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2018年04月15日 イイね!

自動運転の過渡期の問題について

業界の実情も経済も全く知らないおっさんの、単なる「感想」と「妄想」である。

アメリカで自動運転に関係する死亡事故が立て続けにあったというニュースを見たので感想。
一つはメーカーが実験中に人をはねたというものだが、これについてはいわゆる「飛び出し」に近い状況で人間が運転していても避けられたかどうか判らない、ということのようである。もうひとつは自動運転中の市販車が中央分離帯に衝突したというもので、明らかに自動運転を過信したもの、ということのようである。この2つの事故は一見自動運転の問題のように見えるが、それよりも根本的な人間の欠陥とクルマの運転における危険性の問題なのである。

前述の事故のうち後者については「レベル2」の話だそうで、当然メーカー的にも責任が運転者にあるということは主張しているようである。日本でも現在あくまで「運転支援技術」であって「自動運転」ではないしメーカーもそれを強調している。その中で日産が「プロパイロット」という微妙な表現していることには疑問も感じるが、ちなみに日産のレベル2と国内他社のレベル1の違いは「全車速」か否かという点だけのようであり中身的にはそれほど大きな違いはないように思われる。

市販されているもののうち「HondaSENSING」には試乗したことがあるのでまずはそのときの感想。
速度を一定に保ち更に前車に追従して加減速する、言わばブレーキとアクセルの支援機能である「ACC」については、初めは必要性すら疑問だったが実際使ってみると運転の負担軽減を実感することができたし、実用的という意味で「自動運転」としてもある程度のレベルにあると感じた。
これに対しステアリングの支援機能である「LKAS」については、勝手にステアリングが動くということには確かに初めは驚かされたが、実用性という意味ではハッキリ言って使えない、まして自動運転などというものには程遠いというのが正直な感想だった。
LKASを機能させるにはまず運転者がそれを使うことを選択し、そのうえで車速が65km/h以上となることが条件である。この車速制限により一般道では機能しないというタテマエになり「レベル1」ということになる。
実際どうかというと、機能しているときはステアリングが勝手に動いてカーブでも直線でも車線内を維持し、白線を認識できない場合などはそれを告げる警告音が鳴り即座に機能が解除されるのだが、一般道はさておきいわゆる高規格道路でもかなり頻繁に機能は解除された。というのも積雪寒冷地域では冬期間積雪により白線が見えないだけでなく、厳しい気候や除雪作業による白線の損傷が著しく夏季であってもそれらが完全な状態で維持されるのは難しい状況にある。このような状況では頻繁に解除と復帰が繰り替えされ、現実的にはほとんど意味がないと言えるレベルであった。これについてはあくまで白線という道路状況のせいではあるが、現時点では(おそらく将来的にも)白線が完璧に維持されるのが当然ということでは決してなく、その中でそれらに依存するという時点で全体から見ればごく一部の状況でしか正常に機能しないということになり、整備の行き届いた高速道路を相当利用するユーザーでなければこれを「使える」と捉えることはできないだろう。
また個人的にはそもそも自分が普通に運転している時にステアリング操作自体に負担を感じたことは正直全くなく、それどころか自分の感覚で何ら問題なくステアリングを操作している時に必要のない「アシスト」が介入してくるのはむしろ鬱陶しいものであり、これを「運転がラクになった」と捉えることは全く出来なかった。確かに自分はクルマ好きで運転自体が苦にならないという部分はあるかも知れないが、それでもACCについてはラクだと感じるし、おそらく多くの人にとってアクセルやブレーキに比べステアリングはそれほど負担ではないだろう。ただ白線が完璧な高速道路を何時間も走行するような状況で、普段から車線の維持というステアリング操作に負担を感じている人にとってはラクなのかもしれないし、このあたりは個人の感覚によって評価は大きく変わるところかもしれない(ただどちらにしても利用できる状況はかなり限られてはいる)。
とは言え運転がそれほど苦でない自分でもステアリング操作に相当気を使うということも実際ないわけではない。例えば著しい強風の高速道路では車線を維持するだけでも精神的な負担となるし、車線変更のときなど追越車線と走行車線をスムーズに移動するようにクルマが動いてくれればラクかもしれない。脇見ではなくとも道路上の何かに注意を払わなければならないときもあるし、そのようなときはついつい車線をはみ出しそうになることも、誰にでもあることかもしれない。このような場合は「アシスト」が負担軽減となることはあるだろうとは思う(単に負担軽減という意味では騒音や振動、自然なハンドリングや安定性、視認性やシートの作りなど自動運転以前のクルマとしての基本的な事のほうがよほど重要なハズだが)。

