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家村浩明のブログ一覧

2016年10月31日 イイね!

【 70's J-car selection 】vol.29 サバンナRX-7

【 70's J-car selection 】vol.29 サバンナRX-7サバンナRX-7 SA22C(1978)

クーペのGT仕様を表に出して“ロータリーの戦士”をアピールしつつも、セダンも実はラインナップにあったサバンナ・シリーズ。しかし、そのサバンナは、この1978年、衝撃のモデルに生まれ変わる。……というよりこれは、名前こそサバンナが継承されていたが、コンセプトや内容はまるで別物。「RX-7」というまったく新しいクルマの誕生で、同時にそれは日本では久々の「純スポーツカー」の登場でもあった。

何よりこのクルマは、コンパクトなエンジンをフロント・アクスルよりも後ろに、つまりフロント・ミッドシップに置いていた。これこそ“小さなエンジン”ロータリーならではの“芸”で、ロータリー・スペシャリティという主張を象徴したレイアウトだった。

世界で、マツダだけが商品化に成功したロータリー・エンジン。それをアピールし、「一般化」したい。こうしたメーカーの悲願から、一時期、どんな車型にもロータリーが積まれて、その「特別なエンジン」の使い方が妙に拡散してしまった感もあった。そんな自社の歴史に対する強烈なアンチテーゼと、原点(初代コスモ・スポーツ)回帰への真摯な姿勢。そうした思想を、このモデルは一身で体現していた。

リトラクタブルのヘッドランプを採用したスタイリングは、未来的かつダイナミックで、ピュア・スポーツとしての魅力と迫力に充ちていた。そして、カミソリの切れ味を想起させるシャープなハンドリングは乗り手を「選ぶ」ものであり、ここでも、このクルマの立場と主張はあくまでも“ピュア”だった。

(ホリデーオートBG 2000年3月より加筆修整)
Posted at 2016/10/31 06:25:17 | コメント(1) | トラックバック(0) | 00年代こんなコラムを | 日記
2016年10月30日 イイね!

ディランは完黙……しなかった!

この10月に、2016年のノーベル文学賞の受賞者が「ボブ・ディラン」であることが公表され、その一種の意外性に世界中が沸いた。ただ、最も驚いたのはディラン自身であったかもしれず、このニュースが世界を駆けてもボブ・ディランだけが無言だった。

そしてノーベル賞のアカデミーは、発表から数日が経った時に、ディランとは連絡が取れず、また、何のリアクションも得られていないことを認め、「もうディラン氏とは、こちらからはコンタクトしない」という意味のコメントを発表した。それ以後、この件についてのニュースは途絶えて、今日に至っている。

私自身はボブ・ディランのよきリスナーではなく、彼の言動をずっとウォッチしてきたわけでもないので、この件について何か語るに適任ではないのだが、個人の感覚として言えば、ディランはこのまま「完黙」すると思う。

この件についてのディランの立場を短く言うと、「関心がない」ではないか。ノーベル賞にまず関心がなく、ノーベル文学賞と自身の仕事に関係があると思ったこともない。ディランにすれば、見知らぬ国の、たとえばそこの大学から、自分に対して何か学術的な(?)賞を出すと言われたようなものかもしれない。そんなことに、いちいち反応できない。俺はアメリカの、ただの歌手だぜ! これがディランの率直な反応と気分なのではないか。

もちろん彼の周囲や友人は、今回の件は何よりキミの詞が高く評価されて……などと、彼に語っているかもしれない。でも、ディランは嬉しくない。「詞」を評価だって? 「音楽」じゃないのか? そのアカデミーとかいうのは、俺の演奏を聴いたことがあるのか? 

