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miko1035のブログ一覧

2008年02月26日 イイね!

ロータスの過ち

ロータスの過ちロータスというと若い世代の人たちは多分「サーキットの狼」での「ヨーロッパ」でしょうか。
私はというと、元祖「羊の皮をかぶった狼」こと(あの伝説のジム・クラークの乗った)コルティナ、エラン
そしてMGB。すべて英国のライトウェイトスポーツカー。十代の頃の憧れはこれしかなかった。

60年代、F1やエランが大成功を収めたロータスは、68年にロンドン証券取引所に株式上場します。
それまでの細々としたバックヤードビルダーからいっぱしのメーカーに成長しました。
大規模な工場も建設して「売れる」車をデリバリィしなければならなくなってきました。
75年に「ヨーロッパ」の後継としてジアウジアローデザインの「エスプリ」を発表します。
しかしこのあたりから歯車が狂い始めます。
ユーザーはこの車にフェラーリ、ポルシェと同等の価値感を見出そうとしました。
しかし実際に登場した車には、おそらくユーザーになるでろう裕福層の期待を裏切って、大容量のV型シリンダーは積まれておらず、オペルレコルト用の2000cc直4シリンダーに自家製の4バルブヘッドを載せたものでした。
 しかもシャーシーのセッティングが、チャップマンの意向でライトウェイトのスポーツカーと同様のスタビリティのマージンの少ない繊細さを要求するものでした。通常スーパーカーと呼ばれるクラスの車はスタビリティはかなりおおらかになっています。
 このクラスの車を購入するユーザーは、実質的な性能よりもステータスの象徴という価値観を車に求める階層であって、ロータス本来の「ストウィックな走り」を求める人種とは基本的に相容れないもので、またそういう走りを必要とする土壌もありませんでした。
すべてはこうした価値観の違い、マーケティングの誤りで、ロータスは一番のマーケットであるはずのアメリカで苦戦します。 
しかも時代はマスキー法による排気ガス規制や5マイルバンパー装着の義務付けなどスーパーカーと呼ばれる車たちには社会の敵と呼ばれる悪夢の時代でした。77年以降3年間は500台生産を維持しましたがその後は年100台前後に留まっていました。
ヨーロッパまでは1600ccまでのエンジンでのデリバリィーで、それ以上のキャパの扱いのノウハウはロータスには無かったと言っていいでしょう。                        
(後にエスプリはV8、3.5Lを積んでいますが・・・)ロータスというブランドはライトウェイトのスポーツカーでこそ輝くものではないかと思うのですが・・・
007の応援にもかかわらず販売成績は芳しくありませんでした。
結果論ですがこの車はロータスが出すべきではなかった。アストンマーチンかジャギャーあたりが出すべき車ではないでしょうか。(あくまで私個人の独断と偏見ですが・・)

82年にカリスマ・・・チャップマンが54歳で急逝した後はさらに経営難が深刻化し、経営はチャップマン家から、事業家のデビッド・ウィッケンスに移りました。84年、コンセプトカー「エトナ」や、V8エンジンを発表したり、当時の大株主であったトヨタとの関係を深めていきましたが、一転して86年にはゼネラルモーターズ(GM)の傘下に入ります。グループ内のスポーツカーメーカーとしてシボレー・コルベットZR-1の設計や、オペル・オメガ、いすゞ・ピアッツァなどのチューニングを担当しました。
93年にはブガッティの買収を受けましたが、95年にブガッティが破産し(その後ブガッティは98年にフォルクスワーゲンに買い取られました)、96年にプロトンの出資を受け、現在はプロトンの100%子会社になっています。
今や60年代の栄光は過去のものとなってしまいました。
Posted at 2008/02/26 02:11:49 | コメント(0) | トラックバック(0) | どうでもいい車の話 | クルマ
2008年02月23日 イイね!

「ワレニ追イツク グラマンナシ」・・帝国海軍艦上偵察機「彩雲」

「ワレニ追イツク グラマンナシ」・・帝国海軍艦上偵察機「彩雲」「彩雲」は、太平洋戦争に参加した日本軍用機の中で最も速い飛行機でした。
あらゆる戦闘機より優れた艦上偵察機という仕様で中島飛行機が開発した当時世界唯一の艦上偵察機で、直線的な細長い胴体と大径プロペラ、長い主脚が特徴のスマートな機体です。
 しかし登場したときは肝心の空母がみな沈没してしまっていて陸上からの出動が多かったそうです。
 昭和19年6月上旬、硫黄島を発進してサイパン島基地への高々度写真偵察の任務に就いた広瀬少尉と樋口少尉ペアはサイパン島を目前にした高度8,000mで敵P38戦闘機3機と遭遇しました。
 敵機との距離は約400m。高々度性能に優れ高速戦闘機であったさしものP38も「彩雲」の水平全速飛行には付いて来れず、広瀬少尉が操縦する「彩雲」は危機を脱しました。
 その時打電された電文が有名な「ワレニ追イツク グラマンナシ」でした。(揚げ足を取るようですが、これは間違いでP38はロッキードで、グラマンはF4か6です。)
 終戦後米軍によってテストされた「彩雲」は高オクタン価の燃料を使用し、高度6,000mで694.5km/hという高速を記録して当時の米軍を驚愕させたそうです。
 しかし、翼の約80%に燃料が搭載されていたため被弾するとたちまち燃え上がってしまう欠点がありました。そして当時の日本機同様エンジンの不調に悩まされ稼働率は低かったそうです。
 
Posted at 2008/02/23 21:47:06 | コメント(1) | トラックバック(0) | おもちゃの話 | 趣味
2008年02月20日 イイね!