結局試乗ではLKASについては「頼れない」という結論に至ったが、一つ気づいたのは自分にとってはどこまで「頼れるか」ということが最も重要だということである。
ACCとLKASは、現時点では通常の運転を補助する、負担を軽減するというものでありそれまでの異常事態を検知し事故を未然に回避するという機能とは明らかな違いがある。これらは将来的な完全自動運転には当然必要な技術だが、現時点では発展途上であるためあくまで「支援」「補助」という位置付けになっている。
が、これはこれで問題をはらんでおり、仮に「頼れる」ということになれば人間はそれを頼るのが当然であり、「アシスト」されることを前提としてしまうのである。これは人間の本質的なものであり、それをしないという事自体ムリがあるハズだ。
仮にLKASが「頼れる」ものである場合(現状でそう判断する人もいるだろう)、脇見や速度の出しすぎなどの運転者の不作為を助長してしまう恐れもあるのではないだろうか。例えば強風の高速道路ではまず速度を落とすのが基本中の基本だろうが、LKASを過信して速度を落とさない人も出てきてしまうかも知れない。となれば、強風+高速=不安定+危険→減速+ステアリング支援、というところまでクルマが判断、実行しなければより中途半端に危険な状況を作り出してしまいかねないのではないだろうか。この辺りは「VSC」や「路外逸脱防止機能」などとも関係するかも知れないが、現実的にそのような状況でクルマがどのような挙動をするかということと、それを受けて人間がどのように行動するかなどといったことにまで及ぶ問題であり、結果としてどの辺りに着地点が来るのか、それをどうコントロールするのかなどということはこれまでとは違う判断基準が必要となってくるかも知れない。これらは自動車メーカーにとっておそらくかなり難しい問題になってくるだろうし、社会全体がどう判断するのかということになるのかも知れない。とはいえ「全て運転者の責任」という今までどおりの考え方だけで全てを解決しようとするのは、そもそも自動運転とは何なのかということにもなるのではないだろうか。「機械がどうあれ全て運転者の責任」から「運転者には頼らず全て機械化」という全く逆の考え方に移行しようとしているのであり、その途中のプロセスには責任問題という最大の難関が存在するのである。これは完全自動化=全てクルマの責任ということになり、「全て運転者の責任」という認識を社会に植え付けることで成立してきた自動車メーカーにとっては決して受け入れられるものではないだろう。

また現在のLKASは言うなれば常に二人でステアリングを操作しているようなものであり、このような考え方は他の自動化システムではほとんどありえないと言ってもいいハズである。
例えば大型飛行機は既にかなりの部分が自動化されているそうである(自分は飛行機のことは全くわからないが)。操縦には現在一般的に常に二人の人間が必要とされているそうで、言ってみれば自動化システムと二人の人間の計「三人」が操縦しているということになるだろう。自動化システムが発達する以前はもっと多くの人間が必要だったそうで、現在のシステムは二人、三人の人間に置き換えられるということになるかもしれない。が、これらの多くの人間が皆同時に操縦桿を握っていたわけでは当然ないハズだ。必要な作業がそれだけ多くありそれを分担して行うために多くの人間が必要だったのであり、現在も通常時は作業を分担し、どちらか一方の「主」の人間が操縦できない異常事態の時に「副」が操縦する事になるハズである。もちろん二重チェックの意味合いもあるハズだが、それらは必要とされるものに限定、明確化されているだろう。大型の作業機械や工業用プラントなどでも、危険を伴う機械の操作を同時に二人の人間が行うということはおそらくないハズである。むしろ安全のためには一人の人間が作業を実行することで責任を明確化し、万が一の異常時には他者がそれを引き継ぐというのが一般的だろう。
また自動化という意味ではごくごく一般的な事務システムにおいても、例えば株取引のシステムが行った事務処理を全て人間が同じようにチェックするなどというのはそもそもシステムとして成立していないことを意味するハズだ。導入前に相当のテストを重ねたうえ、機能に問題が発覚すれば機能を100パーセントにするよう改修されるのが当然であり、技術的に自動化が難しいものや二重チェックが必要な箇所を限定しそこだけ人間が行うのがフツーである。クルマの自動運転は、人間はミスをするという前提のもと完全自動化が唯一の目標であり、飛行機よりも事務システムに近いのかもしれない。そう考えると、システムは人間を明らかに上回る処理能力と信頼性を有していなければならないハズである。LKASについては現状では人間は常にステアリングを握り、いつなん時起こるかわからない突然機能しなくなった瞬間にそれを引き継ぐのが前提ということになるが、これは自動化が実用レベルに達していないということであり、テスト段階のものを責任を運転者に課して市販化しているようなものだといっても過言ではないかも知れない。それを前提として受け入れるかどうかは個人と社会の判断かもしれないが、大多数の人が本当の意味でそれを受け入れているのかというと大いに疑問である。クルマは常に周りに多くの人やクルマが存在する状況であり、飛行機のように高度何千メートルで周囲に何もないということは一瞬足りともない。高速道路はそれに近いのかも知れないが、それにしても上空とは比べ物にならないほど障害物や危険要因があるハズだ。それだけ自動化のハードルは高いハズである。

結局、中途半端なものでも頼ろうとしてしまうのが人間である。自動ブレーキの登場当初PRイベントで壁に激突した事故がマスコミに大きく取り上げられたが、実際自動ブレーキの過信による事故も起こっているようであり(あまりマスコミは取り上げなくなったが)、前述のアメリカでの事故もこういうことだったと言えるのかも知れない。運転者は死亡したが、他人を巻き込まなかったのは単に運が良かったとしか言いようがない。
もちろん何事にも長短があり、デメリットを上回るメリットがあればそれは実用化されるべきであるとは思うし、仮に一つの危険性が助長されたとしてもそれを上回る安全性が得られるのであればその方向に進むべきだとも思うが、少なくとも現時点ではそうはなっていないと思う。やはり完全自動化以前の中途半端な支援は危険を助長する可能性が高く、強いてメリットがあるとすればやはり運転者の能力が明らかに低下したときそれを補完する、あるいは明らかな危険が差し迫ったときにそれを避ける、ということに限定されるべきなのではないかと思う。

最後にもう一つ、これは多分に感覚的なものであり、個人の資質の問題でもあるが、ACCがあるだけでも運転に対する集中力は低下する、それは実感した。
Posted at 2018/04/15 22:00:13 | コメント(0) | トラックバック(0) | クルマ
2018年03月24日 イイね!