ボブ・ディランの経歴をちょっと調べてみると、彼は基本的に“賞嫌い”ではないことがわかる。グラミー賞を始めとして、アメリカ国内の音楽関連の賞は数多く受けているし、フランスの勲章まで貰っている。彼のキャリアは各種の賞で充ちていると言ってもいいほどで、そういう意味では、ディランは“孤高の人”ではない。

そういえば、ジョン・レノンって、何か賞を貰ったことはあったのか? ふと思い出す彼のエピソードは、レノンが「ビートルズ」として初めてロンドンの“高級な劇場”に出演した際のこと。「安い席の人は拍手をして! でも高い席の人は、宝石をジャラジャラ鳴らしてください」と言ったと伝えられている。

でも、この種のエピソードや伝説を、ディランについてはあまり知らない。そのため今回の件でも、ディランがどういう反応をするのかイマイチ“妄想”できない。

たとえば、この2016年からノーベル「音楽賞」が新たに設定されて、その第一回目の受賞者として、歌手ボブ・ディランが指名された。こういうことなら、ディランは反応したのか? いや逆に、この場合こそ、そういう学術的な賞(?)なら、もっと相応しい人がいるとディランは固辞するのか? 

これまた想像でしかないが、「詞」だけを単体で“文学的に”評価された(らしい)のも、ディランには不本意なのではないか。たとえば「ライク・ア・ローリングストーン」にしても、ハーモニカやギターによるメロディーやベースラインとともに、この言葉が発せられて、初めてカッコいい! 彼の詞はすべて、音楽と協調・共鳴するライブ感覚を前提に書かれたものであり、“読まれる”ための言葉(現代の文学)ではない。これがディランの自負とスタンスではないのか。

ただ、今回の“ディラン・ケース”で、明らかになったことがある。それはノーベル賞という賞典は、何の“根回し”もなく、ノーベル賞側(アカデミー)が好き勝手に受賞者を決めているということ。まあ、だからこそ「価値」があるという見方もできるし、ゆえに、ディランのような「無反応」は歴史的にも超・例外になるのだろう。

ちなみに、数少ないノーベル賞の「辞退者」のひとり、ジャン・ポール・サルトルは、ノーベル賞側に、辞退する旨の手紙は送ったのだという。ただ、その到着が間に合わず、サルトルが賞の対象者であることが先に公表されてしまった。また、旧・共産圏諸国に属する「辞退者」は、自分の意志というより、当時の政府の判断によって受賞が拒絶されたものだった。

さて、ノーベル賞側は、もうディランとはコンタクトしないとしつつ、12月の授賞式は予定通りに行なうとも述べている。連絡をしないのなら、ディランは今後、この件にはもう関われないことになる。そして、文学賞以外にも賞があるはずだから、ディランの動向とは関係なく、各種のスケジュールは進むということであろう。

ただ一方では、こんな“妄想”もする。それはディランはジョークがわかる“陽気なアメリカ人”だったというオチで、12月には、ディランは何故かストックホルムにいて、授賞式会場にはギターとともに登場。ウインクのひとつもした後で、一曲歌ってステージを去る……というストーリーである。果たして、そんなことが起こるのか。いや、ディランに限っては、それこそがあり得ないことか? 

もうひとつわからないのは、受賞予定者から何の返事もなく、「拒否」かどうかも不明だという場合に、ノーベル賞サイドはどうするのかということ。「なかった」ことにしてほしいというのがディラン側の願望だとすれば、ノーベル賞側も「なかった」ことにするのか? それとも、受賞予定者の意向とは関係なく(というかその意向がわからないのだが)、その年の受賞者はこの人物であるとノーベル賞の歴史に刻むのか?

