
月末ということで、なにかと事務的な作業の多い日。出張帰りでバタバタした感の残る中、当方も例外とはならず経理的なものを中心に事務作業に明け暮れた一日となりました。
明日からは6月。月が変わるということで、年度変わりほどではないにしても、何かといろいろな変化も生じることが多くなります。
そんな中、今日をもって日本の航空史にひとつのピリオドが打たれました。
●JAL 5月で引退 シルエットが美しかった 整備士が語るエアバスA300-600R
-
毎日jp(毎日新聞) 2011年5月30日
JAL(日本航空)は、今日をもってエアバスA300-600Rを退役させました。
エアバスは1970年に設立されたヨーロッパの航空機メーカー。航空機の機体製造はアメリカのメーカーが圧倒的に強さを見せていたのですが、これに対抗するべくヨーロッパで既存航空機メーカーの共同出資によって誕生しました。
そして1972年に初飛行を行い、同社として最初の商品となったのが「エアバスA300」。2発エンジンでキャビンには2本の通路を有するワイドボディ機で、定員300人級の中型機です。
セールス的には初期の性能に課題が残っていたこともあって苦戦を強いられましたが、日本では当時のTDA(東亜国内航空)が同社初のワイドボディ機として導入、1981年から就航を開始して主要幹線などを飛びました。
この時に採用されたのが4色の“レインボーカラー”。エアバス社のハウスカラーでありデモフライト機などにも塗装されていたものですが、これをTDA首脳陣が気に入ってエアバス社に使用の許諾を打診、受け入れられたことからTDAのコーポレートカラーになりました。その後、マグドネルダグラス機にもレインボーカラーを展開しましたが、さすがに他社の機材にそのままエアバス社のハウスカラーをペイントするわけにもいかず、こちらの機材はエアバス機より1色少ない3色のレインボーカラーとされました。
その後、45/47体制の終了により国際線への進出も果たし、社名もJAS(日本エアシステム)へと変更。機材としてはMD-11やボーイング777なども導入しましたが、エアバスA300は初期導入のB2型に加えて、航続距離を延長したB4型、さらに大がかりな進化を遂げた600R型を導入し、同社の大量輸送を担う主力フリートとなりました。
なお、1986年9月19日にTDAとして初めて国際チャーター便を韓国に飛ばしましたが、この時の機材はエアバスA300ではなくDC-9スーパー80でした。
近年になると2004年の
JAL(日本航空)との経営統合があり、さらに統合後の
JAL(日本航空)が深刻な経営危機に見舞われたことから、機材の集約化が決定。エアバスA300はB2型が2006年で全機登録抹消となるなど退役が進み、最後まで残っていたのが600R型でした。
そんな600Rにも退役の時がやってきました。
しかし当初は今年3月26日が最終フライトの予定であり、記念のツアーなども予定されていたのですが、東日本大震災の発生により延期が決定。ツアーについては残念ながら催行中止となってしまいました。
最後の最後で震災によって急増した輸送に対応するという重責を担ったエアバスA300。しかし派手なセレモニーも行われることなく、ひっそりと日本の空から姿を消していきました。
私自身にとっては、実はこのエアバスA300というのは最も好きで愛着のある機材だったりします。それは私が育った北海道の帯広と東京を結ぶ路線に長く就航していたことから、搭乗の機会も多く慣れ親しんだ存在だからという理由に尽きます。
もっとも、私自身はあくまでもTDA/JAS派であり、残念ながら
JALのカラーリングをまとうエアバスA300には愛着が湧かないのも事実。最終日のラストフライトは驚いたことに数日前の段階で空席がある状態でしたが、これがJAS時代なら万難を排して最後のフライトに乗ろうとしたことでしょう。
長年、東京-帯広の路線で利用してきたエアバスA300。ヨーロッパ生まれらしい気品ある内外装、そしてなにより離陸時の加速感がとても気に入っています。逆に、未だにボーイング製2発ジェット機の加速感にはしっくりこないものがあったりしますので。
静かに日本の空から姿を消して行ったエアバスA300、TDA→JAS→JALと会社は変わったものの、その間およそ30年間にわたって大きな事故を起こすことも無く安全で快適な空の旅を提供してくれたことに感謝です。
Posted at 2011/06/04 23:44:21 | |
トラックバック(0) |
航空・鉄道・海運 | 日記