団塊ジュニアの老後

社会も経済も全く知らないおっさんの、単なる「感想」と「妄想」である。

子供の頃は日本の歴史上最も物質的に豊かな生活を送ることができたが、社会に出てからは全てが悪くなる一方という、少し哀れな世代が団塊ジュニアである。そして彼らにとって最も悲しい現実は、人生の最期に待っている。もちろんそれは時代のせいであって誰のせいでもないのだが。

20年後、団塊ジュニア世代が65歳以上となり現在で言う定年退職の年齢となるが、その頃には日本のサラリーマンにとって「老後」という概念の根幹である「退職金」と「年金」は100%崩壊するといって間違いないだろう。そもそもそれ以前にこれだけ多くの非正規雇用が生み出されたなか定年も退職金もへったくれもないというハナシにはなるのだが、いずれにせよその頃には正規非正規に関わらずこれまでの「老後」の概念自体が崩壊するのである。

退職金についてはあくまで企業が運営するものであり、単純に「払うカネがないから払えない」という理由だけで充分だろうし、可能性についても議論の余地はゼロである。
言うまでもなく問題は年金の方だ。これは日本の社会全体に相当の影響を与えるハズである。
本来ならこの話をする前にまず「崩壊」「破綻」という「言葉」の定義と、なぜ崩壊するのかという「理屈」「根拠」が必要なのだが、後者についてはここではあえて割愛する。
ネット上では破綻「する」か「しない」かのハナシばかりだが、問題なのはある時点と比較して要件あるいは水準がどう変化するのかということであり、それを「破綻」と呼ぶか呼ばないかということは全くもってどうでもいいことである。
自分の中ではまず支給金額だけでこの50年間の平均的な年金生活者と同等の生活ができなくなった時点で「破綻」となる。
そしてもう一つ、支給開始年齢が常識的かどうかということであり、それが70歳となった時点で自分の中では「破綻」となる。
言うまでもなく国家がこのような定義をすることは絶対にない。まず結果としての全体の水準ありきということ以外なり得ず、それについて国民に対しもっともらしい理屈を付けて、100年後も存続すると言い張るしかないのである。

20年後、支給開始年齢が70歳となるのは確定的である。10年以内に定年が65歳となり、更に70歳とすることができるか、もしくは逆に定年の概念自体がなくなるかどうかというところである。どのみち70歳定年というのは企業側からの反発が大きいハズでありとりあえず65歳ということになれば、支給開始の70歳までの5年間はいわゆる再雇用制度やアルバイトなどで食いつなぐしかないということになる。仮にそれが可能だとした場合、最終的にカネを払うのは企業であり、形としては企業が年金を肩代わりすることになると言ってもいいだろう。もちろん労働の対価としての賃金という形にはなり、企業が必要として雇用するなら何も問題はないが、例えば一定数以上雇用しなければならないなどと法律上定められることになる可能性はある。これはどう考えても企業にとって相当のリスクと言わざるを得ないだろう。もちろんその金額については労働者一人あたりで言えば僅かなものとなるのは間違いない。再雇用では給料をどれだけ減らされても労働者は文句を言えないという判例は既にちゃんと出ているのだ。これは既にそのような考え方で世の中が動き始めているということでもあり、当然大企業などは少しでも負担を減らすための対策を検討していることだろう。
しかしそれ以前に根本的な問題となるのは、そもそも最低限の雇用、労働需要が存在するだけの経済状況と産業構造にあることがこの考え方の大前提だということである。仮に経済自体が現在より相当縮小するような事になれば、年金がなければ働くしかないという形を取ることすら不可能である。もちろんそれは全般論として現在の年金であっても同じことではあるが、雇用という形を取る以上企業側にとっては経済状況を理由に「できない」とすることは当然だろう。そうなるともはや年金の代わりとなるものは生活保護しかないということになり、国家としてはかなり苦しい状況となるハズである(ベーシックインカムなどという考え方はこの辺から来るのだろう。実現することはまずないだろうが)。ただ労働需要という意味では、少子化による人手不足が深刻化するというハナシもあり、既にその方向に誘導するような情報が流されているということを考えると、この辺りはそれなりのバランスが保たれることにはなるのかも知れない。

労働者としては、そもそも70歳まで「働ける」ということがホントに当たり前なのだろうかという疑問は拭えない。こればかりは老化という自然の法則であり、いくら医療が進歩した現在でも、それが当たり前というのはさすがにムリがあるだろう。
実際自分の場合は70歳まで今の仕事をすることは能力的に難しいと思うし、まして就職してから50年間近く同じ場所で働くなど、感情的には考えたくもない。
ここまで考えるとそもそも65歳に達する前に、「働く」という選択をすること自体バカバカしくなってくるのは果たして自分だけだろうか。またその頃にはそもそも働きたくても働けないという人も相当な数に昇るだろう。そうなればそのような人たちは生活保護に向かうことになるハズである。その方が70歳まで働いたうえで年金をもらうよりはマシ、ということになりかねないのではないだろうか。そうなれば当然生活保護の財政負担が増加することになり、そうならないためには給付水準を下げ、支給要件を厳しくする、ということになるのは間違いない。生活保護についても、それを破綻と呼ぶかどうかというだけの問題となるのである。

