの場合はシャシーから自製して行なわなければならない。そしてシャシーだけではなく、装着されるタイヤまでこのロータリー・レーサーのために作られている。

また、クラス分け、つまり排気量の換算方式という局面でも、孤高の闘いを強いられる。人為的に定められる「1・8」とか「2・0」とか、そんな「係数」ひとつで、レーシング・エンジンの戦闘力とその強弱が決定されてしまうこともある。

ただ、マツダがマツダである限り、このメーカーはロータリー・レーサーを作り続けるだろう。生まれて二十数年しか経っていない「若い」エンジンを、ひとつのメーカーがさまざまな場で鍛えている。レースがそのために使われたとしても、誰も異議はあるまい。レースはそれだけ、広く深い。

(了) ── data by dr. shinji hayashi 

(「スコラ」誌 1992年 コンペティションカー・シリーズより加筆修整)
Posted at 2016/01/28 10:15:23 | コメント(0) | トラックバック(0) | モータースポーツ | 日記
2016年01月28日 イイね!

マツダ787B 《1》

マツダ787B 《1》レーシングカーとしては、特異な成り立ちのクルマ──。マツダ製の、この耐久レース用プロトタイプ・カーにこうした評言を与えても、それは決して不当ではないはずだ。普通、レースに参加しようとする場合なら、まずはレギュレーション(規約)から入るであろう。参加すべきレースは、いま、こういうルールであり、そしてメーカーであれば、それに対応した最も適切なクルマを自社から探すか、それに応じたマシンを新たに作りあげる。

F1グランプリのエンジンで言えば、1960年代以降を見ても、「1500ccまで」から「ノンターボ3リッターとターボ付き1・5リッター」の混走時代を経て、最低重量が変わり、最大気筒数が「12」と決められ(1981年)、今日はターボ不可の3・5リッター、12気筒以下になったという歴史を持つ。(1992年現在)

もし、F1に参加したいのなら、そのような“決め”にその都度対応し、クルマなりエンジンなりを作り続けなければならない。あるいは、そのレギュレーションをじっくりと研究して、どうすれば有利か。もっと言うなら規則に“スキ間”はないのかと、エントラント(参加者)は知恵を絞る。それが「レース」である。

マツダのレース活動も、もちろん、このようなレギュレーションとの闘いと無縁ではない。別な意味では、並みのメーカーよりずっとシビアだという側面もあるのだが、このメーカーの場合、「レースする」以前に、ひとつの大きなテーマがあったはずだ。そして、そのテーマに合わせて、参加すべきレースを探し続けた。こう言った方が実状に近いのではないか。

そのテーマとは、そう、ロータリー・エンジンである。このエンジンの存在証明を行なう。あるいは、そのディベロプメント状況をアピールしたい。このテーマが何よりも先にあり、そこからレースへの参加という活動が生まれた。

普通のエンジンのような往復するピストンを持たない、始めから回転してしまう(!)円運動=ロータリー・エンジンを、世界で唯一、商品化することができたメーカー。そのマツダは、自己主張の場として「レース」を選んだ。これがマツダのプロトタイプ・レーシングカーのルーツで、そこには“走る実験室”という以上の、もっと切実な情熱と悲願が込められていたはずだ。

ある日本のメーカーの意欲と技術、そこから派生した世界へ向けての“叫び”とその集大成。それが、このレナウン/チャージ・カラーに塗られたマツダ「787B」というクルマの本質である。

マツダのロータリー・パワーは、その誕生の年の1967年から、レーシング・フィールドに打って出た。まったく新しいコンセプトによるエンジン(ロータリー)を載せたクルマは、速くて、そして耐久性も十分で、レースを走っても壊れない。その証明のための、カラダを張ってのチャレンジだった。見方によってはリスキーであろうとも、しかし「ロータリー」にとっては、その挑戦は必要なことだった。

果たして、レーシング・フィールドでの「ロータリー」の戦績は目覚ましいものだった。それ故に、このエンジンをどのクラスに位置づけるか。それが逆に、大きな問題にもなった。排気量という数値から見ると、この“回転エンジン”は、ほとんど3クラスくらい上のパワーを吐き出したからである。(現在は「排気量×1・8」というのがロータリー・エンジンのハンディキャップ係数になっている)

そして「市販車・改」によるレース活動の次に、ロータリー・パワーが目指したのがル・マン24時間レースであった。1983年、ロータリー・エンジンを搭載したオリジナルの純レーシングカーが、サルテ・サーキット(ル・マン)を初めて駆けた。その時、総合17位となったマツダ「717C」が、今日の「787」にまで至るマツダCカーの原点である。

以後、ル・マンには毎年違うエンジンを持ち込んだと言ってもいいくらいの、絶え間ないディベロプメントとともに、ロータリーのマツダは「ル・マン」の常連のひとりになっていく。カン高い特有のロータリー・サウンドは、日本で聞くよりずっと風景に溶け込んで、だだっ広くてフラットなサルテの夜によく似合う。

(つづく) ── data by dr. shinji hayashi

(「スコラ」誌 1992年 コンペティションカー・シリーズより加筆修整)
Posted at 2016/01/28 03:40:22 | コメント(0) | トラックバック(0) | モータースポーツ | 日記
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何シテル?   01/15 10:59
家村浩明です、どうぞよろしく。 クルマとその世界への関心から、いろいろ文章を書いてきました。 「クルマは多面体の鏡である」なんて、最初の本の前書きに...
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