         *  

──と、ここまで「?」だらけの文を書いていたところに、「ディラン、受諾」のニュースが飛び込んできた。ボブ・ディランがスウェーデン・アカデミーに連絡し、「素晴らしいことだ」と、ノーベル賞の受賞を喜んでいるというニュースだ。さらにAFP通信は、12月10日にストックホルム行われる授賞式への出席の意向を問われたディランが、「もちろん、できることなら」と答えたことを報じた。

……ウーン、12月10日が最終回で、みんながそれを楽しみにしていたドラマが、一気にエンディングになってしまったというオモムキだ。そして、何よりディラン氏は、普通で常識的なアメリカ人だった。彼は12月にストックホルムで、これまでの受賞者とまったく同じように行動するだろう。正装で授賞式に出席し、そして、歌手ではなく“文学者ディラン”としての立ち居振る舞いに終始する。ドラマは、まるで当たり障りのない内容の最終回とともに、幕を閉じることになった。

それにしても、ひとつ、わからないことがある。それは、「拒否」にせよ「受諾」にせよ、それを決めるのに、何故「二週間」という時間が必要だったのかということ。右顧左眄(うこさべん)なんて、ふと、自分でも読めないような(笑)言葉を思い出してしまったが、ディランはこの半月の間、何を考えていたのか? 世界が「自分」をどう見ているかを「見ていた」? 即断すると“俗人”になると思った? いや、俗人すぎて判断ができなかった? 

そして、事ここに至っても、授賞式の出席を英紙に問われて、「うん、できたらね」と、何となく含みを持たせているのは虚しい。喜んで受諾したと言っているのだから、ノーベル賞サイドが望むことはすべて受け入れるというのがスジであろう。“ディラン劇場”は結末が見えたこともあり、もうほとんどの観客は劇場から出て行った。ひとりディランだけが、まだ、そのことに気づいていない? 
Posted at 2016/10/30 03:03:57 | コメント(0) | トラックバック(0) | 茶房SD談話室 | 日記
2016年10月28日 イイね!

【 70's J-car selection 】vol.28 ステップバン

【 70's J-car selection 】vol.28 ステップバンステップバン VA型 (1972)

日本のメーカーでは、乗用車と商用車の開発部門はハッキリ分かれているのが通常だが、例外はあって、それがホンダである。二輪と四輪の開発は分かれている(はずだ)が、四輪車の開発は「クルマ」として一括され、他社のようなジャンル分けはされていないようだ。昨日スポーツカーやってたのが、今日はアクティ作ってる……とは、ホンダの社風を示す社内ジョークのひとつでもある。

そうした「柔軟な」社内風土が、他社にないようなモデルを生むことはもちろんあって、1960年代に同社が初めて作った「軽トラ」のTシリーズには、スポーツカーもビックリというDOHCエンジンが搭載されていた。このステップバンもまた、そうしたホンダが生んだ“レア機種”のひとつであるかもしれない。

さて、このクルマのフルネームは、ホンダ・ライフ・ステップバン。この名でわかるように、N360やZに続くホンダの軽乗用車として登場した「ライフ」(1971年に登場)をベースに、バン型のボディを架装したクルマだ。乗用車と共通の“下半身”でバンやワゴンも作るというのは、今日ではむしろ一般化した開発の手法だが、1970年代の初め頃はそうではなかった。

まあ、当時のホンダにしてみれば(純・商用車というべきアクティが登場するのは1977年のこと)、軽自動車の枠でバン&ワゴンを作ろうとすれば、乗用車のライフしか、その“ネタ”がなかったのかもしれない。ただ、他社のように乗用車と商用車で開発セクションが分かれていたなら、こうしたクルマの作り方はできないわけで、その意味での独自性はやはりあった。

そして、このステップバン。もともと開発陣に「商用車」という発想の限定がなかったせいか、当時の“軽バン”としては異色の、極めてスタイリッシュな造形にまとめられている。1972年の秋、つまりシビックとほぼ同時期に発表されたため目立たぬデビューとなってしまったが、見る人は見ていた。

しかし、1974年にホンダが軽乗用車から一時撤退したため、このステップバンは短命に終わってしまう。ただこれは、ホンダの中でもモニュメント的なモデルのひとつになっていたはずで、後年、自らオデッセイ(これもまた、乗用車アコード・ベースのワゴンだった)で開拓したミニバン市場を拡げる際に投入した“ハコ型”のクルマに、ホンダは「ステップワゴン」という名を与える。
Posted at 2016/10/28 17:30:45 | コメント(0) | トラックバック(0) | 00年代こんなコラムを | 日記
2016年10月27日 イイね!