確かに年金は掛け金を運用することで成り立っているという制度的なハナシはある。が、国家が運営しているという点において最終的には全ての責任は国家にあるのであり、ということは結局運用で回らなくなれば税金が投入されることは間違いない。当然消費税の大幅増税もあるだろう。結局国家予算全体のハナシであり、年金も医療保険も生活保護も公共事業も含めその中で何にどれくらい支出するかというだけのことである。つまり年金が破綻するということは医療保険も生活保護も公共事業も全て破綻するということだといっても過言ではないハズだ。もちろんここでいう「破綻」も、今現在我々が考える平均的水準を相当下回るということを言っているに過ぎず、ゼロになるという意味ではない。当然国家としては予算全体のバランスを取りつつそれぞれの水準をコントロールしながら、それらが妥当な水準なのだという理屈をつくり上げるだけのことである。となれば、年金の優先順位は生活保護よりは上に設定されるハズだ。でなければ皆生活保護を選択することになる。ということは年金が本当に苦しくなるある程度前の時点で、生活保護は相当水準を下げることになるだろう。

結局、年金、医療保険、生活保護が相当水準を下げるのは確実でありそれがどれくらいなのかという問題なのである。自分の中では少なくともこの50年ほどの水準については一定の範囲内というイメージはあるので、それ以前の日本をイメージするのが判りやすいのではないだろうかと思う。ということは今から60年ほど前、2040年から見ればその80年前、1960年頃の60歳をイメージしておくのがちょうどいいのかもしれない。あの頃の老人の生き方しかないのだと考えればなんとなくイメージは湧くし、老人などというものはそんなものだという気もする。平均寿命まで生きても年金をもらえるのは10年そこそこ、所詮年金などというものはそれくらいのものだったと考えれば多少判るような気もしないでもない。
ただ、社会も家族も働き方も当時とは相当形を変えており、大勢の子どもたちに囲まれ家族に支えられて生きていたあの頃とは違い、老人ばかりの社会の中、夫婦でまたは一人で黙々と生きていくということになるのだろう。逆に必要に迫られて家族が肩寄せあって生きていくという形の社会に戻っていくのかも知れない。言うまでもなくクルマなど所有できるハズもない。

結局どれだけ考えようとも「自分しか頼るものはない」「諦めるしかない」ということであり、それが国家の思うツボであったとしても、そうとしか言いようがないのである。もしくは全てを受け入れたうえで「とにかく今さえ良ければいい」という生き方も、逆に大いにアリだろう。
またこれらはあくまで団塊ジュニアにとってのハナシであり、彼らがこの世を去る頃にはまた状況は変わるハズである。国家として見ればその時が来るのを待つだけだと言ってもいいのかもしれない。
そう考えれば、戦後日本の成長を支えた団塊の世代をなんとか最後まで送り届け、少なくとも幼少期だけは豊かに過ごした自分たちが全ての損を被り、閉塞した時代を生き続けるその次の世代にこれ以上の負担を残すことなくこの世を去るのが、団塊ジュニアにとってせめてもの美学という考え方もアリかもしれない。戦後日本で何を残すことも無かったこの世代が、最後に意義のある何かを残せるとすれば、それはせめて「何も残さない」ことなのかもしれない。
Posted at 2018/03/24 20:44:26 | コメント(0) | トラックバック(0) | クルマ
2018年03月17日 イイね!

自動車メーカーと自動車レースについて

日産が今シーズンからフォーミュラEに参戦するということで感想。
というよりかつてのF1ブームにハマったおっさんの単なる「郷愁」である。

「少しでも人々の生活をラクにするため」「少しでも人々の暮らす環境を良くするため」、そのような想いでモノづくりをしたといわれるカリスマ創業者の、20年前に読んだそんな伝記本のハナシを真に受けている自分が一番愚かであるということは重々承知している。そもそもその本の内容が事実かどうかすら知る由もなく、もちろん今はそんなこと現実的にはあり得ないという認識はある。が、もしかしたらこの時代はまだそんなことがホントにあったのではないか、少なくともそう思えるような、これぞまさにプロダクトアウトという技術を形にしてきた過去の事実は確かにあったのだろうと思う。それを見て感心していたかつてのクルマ好きとしては、ここ20年以上そのような感情を抱いたことがないという事実は残念としか言いようがない(それから30年近い月日が経ったことに愕然とする今日このごろである)。
技術で社会を変えることができるということを、そして人々に夢と興奮を与えることができるということを世界最高峰のレースに参加することで示してきた彼が、その結果蓄積した技術と資本の現状を見ることがあったとしたら、果たしてどう思うだろうか。

あの頃なぜあれほど多くの日本の人々がF1に夢中になったのかといえば、単純に日本のメーカーが世界の頂点に立ったという、それまで出来なかった日本人にとってまさに「夢」だったことだからである。70年代80年代という夢はいつか必ず実現すると思われていた時代にあって、日本がそれまで追い続けてきた世界についに届いたという物語性は、多くの人々にとって単純ながらも大きな感動となった。2週間に一度午前1時に起き出してまでテレビを見るほどの興奮を得られたのは、画面の向こう側にあった憧れの世界と繋がることができたからだろう。
ということは逆に言えば、一度世界の頂点に立ってしまった後は仮にどれだけ勝利しようとももう二度と同じ興奮を味わうことはできないということになる。それは人間の認識や感情の仕組み上どうしようもないことであり、仮にその後何年も勝ち続けたとしても当時のファンにとってはもう興奮することはできないのである。