歴史に残る練習機・・T-33

歴史に残る練習機・・T-33T-33のご紹介です。
本機はアメリカ合衆国のロッキード社が1943年に開発したP-80戦闘機を原型に製造した練習機で、朝鮮戦争以降配備が進むジェット機の操縦のための訓練機として二人乗りに改造されて「T-33」として運用されるようになりました。アメリカ軍における愛称は原型のP-80同様シューティングスター(Shooting Star、流星)。6,557機以上が1948年から1959年にかけて製造され、世界30ヶ国以上で使用されました。日本の航空自衛隊においては、1954年(昭和29)の創立当初からF-86Fと共にアメリカ軍によって68機が供与され、翌1955年(昭和30)からは川崎航空機によって210機がライセンス生産され(合計278機を運用)、本来の目的である学生パイロットの教育にとどまらず、訓練支援、連絡業務、デスクワークパイロットの年次飛行などに用いられました。
 
1980年代半ばになると退役が始まり、航空自衛隊における後継機である川崎T-4への置き換えが順次進められることとなりましたが、1999年(平成11年)11月22日、入間基地に所属するT-33Aが事故に遭遇。機体が入間川河川敷に墜落する際、送電線を切断したために埼玉県南部及び東京都西部を中心とする約80万世帯が停電、並びに信号機及び鉄道が停止する事態となり、 この墜落事故で当時航空自衛隊に所属していた8機全機に対して飛行停止処分が取られ、翌2000年6月に飛行停止処分を解かないまま強制引退となりました。
Posted at 2008/02/20 22:30:24 | コメント(1) | トラックバック(0) | おもちゃの話 | 趣味
2008年02月18日 イイね!

道半ばで・・日産パルサーGTI-R

道半ばで・・日産パルサーGTI-R4WD化の波に完全に乗り遅れてしまっていた日産ではありましたが水面下では4WDマシン開発は進んでいました。1989年のサファリで日産ワークスは200SXと共にN13型パルサーを走らせていました。
しかし、この車は大きなエアインテークなど市販車と異なる改造を施してあるようでしたが何のステッカーなども貼られていない謎の車でした。そして翌1990年。日産はラリーの日産のイメージを取り戻すべくパルサーがN14型にフルモデルチェンジするのに合わせてパルサーGTI-Rを発表しました。前年のサファリに参加したN13型はそのテストカーだったのだと言われています。
パルサーGTI-Rは本来のパルサーが1300~1600cc程度エンジンを積む程度の大きさのボディに230馬力を発生する2000ccのSR20DETエンジンを搭載し、1989年復活のスカイラインGT-Rでも採用されたアテーサ4WDシステムを採用したまさに当時の日産の持てる技術の粋を集めた車となっていました。
 パルサーGTI-RのWRC初参戦は1991年のサファリで総合5位の成績を収めました。
しかし車格に対し大きすぎるエンジンは様々な問題を引き起こしたようで、そのフロントヘビーな性格、熱対策の甘さなど様々な問題が噴出して優勝はおろかまともに完走できることすら怪しくなってしまいました。
翌1992年、問題を少しづつですが解決しつつあった日産ワークスではこの年若き日のT.マキネンもドライブし徐々にですが成績を上げていきこのままいけば勝利を狙えるかもしれない、という状況まで来たのですが突然その年をもって日産のWRC参戦を打ち切るという発表がなされました。
Posted at 2008/02/18 22:19:30 | コメント(3) | トラックバック(0) | どうでもいい車の話 | 趣味
2008年02月17日 イイね!

苦悩・・時代は変わる 日産200SX

苦悩・・時代は変わる 日産200SXバイオレットとS・メッタによりサファリ4連覇を達成し、黄金時代を築いた日産でしたが、グループA規定となって日産は、ワークスカーを240RSからシルビア200SXに変更しました。
エンジンはおおよそ競技車に搭載されるモノとは思えない、3リッターV6のVG30EというシングルカムのNAながら、ワークスチューンにより250馬力以上を発生。サファリラリーではランチア・デルタなどを敵に回し、88年と90年にM・カークランドのドライブにより2度2位入賞という好成績を獲得していますが200SXが勝利できたのは1988年のアイボリーコーストだけでした。そしてこれが実は日産が最後にWRCで挙げた勝利になってしまいました。
デルタの牙城の前になすすべなしという感じでした。時代はもう4WDなどの新しい技術の流れに乗らないと勝てない時代になっていました。同時にそれは膨大な継続のための資金を必要とするものであり、一番上のクラスには、ほとんどのプライベーター達のエントリィシートは用意されないということを意味することでもありました。
Posted at 2008/02/17 11:53:11 | コメント(0) | トラックバック(0) | どうでもいい車の話 | 趣味

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