【 70's J-car selection 】vol.27 ターセル/コルサ

【 70's J-car selection 】vol.27 ターセル/コルサターセル/コルサ AL10 (1978)

トヨタ・ブランドとして初の「FF」モデルとして歴史に記録されているターセル/コルサ。このクルマについては、当時の開発担当者の証言があるので、ここで紹介したい。「トヨタをつくった技術者たち」(2001年刊行)という本の中で、佐々木紫郎エンジニア(注1)がインタビューに答えている。

それによれば、FF車であるこのクルマは、開発型式「30B」として企画・開発が進められていた。その開発開始から半年ほど経った頃に、その時カローラ3代目の主査だった佐々木氏は、カローラと兼任で、このFFモデルも担当して(まとめて)ほしいと打診される。これに佐々木氏は、トヨタが作る最初のFF車でもあり、兼任ではなく「専任」であれば引き受けると返答。結局、それが受け入れられ、カローラの「まとめ」役を部下に譲った佐々木氏によって、「30B」の開発が続行された。

ただし、既に開発はスタートしていたので基本コンセプトは変更せず、省燃費の小型車を作ること、「縦置きエンジン」のFFとすることは、主査としてそのまま継承。トヨタがこの時、「横置き」エンジンでFF車を企画しなかったことについては、「30Bに搭載する新しいA型エンジンを“縦置き”にしておけば、カローラにも共用できるという理由だった」と佐々木氏は答えている。(注2)

ただ、縦置きエンジンのままFFにすると、ボンネット高が上がってしまう。それは致し方ないというのが開発初期の判断だったが、しかし、小さくて燃費のいいクルマというコンセプトは、一方で追求しなければならない。省燃費ということでは、前面投影面積が大きくなるのは不利なので、そこから、「高さは切り詰められなく、幅を狭くするという制約を与えてデザインさせた」。

「見栄えが悪く、スタイルが良くないのはデザイナーの責任ではなく、そういう条件を与えた主査、私の責任です」と佐々木氏は回顧した。そして、「実は後で思ったことだけど、もう少し(開発のための)時間を貰って、幅を拡げる検討をもっとすればよかったと後悔した」と語る。

──なるほど、このクルマが何となく特異な格好に見えて、印象として「細長い」感じだったのは、そうした具体的な理由があったということか。後に「ターセル/コルサ」(AL10)の名を与えられる開発記号「30B」の全幅は1555ミリ。そのホイールベースはミドルクラス車並みの2500ミリだった。

ただ、そうした基本レイアウトもあって、ターセルは室内の前後長には余裕があった。佐々木氏はこのインタビューで、日本国内ではあまり売れなかったことを認めつつ、アメリカやカナダでは「評価してもらえた」ことを語る。アメリカへ行った時に米人に「一緒に乗ろう」と誘われ、ターセルで走りながら、「米国トヨタで売っているクルマで、一番“大きい”クルマは何だと思いますか」と質問された。佐々木氏が「クレシーダ」(マークⅡの輸出仕様車)と答えると、その米人はすぐに否定して言った。「違う。このクルマ、ターセルだ。これだけ足を伸ばして運転できるクルマはターセルが初めてだ。アメリカのクルマはこれでいい」

「ちょうど第二次石油危機の頃で、アメリカでは燃費のよいターセルを(米国トヨタが)売ってくれた。アメリカで売れたから、全体ではそんなに悪くないと思ったけれど、国内販売では大変苦労したクルマで、私が経験したモデルの失敗例になってしまった」(佐々木氏)