もちろんF1を含め一般的にプロスポーツというものは全て「興行」であり、例えば日本のプロ野球がそうであるように常に勝者に自分を投影し、勝利という結果からくる満足感をだけを求める人々が、観客、視聴者あるいはファンと呼ばれる「消費者」の大半であることは間違いないだろう。当時のブームは単に勝利という結果を消費する人々に対してそれを供給していただけという見方もできる。
またあの頃のブームは、F1をプロレスと同じ手法でショーアップし特定のドライバーを「妖怪とうせんぼじじい」などと面白おかしく表現することで人気を集めていた某有名アナウンサーの功績だとする意見も多くある。それが事実であったとして大半の人々がそれが面白くて見ていたのだとしても、それはそれで別に構わないし世の中そんなものだということは理解している。

しかし、当時カリスマ創業者は興行に参加する意図でF1に挑んだワケではないし、ファンの中にはただ16戦15勝という結果を消費していたワケではない人々も多くいたハズである。世界の有名チームとの戦いに、テレビに映るドライバーやメカニックの仕草に、何気なく積まれたタイヤに、なんとも言えないカッコよさを感じていたのだ。それはやはり今まで見たことのない、未知の世界への憧れだったと言って間違いないだろう。

彼が挑んだレースの世界では技術は絶え間なく進み続けるのが当たり前なのであって、技術の研鑽自体が目的なワケではない。その中で更に優れた結果を出すために、他のチームとは違うまだ誰もやったことが無いような何かを追い求めているのである。彼がそれに挑んだのは、それがまだ日本で誰もやったことがないことだったからであり、そしてその中でも誰もやったことがないことをやるんだという信念があったからこそである。つまりそのような中で本当に必要なのは結局技術そのものではなく、その技術で何をするのかという、技術者としての衝動的欲求だったのだろうと思う。チャンピオンになったのはあくまでその結果であり目的ではなかったと言ってもいいかも知れない。もちろん最初の挑戦とその後ではその目的、目標が同じというわけではなかったかも知れないが、少なくともそれはやはり「未知の世界」への挑戦だったことは間違いないだろう。

そしてカリスマ創業者は死に、時代も変わった。

今のF1はあの頃のF1とは全く違うものである。が、F1が変わったワケではなく、時代が変わり見る側が変わったのだ。逆に言えば、F1はあまりにも変われなかった。F1はマシンあってのスポーツだが、あの頃以前の30年間と比べそれ以後の30年間はマシンもエンジンもタイヤも見かけ上はほとんど変わっていない。その中でいくら高度な技術を競ってもそこに物語が見えてくることはなかなかないし、その上で見えてくるゲーム性や人間性はなおさらである。かつての栄光のチーム名を冠し、それにふさわしいとされるドライバーが仮にチャンピオンになっていたとしても、あの頃を知る人間にとっては同じ価値は無いと言っていいだろう。なぜならそれは新しい挑戦ではないからからであり、新しい価値がないからである。どれだけ技術が進歩しようと新らたな価値が与えられなければ、あの頃のファンは興味を持たないだろう。
おそらく彼なら今のF1に参戦することはないだろうし、全く別な新しい何かに挑戦していることだろう。しかし今の組織にはそのような決定は絶対に出来ないと言って間違いない。そもそも今の組織にとってF1に参加する意味は、欧州市場の販促策として有効だからというごく普通の理由以外にないハズだ。確かにブランド作りは重要であり、その意味では国内向けには何もしていない割に欧州向けにはちゃんと戦略を実行しているとも言える(実際F1はもはや国内にはあまり効果はないだろう)。ただ果たして莫大な投資がそれに見合うのかという判断にしかその根拠を求めることはできないような組織にとっては、とりあえず結果が出ればいいということだけがその唯一の目標となり、参戦するにも撤退するにも誰にもその決断をしづらい、ただのお荷物的存在になってしまうのではないだろうか。組織内部がそのような空気だとしたら、どんなに予算があっても技術者のやる気は高まらないだろうし、まして単に技術力だけでなくまずその世界の中で徹底的にやりあう姿勢が必要なF1界では、技術者が自分たちの仕事をやりつくすことすらできないのではないかとも思う。
そのような観点からすると、フォーミュラEの方がコストも遥かに低いハズだし、チームやメーカーの影響力を発揮できる余地もあると思うし、新しい何かという物語性もある。技術者のやる気も高まり、ファンの興味も引くことだろう。が、今の組織には新しい挑戦などそもそも必要ないし、ましていわゆるファンなどというものはもはや全く必要ではない。かつての偉大な実績というお墨付きがあってなんとか誰かが決断できるF1と比較しても、フォーミュラEへの参戦を決断することに初めからなんら意味を見出すことはできないだろう。それは組織の論理で生きている人間にとっては当然のことであり、現在の組織で決定権のある人間は100%そういう人間なのである。

とはいえ今の成熟した社会では、そのような人間こそが本当の勝者であるということは間違いない。彼らがどのようにして組織の頂点に上り詰めたのかということこそが伝記本として出版されるべきだが、本を読まなきゃそれが判らない者にも、逆にそれを他者に明かすような者にも、初めからその素質はないということになるだろう。
Posted at 2018/03/17 21:00:02 | コメント(0) | トラックバック(0) | クルマ
2018年03月04日 イイね!

