名もない日系アメリカ人に続き、名もないカンボジア人のマニアックシリーズ。
今日も大半の内容は、(今は無き)Teacupで記したものです。画像はカンボジアのイオンモール内のプジョーディーラー。隔世の感があります。
この3連休は(重い内容ですが)映画「キリングフィールド」などの鑑賞いかがでしょうか。
この動画を撮影しましたが、特別法廷への道・・・主語もなく、解説もなく、やる気がない動画。75ビューしかありません(笑)
VIDEO
主語は「カンボジア」でカンボジア特別法廷への道です。
この時、カンボジアのある政府高官から「日本はカンボジアの和平のために莫大なお金を出してくれている。(たまたま政府に顔を出していたただのサラリーマンなのに(笑))貴方は特別席で裁判を傍聴する権利がある」と。時間はありましたのでカンボジア特別法廷を傍聴することになりました。
政府高官とともに入場。向けられる欧米メディアのカメラ。おそらく私は欧米にデビューしてしまっていたような気がします(笑)
しかし、日本のメディアは皆無。欧米メディアしか来ていなかったのが印象的でした。
この日の特別法廷の被告は、「カン・ケク・イウ」氏。政治犯収容所S21A(いわゆるトゥールスレン)の元所長。
トゥールスレン収容所は2年9か月の間に14,000~20,000人が収容されたと言われ、そのうち生還できたのは8人(身元が分かっているのは7人)のみだそうです。
カン・ケク・イウ氏は
「カンボジア共産党常任委員会のメンバーであったが、カンボジア共産党内の序列が何位であったのかはわかっていない。少なくとも20位以内には入っていない」wiki
とあるように決して大物ではない。しかし、党の命令に忠実に従い、一生懸命虐殺に励んだ人です。このあたりはユダヤ人絶滅強制収容所の所長と同じですね。
貧しい中国系カンボジア人の一家に生まれ(広東語名 江吉耀)苦学を重ね、数学教授にまでになる。その後は・・・詳しくは、ウィキ。
カン・ケク・イウ
wikiには情報はありませんが、確か、奥さんも共産党の幹部。しかし、家庭では、仕事に関してはお互いに一切の会話はなかったとのこと。毎日数字に追われるようにして、粛々と虐殺を実行していたのでしょう。
そんな彼も、元々インテリ。思う所があったのか、キリスト教の洗礼を受けています。
「クメールルージュを抜けた後、1993年12月25日にキリスト教徒になり、1996年1月6日にバッタンバン川で洗礼式を受けた。 ドッチの受けたキリスト教の教育は、カンボジアキリスト省(Cambodian Ministry of Christ、伝道組織) と太平洋キリスト教大学(Pacific Christian College、カルフォルニアが本拠の国際希望大学 (International Hope University)内の一組織)の学部長からのものである。 また、洗礼式を取り仕切ったのは、アメリカ太平洋大学である」
私が傍聴した時の彼の服装は、アメリカブランドの「ポロ・ラルフローレン」であり、時折笑顔で話していたのが印象的でした。
この時、
「自分は、民主カンプチアの「上級指導者」でも、民主カンプチア時代に行われた犯罪に「最も責任のある人物の1人」でもない、したがってカンボジア特別法廷は自分を裁くことができないと主張」上訴しています。
最終的には、
2012年2月、上訴審で一審の禁固35年の判決が破棄され最高刑の終身刑判決を受け、2020年にプノンペンの病院で人間的な治療を受けながら寿命を全うしています。
この件は、
今から15年前の2009年 にTeacupブログに下記のように記しています。あらためて読み返すと、ほとんど思い出せないですし、日本語では記録はないので、こんなんでも記録って大事ですね。
カン・ケ・イウではなく、カン・ケック・イウと記していますね。
傍聴席に座り、まずは政府高官の方から渡された前回までの傍聴記録(日本語)を読み返しました。
当時、収容所の尋問担当だったモン・ナイ氏が被告の証人(←被告ではない)として、
「(カン・ケ(ック)・イウ)被告がやっていた事は知らない。私が何も知ろうとしない事は当時の共産党(クメール・ルージュ)の方針にかなっていた。私達はお互い他人の事を気にしてはいけなかった。」 これにはなぜか、被告の カン・ケ(ック)・イウが
「犠牲となった知人家族の事を考えると悲しい。しかしあまりにも混沌としていた。あの時代、私達はどうすることもできなかった。そして沢山の人が死んでいった・・。」
当時、守衛のヒム・ホイ氏(←被告ではない)は、「自分自身が処刑されるのが恐ろしかった」と何度も繰り返した上で、
「1日で100人以上の人が処刑されていった。処刑は毎日朝の9時から始まり、夜中の2時までかかった。私達は夜明け前までに処刑を終えるように命令され、とにかく急がされた。そこに被告(カン・ケ(ック)・イウ)が来ていたが、気にする余裕はなかった。」
と証言しています。
考える事もためらう事も許されず・・。まるで殺人マシーンのように人を殺していく。「他人の事を気にしていてはいけない」システムが行き着く所まで行き着いていた事を示しています。
またカン・ケ(ック)・イウ被告自身、数十日にわたる公判の中で、上層部の命令とはいえ拷問や虐殺を指揮してきたのは自分・・と全ての罪を認め、
「カンボジア国民は私を非難することができる」「奪われた多くの権利に比べれば、私の権利などものの数ではない」「私を犯罪者と指さしてほしい。石を投げられても文句は言えない」
とこれまで何度も謝罪を繰り返しているようです。
しかし、この日の最終弁論で彼が最後に述べたのは、態度を一変し「これまでの法廷協力と引き換えに釈放してほしい」と言う言葉でした・・。
・・判決が出るのは2010年4月ごろと言う事です。自らを守るために率先して命令に従ったとはいえ、サラリーマンで言えば、部門責任者。身につまされる所もあります・・。
死刑制度がない現在のカンボジアでは最高刑でも終身刑のようですが、どのような判決がでるか、注目したいと思います。
これらポルポト派の行った自国民への虐殺、残虐行為は、平和な日本で暮らす私達日本人には遠い国で起こった、特殊な出来事に映るのも無理はありません。
しかし、たった一回のこの法廷を傍聴して思ったのは、どこの組織、集団でも・・このような事は起こりうる事なのだ、と。
新聞からの引用で申し訳ないですが、2009年12月1日の読売新聞に「罪と罰」という、70年代の連合赤軍による凄惨を極めた仲間内のリンチ殺人事件に関する記事中に
「本当はやりたくなかった」
「いつ誰がリンチの標的になって殺されるかわからない、と言う異常な集団心理の下で生き残るためにリンチに加わらざるを得なかった」
との記事がありました。
誰もが他人の苦しみに目も耳も心を閉じた時、恐ろしく閉鎖的なシステムが起動します。無関心、無関与。ただ自分の足元のみを見つめることだけが生き延びる道・・。
今、私達も似たようなシステムの入り口に立ってはいないでしょうか・・。この15年前の(今もですが)日本の無関心ぶりは今に通じますね。「知らない」「分からない」「考えない」「どうでもいい」といった無関心。それが蔓延した「究極の無関心」の状況で何が起こるのか。言われたことしかやらない、自分のことしか考えない・・。しかし、このポル・ポト時代はそんなに遠くなく「特異」な出来事ではありません。
たった一回の傍聴でしたが一番強く感じたのは、そのようなポル・ポト時代と、現代のジャニーズ、ビックモーター、宝塚、あいつぐいじめ、自動車会社の不正、ウクライナ、中東に引き継がれてしまっている・・「連続性」です。
Posted at 2024/07/12 20:53:22 | |
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