1980年代になるとトヨタは、カローラ、コロナ(1983年)、スターレット(1984年)、さらにはカリーナ(1984年)と、主要な大衆車や小型車を次々に「FF化」していくが、その先駆けとなり、助走期間で健闘したクルマ。それが1970年代末に登場したこのターセル/コルサだった。

○注1
佐々木紫郎技師。初代クラウンやパブリカのシャシー設計担当から、クルマ全体の企画・開発を行なう「主査室」に移動。初代カローラから、主査付としてクルマの「まとめ」業務に就く。二代目カローラから主査としての業務を開始し、三代目カローラは基本構想から立案した。大きさは大衆車でも、小型車並みの快適性を狙った三代目は、1974年に発表された。続いてターセル/コルサの主査となり、同車は1978年に市販開始。その後、製品企画室の室長となって、初代ソアラ、レクサス(日本名セルシオ)などの開発に関わった。25年間の製品企画業務の後、1988年に副社長。1992年に中央研究所・代表取締役。

○注2
エンジン「縦置き」のもうひとつの理由としては、初期の「横置きエンジン+FF」は、トルクステアなど、いわゆる“FFのクセ”が強かった。そのため、FRのカローラやパブリカ~スターレットから乗り換えた場合の違和感が避けられないことを、メーカーとして懸念。「横置きFF」を成熟させる時間を必要とし、1970年代には、まずは「縦置き」でFF化を開始したと考えられる。
Posted at 2016/10/27 03:12:30 | コメント(0) | トラックバック(0) | 00年代こんなコラムを | 日記
2016年10月25日 イイね!

映画『耳をすませば』~少女「雫」の世界と“コンクリート・ロード” 《3》

映画は、こうして「自分試し」に突入した雫が、書きたいとした物語を何とか書き上げ、その作品の最初の読者になる約束をしていた老人から、粗っぽいが「原石」の魅力があるという評価を受ける。老人のそんな温かさに涙するも、その処女作がまるで未熟であることを一番わかっていたのは、雫本人だった。

そして、ディーゼルエンジンの音がする老人のデリバリー・バンで送られ、夜遅く自宅に帰ってきた雫は、服のままベッドに倒れ込んで眠る。そんな娘に、「戦士の休息だな」と呟いて、お父さんが布団をかけてやるシーンがいい。

こうして、少女・雫の自分を「試す」時間は終わり、それと時を同じくして、バイオリン製作の修業を「試して」いた少年・聖司もイタリアから帰国する。……というか、そもそも雫が中間テストも無視して、自身の「試し」に没頭したのは、二ヵ月を期限としてイタリアに行った聖司が帰ってくるまでに、自分も「試し」を終えておきたかったからだった。

そして、“戦士の休息”から目覚めた雫は、まだ世界も暗い夜明け前に、聖司と再会。喜んだ聖司は、この街(コンクリート・ロード!)の中で自分の一番好きな場所へ、雫を連れて行こうとする。このあたりの物語の展開と流れは、とても巧み、かつダイナミックで、そのまま、あのラスト・シーンへと突き進む。

この時彼らは、自転車の二人乗りで、聖司の秘密の場所へ向かうが、その途中で、いかにもこの二人らしいシーンがある。坂道の登りで、「俺はこうすると決めたから」と、後席に雫を乗せたまま坂を登ろうとする聖司。

それに対し、「お荷物だけなんて、私はいや!」と、雫は座席から降りる。そして二人で自転車を押し、急な坂道を登り切る。相手が自分のことをどう思っているかではなく、自分が相手にとって「何」でありたいか。そのことの方がはるかに重要という雫の、本領発揮のシーンであった。

さて、「クルマ側」からこの映画を見ると、エンドロールで、ひとつ気づくことがある。“コンクリート・ロード”に生きる主人公たちを囲む景色として、「道」と「クルマ」が繰り返し描かれることは先に書いたが、エンドロールも、画面の上部が橋(道)になっていて、そこをサイドビューを見せていろいろなクルマが走っていく。

映画の中で、雫の部屋には1994年のカレンダーがあったから、これはその年の物語だということ。では、その1994年の「道」を、どんなクルマが通り過ぎるか? 