ミニバンの「オラオラ顔」について

最近アル・ヴェルのモデルチェンジでそのデザインが話題になっているのと、それに絡んでアル・ヴェルがクラウンのポジションを受け継いでいるという記事をネットで見たので感想。

「クラウン」と言えば、言わずと知れた昭和の高級車の頂点であり、そしてもうひとつの顔がいわゆる「ヤンキー車」である。

「いつかはクラウン」という宣伝文句は、一定の年齢に達する頃までには経済的な成功(とまでは行かなくてもせめて充分な安定)を得た自分を誇示できるようになりたいという、昭和の男子の欲求を顕していた。たとえ今は裕福ではなくとも真面目に働いてさえいれば社会にも貢献し家族をしっかり養ってきたという証を手にすることができる、そう多くの人が考えていたのが昭和という時代である。それは実直な考え方からくる高級志向だと思うし、そのような自信を得ることでその先の40代50代を余裕を持って過ごしていくことができるというのは、ごくごく普通の人々にとっても理想であったと言えるだろう。決して公道で弱者を蹴散らして走りたいなどという欲求を顕していたワケではないハズだ。

一方いわゆるヤンキーとは、狭い社会で序列に基づいて生きることを旨とする人々のうち、特にその性質が顕著な若年層を指していた。年齢による上下関係の外、服装、髪型などの外見、言動、暴力など攻撃的性質を持って序列を維持しようとする特徴があり、特に地方部では就職など社会に出ても同じ人間関係がそのまま継続する場合が多いことなどから、都市部では学校を卒業するとともになくなるそのような性質が20代30代となっても続く場合が多い。
もちろん彼らは特段反社会的な人間というワケではなく、ただ特段能力的に優れているというわけでもないため、相対的に社会の保守的な側に位置せざるを得ず、結果として群れで生きることで進化してきた人間の本質により近い性質が顕著なだけである。あくまでそれは相対的なものであり、いつの時代であっても、またどんな上流社会にあっても、個人の能力を重視し論理的な判断をもって社会をリードしようとする人間もいれば、序列をもって社会に自分の居場所を確保しようとする人間も存在するのである。

ヤンキーにとっては、威圧的外見で自分の序列を示すことが最も重要な意味を持ち、クルマ社会と言われるほど生活の一部となった高度成長期以降特に公共交通の不便な地方部では、クルマはそのためのいくつかの道具のうちでも最たるものとなった。公道上で自分の序列を誇示し、自分より下と見なすものにそれを見せつけることは、彼らの欲求の最も本質的な部分である。最近話題の「あおり運転」というのは、相当以前から存在する、クルマと社会と人間の本質的な問題なのである(もちろんクルマは顔が見えにくいという性質から来る匿名性という現在のネット社会にも通じるこれもまた人間の本質的な側面もあるだろう)。そんな彼らにとっては高級車という価値観こそが重要であり、クラウンはまさにその頂点であった。実際は経済的な理由で中古車がその大半を占めてはいたが、ミドルクラス以上のセダンはヤンキー車として相当の需要があったのである。

翻って現在のクラウンの需要は、長寿命化の恩恵で未だ経済力を持つかつての中高年ユーザーには残っているものの、若い世代の人口と経済力は当時より相当低下し特にその影響が強い地方部はヤンキー自体がほぼ絶滅した結果、ヤンキー車としての需要は完全に失われた。
ただし、かつてヤンキーだった最後の世代はクルマ消費の最後の世代として存在しており、中高年となりクラウンユーザーとなるハズだったの彼らの需要が、アル・ヴェルへと移ったのである。

アル・ヴェルは平成以降「オデッセイ」や「ステップワゴン」を起源とする乗用車ベースのワンボックスカー、いわゆるミニバンの進化によって生まれた、クラウン全盛の時代にはなかったジャンルである。チャイルドシート義務化などの影響もありミニバンは子育て世代となった団塊ジュニアに支持され需要を伸ばしていた。その中でもオデッセイは高級志向でヤンキーの支持を集め始めていたが、更なる高級志向を打ち出した日産「エルグランド」のヒットを受けてトヨタが投入したアル・ヴェルは、それまでのミニバンになかった「序列思考の頂点」という、かつてクラウンが持っていた価値感を提供することに成功したのである。
威圧感のために車高を落とすのが当然だったヤンキーにとっては、セダンが持つ走りや乗り心地の優位性は全く不要であり、その点で明らかに不利なミニバンであっても全く問題とはならない。逆にクルマそのものの大型化は、彼らの価値観において単純に最も重要な要素となったのである。
もちろんこれらはヤンキーだけでなく、セダンの優位性にこだわらないフツーのユーザーにとっても共通するものだろう。つまり多くのユーザーにとって高級車がセダンである必要性は元々なかったということであり、その結果アル・ヴェルがかつてのクラウンユーザーのような「実直な考え方からくる高級志向」のユーザーをも取り込んでいったのである。トヨタはアメリカで需要の高いセダンをそのまま日本でも売りたいため「セダン復権」を掲げているが、日本のユーザーの多くはセダンに対する特別な意識はおそらくないだろう。
結局多くのユーザーがクルマに求めるものは「走り」でも「乗り心地」でもなく「高級感」という「イメージ」であり、需要がそれを顕しているのである。メーカーは当然のごとくそれを提供し、更にその需要を伸ばしていこうと考えるのが自然の法則である。ちなみにミニバンでありながら高級セダン並の走りと乗り心地を提供したと言われる「エリシオン」は、実際一部のクルマ好きを除き全く支持されなかった。

