
クルマに乗る時は皆さんも音楽を聴きますよね。音源はラジオ、iPod、iPhone、カセットテープ?など、様々ですし、気分に併せて選んでるかも知れません。
最近、
アマゾン・プライムニュージックを車内で聴くようになったのですが、聴いたことはあるけど、iPodにまで入れなかった懐かしい楽曲を聴くようになりました。昔、カセットテープで聴いていた時代の楽曲も楽しんでいます。

現代では音楽を歩きながら、もしくは電車でiPod、iPhone等で聴く人口が増えたことと思いますが、「歩いて行く」「風景を眺めながら」「君と手を繋いで」など、クルマでの移動をイメージしない歌詞も多くなりました。アニソンを除けば電車や徒歩で移動するのに向いたテンポの楽曲も多いと感じます。
1980年代、90年代は音楽とクルマにとって、良き時代でした。ドライブしながらその当時の楽曲を聴くと、クルマとの親和性が高い楽曲ばかりだなあと感じます。多くの楽曲が、クルマに乗って聴くためにデザインされていたと言って良いでしょう。
「走り出したら止まらないぜ」「飛ばすぜハイウェイ」「オールナイトのステージ」等、なぜか横浜銀蝿の歌詞ばかりですが、これは冗談としても、多くの楽曲に歌詞の主人公がドライブをしている、クルマに乗っている、クルマに乗ってどこかへ行こうとしているというものが非常に多いのです。直接的に歌詞にクルマについて触れない楽曲であっても、疾走感を感じるドライブに向いた編曲であるものが多いのです。
時折ヤフーで見かける「若者のクルマ離れ」の記事にクルマと音楽との関係性が語られることはありません。徒歩、電車、もしくは自転車に乗るのが今の若者のライフスタイルのスタンダードとも言えますが、これは都市生活者だけのお話。
大都市において、移動する道具としての経済性・合理性はクルマには乏しいのは否めません。私も東京にいた時にはクルマは不要だとは思いましたが、東京の人々の意見が日本中の若者の意見であるかの様な記事には辟易します。
また、クルマを合理性だけで考えれば大きなミニバンに乗ったり、殆ど一般車道しか走らないなら、大排気量のクルマもSUVも不要。故障すれば高い修理費が発生することがわかっていて外国車に乗る人は頭がオカシイと言わなくてはなりませんが、実際にはそんなことはありません。
乗り心地やパーソナルな空間を楽しんだり、クルマのつくり手、メーカーの生み出す作品としてのクルマの魅力を体感することもお金を払う価値だからです。それは文化的なものであり、道具の不要必要という価値基準で本来は語られるべきではありません。ロレックスが多くの人に愛される腕時計である事実、素晴らしい美術品に価値を感じる人がいる事実と同じです。
音楽は徒歩、電車を前提にしたもの、ドラマでは刑事でさえ、自動車を運転するシーンがありません。ドラマの恋人同士のデートもドライブはしません。アニメではサザエさん、ドラえもんの家庭にはマイカーがありません(これは半分冗談)。
そういった「ソフトの部分」と「自動車文化」として、人々にクルマを意識させない限り、道具としての必要・不要論に終始してしまい、日本の自動車産業は衰退してしまう可能性が高いのが今の現状で、マトモな自動車評論家が存在しないのも問題。
しかしながら、リアルな映像で楽しめるゲームや行ったことも無い場所を知ってるかの様に錯覚するYouTubeの様な動画の普及も若い人に「クルマを所有したい」との欲求に対して足かせとなっているとは思います。
「恋人とドライブがしたい」「夜のハイウェイをぶっ飛ばしたい」という単純な欲求でもクルマを買った私達の様な旧世代の人々と現代の若者は違います。更に高度でスマート(カシコイ)な提案とマーケティングが必要なのだと感じます。
関連情報URL「高校生のクルマに対する関心度をみる」も併せてご覧いただくと、いかに自動車メーカーのマーケティングが若者におかしな方向に影響を与えているのかがよくわかります。今後も若者にはクルマは売れませんね。自動車メーカーの人、本当に現状わかってますか?
Posted at 2018/04/29 02:48:25 | |
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