まず、小型のトラックが行く。続いて、大型のデリバリーバン・タイプのトラック。ラージな3ボックスの上級セダン、2ボックスのスモール・ハッチバック、軽トラ、そして、自転車の二人乗り。

また、軽自動車の2ボックス・セダン、赤の2ドア・クーペ、長尺の荷物を積んだ小型トラック、スバル・サンバー風の軽ワゴン、軽自動車のセダン。そして、2トンくらいの小型トラック、スモールな3ボックス・セダン、4枚ドアのミドル・セダン、ヤマト宅急便のトラック。そして、猫も散歩中(笑)。

さらには、ふたたび、クラウン/セドリック級のラージな4ドア・セダン。小さなセダンはピンク色で、これはリッターカー級か。また、ミドルクラスのセダン、色は白。2ボックスに近い形状の白いスモール・セダン。軽のワゴン、これはサンバーであろうか。

そして、黒/白二色のパトカーが行き、その後に、背中にスペアタイヤを背負ったクロカン・タイプ。さらに、タクシー、スモールの2ボックス車で色は白……といったクルマが画面を通過する。

……こうしてエンドロールで走るクルマ(車型)を並べて、いったい何が言いたのかというと、まず、「ミニバン」が一台もいないこと。そして、古いレンジ・ローバーと思われるクロカン・タイプは最後の方で一台登場するものの、「SUV」やそのクロスオーバー・タイプも走っていない。

もちろん、この映画が1994年の東京・郊外を舞台にしているなら、これは当然のことである。たとえば、軽自動車のトール・ワゴン型を「乗用」に使いましょうというススキのワゴンRがデビューするのは1993年の秋だ。

このモデルはメーカーも予期せぬほどの大ヒットの後、コンセプトがすべての軽メーカーによって“コピー”され、各社から同じシルエットの「トールなワゴン型軽乗用車」が出現して、日本の街の景色を変える。ただ、1994年段階ではそこまで普及していないから、街を軽自動車が走っていても、このエンドロールのように、セダン型と商用車がそのすべてとなる。

さらに、その“トール”なワゴンRは、いわば軽サイズのミニバンだったが、もっとラージなミニバン、たとえばオデッセイが出現するのは1994年である。このモデルもまた、5ナンバー・サイズのエスティマ(エミーナ/ルシーダ)とともに、新しい日本のファミリーカー像の形成に大きな影響を与えるが、この映画の制作時点を考えれば、この画面には登場不可能。

つまり、ワゴンR的な軽自動車は存在せず、ミニバンやSUVの流行もまだ“来て”いない。そんな「1994年以前」の日本のクルマ状況を、このエンドロールは見せてくれるのであった。“ワゴンR以前”“オデッセイ以前”の日本の道路や街はこうであった、というように──。

なお、スタジオ・ジブリの近作『コクリコ坂から』は、1963年の横浜をその舞台とする。そしてこの映画は「歴史を描く」という意図もあったのか、登場するクルマはみな、バッジも含めて当時の自動車として描写される。この映画にどんなクルマが登場するかは、いずれ本欄で書くことがあるかもしれない。

(了)
Posted at 2016/10/25 04:24:29 | コメント(0) | トラックバック(0) | クルマから映画を見る | 日記
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プロフィール

「【 20世紀 J-Car select 】vol.14 スカイラインGT S-54 http://cvw.jp/b/2106389/39179052/
何シテル?   01/15 10:59
家村浩明です、どうぞよろしく。 クルマとその世界への関心から、いろいろ文章を書いてきました。 「クルマは多面体の鏡である」なんて、最初の本の前書きに...
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