今回のアル・ヴェルのモデルチェンジについては、ネットの記事でもほとんどがそのデザインについて大きく取り上げている。中には「下品」という表現をあえて使うものもあるが、そういう表現になるのも「そういうクルマ」だという認識が記事を見る側にもあるハズだと考えるからだろう。ネットの記事というのはまずは注目を引く必要があるのだ。
デザインそのものについては「下品」という表現は当たらないと個人的には思う。確かに大型のグリルは威圧感があるかも知れないが、そのようなデザインは他にも存在するし、元々はドイツ車などの高級外車に多く見られたものである。ただ現行クラウンやアル・ヴェル、エスクワイアについてはあまりにも極端ではあるし、またトヨタのノア・ヴォクとホンダのステップワゴンが最近やはり同じようなデザインになったことを考えると、メーカーの意図するところは明確である。それはやはり「威圧感」であり、クルマで他人を威圧したいというヤンキー的需要に対してメーカーが明らかなヤンキー車を供給するということは、やはり下品であると言わざるを得ないかもしれない。「実直な高級志向のユーザー」も相当数存在する中にあっては、そのようなデザインは彼らの支持を失うおそれもあるハズだが、それでもメーカーがこのようなデザインを採用するというのは、結局のところクラウンもアル・ヴェルも「そういうクルマ」であるという認識が多くのユーザーに許容、共有されているということであり、それはやはりその「下品」さが人間の本質であるということなのだろう。
Posted at 2018/03/04 21:26:14 | コメント(0) | トラックバック(0) | クルマ
2018年02月23日 イイね!

クルマ社会の安全と自動運転

業界の実情も経済も全く知らないおっさんの、単なる「感想」と「妄想」である。

そもそも何のための自動運転なのかということで言えば、少なくとも今の流れはアメリカ発の「IT革命」「イノベーション」という経済の論理であり、全く新しい交通システムにまで及ぶ変革によって生み出される莫大な利益が目的である。とはいえ当然交通事故防止、高齢化社会への対応といった社会的利益があって初めて成立するものである。
技術的にはいわゆるIT、AI技術による完全な自動化が最大のポイントであり、既存の自動車の安全性向上、事故防止とは根本的に違うものである。この完全自動運転=安全という考え方は逆に言えば、人間はミスをする、違反を犯す、事故を起こす、危険である、ということが大前提であるということになり、これはこれまでの自動車業界の姿勢を根本的に否定する事にすらなり得ると言ってもいいだろう。当然今の自動運転の流れは自動車業界から発信されたものではなく、これほど大きな外からの力がなければ自動車業界がこれらを実現することはなかったのではないだろうか。少なくとも現時点において日本のメーカーがあくまで自動運転とは違う形の運転支援技術という表現を主に使っているのは、技術的定義以外にそういった背景があるのではないだろうか。ちなみに日産は積極的に自動運転という言葉を使っているが、この辺りも日産は既に日本のメーカーではないと考える理由の一つとなる(実際「レベル2」を満たしてきているということはあるだろう。もちろんいいとか悪いとかということでもない)。

安全性、事故防止という観点では、ここ20年くらいではエアバッグ、ABS、衝突安全ボディといったモノであり、それらは現在ようやく定着したと言える。最近では自動ブレーキや踏み間違い防止機能といったところだが、これらが完全に定着するには仮に既に10年経過しているとしてもあと10年はかかるだろう。前者の3つが事故時のダメージ軽減であるのと違い、後者の2つは人間の能力不足を補い事故を事前に回避するという考え方であり、その意味では自動運転に近いと言えるかもしれない。これらは自動車側としてできる範囲のことはある程度はやっているという印象を与えるには充分かもしれないが、この20年、いや少なくとも死亡事故が激増した高度経済成長期以降の40年という時間を考えればとっくに実用化されているか、考え方だけでも示されていていいハズのものだって山ほどあると個人的には思っている。
例えば最近ようやく実用化されてきたブラインドスポットモニターは、駐車時の音波センサーや後退時のモニターはかなり前から存在するのに何故無いのだろうと昔から思っていた。またブレーキサポートに使われる各種のレーダー技術は、濃霧や吹雪の視界不良時に多少なりとも運転を支援できると思うのだが、そのような使い方は現時点では提供されていない。
指紋などの個人認証技術は、盗難防止だけでなく無免許運転や特定の病気、認知症などに有効な対策となるだろうし、また最近かなり大きな関心事となった飲酒運転に対しては、呼気だけでなくさまざまなセンサーを用いた判定技術などもあっていいハズだ。タッチパネルを使った簡単な認知機能テストをクリアしないと走行できないとか、後で証拠となるよう記録が残るというだけでも抑止力としては有効だろうと思う。
もちろんそのような話になった時、現時点でそれが技術的にまたは法的にどれくらい難しいかといった言うハナシはいくらでも出てくるのだろうが、そもそも自動運転もこれからの技術の方向性の話であって、これまで自動車メーカーの口からそのような事故防止の観点からのクルマの未来の技術など語られてきたことすらなかったのである。

