
ご無沙汰しております。
ゴールデンウィークも途切れ途切れでまとまった時間が取れずどこへも行けず。まぁ今年に限ったことではないけれども。何処かへ楽しくドライブしたなんていうレポートは当分無理だな。(だから趣味は”ドライブ”なんて言えるのは羨ましい限り)・・すみませんね、愚痴ばかりで・・おじさんも歳を取ってくると愚痴っぽくなってくるんですよね。
そういうわけで最近読み終わったのが「種田山頭火」
「山頭火」という人は・・http://kajipon.sakura.ne.jp/kt/haka-topic41.html に詳しい話がのっています。
・・・・・
本名 種田正一(しょういち)。
明治15年(1882年)に山口県防府市の大地主種田竹冶郎の長男として生まれるが、11歳のときに母は井戸に投身自殺し、父は放蕩三昧で妾宅通いと、さんざんな子供時代を過ごす。当人も大学時代から酒に溺れ、良家の娘の妻(咲野 さきの)を得てからも生活はまったく改まらなかった。
そのうちにこの父子二人はみるみる財産を食いつぶし、なんとか立て直そうと酒蔵を経営するも2年続けて酒を腐らせたことがきっかけでとうとう破産し、一家は離散した。
山頭火は妻子と共に熊本に落ち延び、妻と「我楽多(がらくた)」という古本・額縁屋を開く。
ところがやっぱり帳場には落ちつけず、たびたび酒の上での乱痴気騒ぎを起こし、ついには44歳の時に泥酔の上路面電車の前に立ちはだかるという暴挙に出て、とうとう寺に預けられる身となる。
そこで意を決して出家し、耕畝という名を戴いて僧として味取観音堂の堂守となる。
一時は甲斐甲斐しく掃除などに精を出すも、長くは続かず、妻にも一人息子(健)にも何も言わぬまま、45歳で当てのない托鉢行脚の旅に出てしまった。
その後は約8年間、行乞から得られる米や喜捨銭、木村緑平をはじめとする友からの援助などに支えられながら、西日本を中心としてほぼ日本全国を旅した後、山口は小郡の其中庵(ごちゅうあん)、湯田の風来居(ふうらいきょ)と移り住み、最後は四国松山の一草庵(いっそうあん)で本人の希望通り「ころり往生」した。享年58歳(昭和15年没)。
托鉢僧のなりはしているものの、時折羽目を外して、ただ酒を飲むは芸者と騒ぐわで、俳句仲間に多大な迷惑をかける、言うなればだらしない男であった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
托鉢僧といっても早い話「乞食」
誰もが一度は思うことかもしれないが、「何もかも捨てて、どこか知らない所で人生をやり直したい」なんて思うことがあるのだけれども、
普通は自分にとって都合の悪いところだけ消してしまいたいのが本音で、すべてを捨て去ることなんか出来ないだろうな。
この人はそれをやってしまった。
俳句というのは自分の人生観とか世界観を出来るだけ少ない言葉で、ギリギリまでそぎ落とした表現で表したものだけれども多分この人は都合のいい事も悪いこともみんな一緒にそぎ落としてただただシンプルに行きたかっただけなのか・・というのはちょっとかっこつけすぎ。
本当はしょうもないただのグータラもん。しかしながら「浮世の流れ」に翻弄され続ける凡人にとってはこういう境地に達することはまず不可能でもしかすると憧れかもしれない。少なくとも私には。この人の作品というのは五七五という俳句のルールさえ無視した自由俳句とよばれるものでこれ以上そぎ落とすことすら出来ないシンプルで逆に奥深い作品だと思う。
代表句
あるけばかつこういそげばかつこう
へうへうとして水を味ふ
一羽来て啼かない鳥である
うしろすがたのしぐれてゆくか
どうしようもない私が歩いている
生まれた家はあとかたもないほうたる
音はしぐれか
酔うてこほろぎと寝ていたよ
鴉啼いてわたしも一人
笠にとんぼをとまらせてあるく
笠も漏り出したか
けふもいちにち風を歩いてきた
この旅、果もない旅のつくつくぼうし
こころすなほに御飯がふいた
鈴をふりふりお四国の土になるべく
霧島は霧にかくれて赤とんぼ
また一枚脱ぎ捨てる旅から旅
まつすぐな道でさみしい
ふるさとはあの山なみの雪のかがやく
すべつてころんで山がひつそり
また見ることもない山が遠ざかる
松はみな枝垂れて南無観是音
分け入つても分け入つても青い山
鉄鉢の中へも霰
山へ空へ摩訶般若波羅密多心経
水音の絶えずして御仏とあり
ほろほろほろびゆくわたくしの秋
生死の中の雪ふりしきる
おちついて死ねそうな草萌ゆる
濁れる水の流れつつ澄む
Posted at 2013/07/04 21:24:35 | |
トラックバック(0) |
活字中毒者の読書日記 | 趣味