というかそもそも最も基本的なハズの走行速度すら一切コントロールしていないのが現状であり、法的に不可能であるはずの100km/h以上誰でも平気で出すことができるという状況をどう考えるかというのは、本来であれば根本的な問題となるハズである(30年前は100km/h以上は警告音が鳴り続けたがこれも廃止された)。このことについて技術的かつ法的に説明ができるハズもなく、まして自動運転ではこのようなことは絶対にないハズである。既存の自動車メーカーがその問に答えずして自動運転がどうのこうのという事自体明らかに矛盾があるということになるハズだが、自動車業界は当然マスコミも政治行政もそれに触れることはできないのである。
もちろん自分のようなクルマ好きにとっては、速度も出力も制限されないほうがいいに決まっている。結局クルマはこの50年以上日本を含む世界の経済の大部分を担ってきたモノであり、その危険性をことさら強調したりそれを規制するなどということはもちろん、自動車業界の利益が減少するようなことは可能な限り避けようという力が働いていたことは当然のことである。結局全ては経済の論理であるというのが唯一の答えであり、そもそも安全がどうのこうのということでは全くない。安全という名の商品が利益となるのかならないのか、クルマという商品の価値を損なうことがないか、自動車業界にとってはただそれだけのことである。
確かにクルマの場合さまざまな規制があり認可が必要だが、規制が利権を生むというのは社会の常識であり政治行政はまさにそれが本業である。自動車業界にとって利益になるようにまさに「お墨付き」を与えることが政治行政の仕事であり彼らの利益となるのだ。仮に「安全」が自動車業界にとって利益になるのであれば法律や規制を変えてそれは実現されることになるし、逆も然りである。世の中とはそういうものであり、言うまでもなく自動車業界だけが悪いのではない。結果として規制と矛盾が大量に生み出されるのである。20年前にバイクの走行中の前照灯の点灯が法的に義務付けられた時も、そんな単純なことすら自動化されることはなかった。

理屈や正論では動かないのが世の中であり、それは資本側だけではなく大衆側も同じである。むしろ資本側のほうが経済の力学で動くという意味では論理的であり、全く非論理的なのはむしろ大衆側の方だ。制限速度以上出ないクルマがフツーに売れるのであれば、逆に速度超過できるクルマが悪いとして批判されるのであれば、自動車メーカーとてそれに対応するだろう。そもそもクルマは大衆が日常的に用いるモノの中で最も危険であるにもかかわらず、その認識が甚だ低すぎるというのも明らかな事実だろう。自身の安全のためのシートベルトですら義務付けされなければ締めない人が大半であり、安全性について高い意識を持ちそれをクルマに求める人はごく少数しかいないというのは厳然たる事実である。最近の運転支援技術も本当に必要であろう人々、あえて言えば高齢者や女性などはかえってそのようなクルマを選ばないあるいは付いているにもかかわらず使おうとしない傾向がある。なぜならそれらが何を意味すらのかすら認識がないからである。ということは当然、他人に危害を加える可能性を現実的に認識している人間がどれほどいるのかということであり、それらは全て現実が示しているとおりである(それでいて「ミサイル」が、「工作員」がどうのこうのという時点で社会の一般的平均的な認知能力を顕している、というのはハナシが飛び過ぎなのでこの辺りでヤメておくが)。

一般的な認識という観点からすれば、交通事故で毎年何千人も死のうが、もっと多くのケガ人や障害者や遺児が生み出されようが、クルマではなく運転者が悪いというのがフツーの日本人の感覚である(もちろん自分もそうだったが)。飲酒運転と言えど酒が悪いワケでもクルマが悪いワケでもないのである。これは極端に言えばアメリカで銃が規制されないのと同じであり、全米ライフル協会も自動車メーカーも同じということである(もちろん個人的には感覚的に相当の違いはあるが)。
また最近ではタカタ製エアバッグの問題があったにもかかわらず自動車(完成車)メーカーが「安全軽視」などと非難されるというようなことは、少なくとも日本ではこれまで全くといっていいほどなかったと思う。エアバッグ問題については完成車メーカーの対応が奏功したのかもしれないが、それでも自動車の安全性についての日本のユーザーの認識は明らかに低いと言わざるを得ないだろう。これについては自動車業界というより国家としての大衆の統治に成功していると言ってもいいのかもしれない(これも若干トび過ぎか)。確かにクルマは自分で運転するモノであり個人が相当の責任を負うというのは理屈として成立はするが、明らかに個人ではなく社会が責任を負うべきものに対しても、大衆側の意識が低い結果資本側が責任を負うことがないという状況がすっかり定着しているのは間違いないだろう。これは現在日本のあらゆる業種で発覚が相次ぐ品質問題、コンプライアンス問題にも通じる組織的無責任体質が如実に顕していると言える(ただこれについては問題の重要性により個別に判断すべきであり全てを一概に悪質であるとは言えないが、責任問題については結局ほとんどうやむやである)。
そしてもう一つ、公共交通機関である鉄道についても、本来であれば自動化されていて当然と思われるが、実態としては全くと言っていいほど自動化は進んでいない。日本で最悪の鉄道事故が起きたのはわずか10数年前であり、その原因がスピードの出しすぎだったということも、技術的に可能にもかかわらず費用的な理由で自動化がされなかったことも、責任を問われたのは実際運転していた運転士だけだったということも、そして事故後どれだけ自動化が進んだのかということも、昨今の自動運転ブームを前にして、もはや言葉を失うほかない。
ここまで考えるとやはり完全自動運転こそが、クルマの運転から人間を排除することこそが、人間を守る最良の方法なのかもしれない。
Posted at 2018/02/23 21:50:31 | コメント(0) | トラックバック(0) | クルマ

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