母が6日に入院した。
画像はその病院を愛車の車内から撮ったもの。
診断は
「誤えん性の肺炎」ではあるんだけど。
2日前の土曜の夜には39度の発熱があった。けど、その翌日には37台になり、そのまた翌日の月曜日には平熱になった。栄養状態が悪く、体力が落ちてると、熱も出ないらしい。
昨年の3月にも同様に誤えん性肺炎と思われる38度台の発熱があり、往診で血液検査すると、炎症反応を示すCRPの値が19.7にもなり(正常値は0.01~0.30)、即入院を勧められたけど、過去の入院経験から、なるべく避けたくて、抗生剤(ジェニナック)を処方してもらって服用させる事で、自宅で回復させた。
似たような状態は10月にも発生してる。
今回はともかく、
まるで食べられなくなっていた。
プリン状の栄養補助食品「アイソカル」やヨーグルトでも、口に入れたら数回はパクパクとするものの、口に残ったままで止まってしまう。飲み物はむせるばかり。
それでもまだ、1月中は何とか食べられていた。
1月29日の食事はアイソカル、バニラヨーグルト、温泉卵、マンゴー(冷凍品)、R-1、
アマニ油、アミノサプリ。

後はビタミンやミネラルなどのサプリも、高血圧や血栓を溶かす薬などと一緒にに砕いて服薬ゼリーと混ぜてムース状にして食べさせる。
1月25日が最後のおじや。マグロのタタキ(冷凍)、すき焼きふうおじや、ミニトマト、アマニ油、青汁
2月に入ると、アイソカルかバニラヨーグルトのいずれかを、かろうじて食べる程度。
つい、無理して食べさせようとして、それを誤って飲み込んで肺に入り、肺炎になるようだ。
もう「胃ろう」しかないのか。往診の医師は以前から提案されていた。
「胃ろう」とは
お腹に穴をあけて、胃にも穴を開けて、カテーテル(管)を通しておいて、外から直接、胃に流動食のようなのを流し込むのだ。
腹の穴にはキャップみたいのをして、風呂にも入れるらしい。つまり、腹に給油口を取り付けるようなもの。
同じく認知症だった父も晩年、その胃ろうをして、施設→病院と2~3年は過ごした。
その胃ろうの取り付けは手術になり、今回はそれを目的に入院させたようもの。
前回、「誤えん性肺炎」で入院したのは2018年8月だった。同じ、国立の病院で、それ以前の私立の病院とは大違い。ずっと印象は良かったのだけど。
母が入院すると、私は毎日かかさず出向いて、夕食を食べさせ、口の中を掃除、歯磨きをしていた。
ところが、
今回はコロナで見舞いは一切出来ない。
考えたら、
4年半ぶりに母がいない。
常に母の介護が中心の生活から開放されたわけだけど、この虚無感たるや。
愛車も懸案のドアロック・アクチュエーターの交換をしたいのだけど、どの程度の手間がかかるのか不明で、途中で病院から呼ばれる可能性もあり、どうしたものかと思案中だ。
母はこれまでにも、食べさせた後、ちょっと目を離した間に、むせて吐いてしまい、それを誤えんして発熱、肺炎を起こし、入院したことが何度かあった。
食べさせるのに1時間以上かかる上に、ともかく食べた後は目が離させないのだ。
食べさせ終えて、やれやれと油断してると、突然、むせる。それは唾液でなのか、胃からの逆流なのか。その後の咳き込みと同時に「ゲボっ」とやると、完全に食道への逆流があるようで、何かを飲み込もうとゴクン、ゴクンを繰り返す。もう吐く準備万端なのだ。私がその場におれば、慌ててビニール袋を口元へ。
食後もしばらくは電動ベッドを起こした状態にしておくのだが、そのままの体勢で突然、吐くのだから、下手するとそれで窒息にもなりうる。
母は食事中も、むせると、その「ゲボっ」をやる事がある。飲み込みは下手なのに、吐くのはすごくうまいのだ。
病院でのCTの結果、やはり、
肺の背中側が白くなっていて、それは最近、急になったものだけで無く、慢性的に唾液だったり、これまでの飲食時に誤えんしてきた結果のようだ。寝たきりなので、背中のほうにたまり、炎症を起こす。
自分でも、たまに飲み物などで、むせると、それは苦しいものだ。それが母の場合は毎食、しかも1回の食事中に何度も繰り返し、むせてるのだから。時にはガラガラ、ボコボコと溺れそうになる事もある。
私は何とか食べさせようとするのだが、それは「拷問」のようだったかもしれない。
だから、胃ろうにすればと思うのだが、
若い医師は
「もう老衰だから」と胃ろうは勧められないと言う。ならば、食べられずに死を待つだけなのか。
ともかく、今は点滴で栄養状態を回復し、肺炎を治してからの話しになった。
その点滴も、腕がむくんでいて、血管が細くて入らない。往診時の血液検査でも、手の甲から細い針で採血するなど、いつも苦労していた。
それで
「中心静脈栄養」というのをすると言う。心臓に近い静脈までカテーテルを入れて、高カロリーな栄養分を注入するらしい。
普通は上腕から入れるらしいけど、腕が上がらないという。腕を上げないと、カテーテルが脳のほうに行ってしまうと。
訪問リハビリを止めてから、
オムツ交換の度に母の手足のストレッチをしていたが、
腕を真上に上げる事はしてなかった。なんせ頭のすぐ上にはベッドの縦板があるから。
次の候補は股間のそ径部だけど、不潔になりやすい。
それで最後の候補は
首の血管から入れるらしい。菌が入ったり、動いて傷つけるリスクがあると言う。エコーを見ながらの手術?らしく、自分がされるとしたら、首に針を刺すなんて恐ろしい。
母は普段は全く動かないが、安静にしてても、突然、むせる事があり、数分間も咳き込む事がある。その時は反動で体も動く。そんな心配を伝えておいたけど、8日には無事に成功したと連絡があった。
現在の
母はまさに今日18日に89才になり、
記録の写真を見ると
2016年の3月頃からベッドで寝たきり状態のようだ。
つまり、
寝たきりで8年目になる。そんな母も2015年まではディサービスに行っていた。
では、
なぜディサービスを止めたのか、なんで在宅で母を看てるのか、
その辺の事を順に書いておきたいと思う。
前に介護について書いたのが、昨年の8月で、すぐに続きを書くつもりでいたけど、半年が経ってしまった。
ともかく、記録に残しておきたくて、それが誰かの参考になればとは思うけど、
長くなるので、読書習慣のあるような人にしか勧められない。
私は自分で長文を書いても、本とかまるで読まないので。
過去の事を思いつくままに書くと、
それらの年代、時間の順が正しくないかもしれないが、たまたま撮影した写真以外に記録が無い。
母が寝たきりになってからは、毎日、食べさせたものや、その時間、オムツ交換の時間などを記録してはいるのだが。
前にも書いたように、
我が家は両親共に認知症だ。
最初は父だった。バイク(125ccのスクーター)で出かけても、帰り道がわからなくなった。購入先のバイク屋に電話して、軽トラにバイクを乗せて、父と一緒に帰宅する。そんな事が数回あり、自らバイクを処分し、免許返納した。
このような
生活に支障をきたすような「物忘れ」が前兆なのは、母も同じだった。
当時の父は定年後で、音楽を聞くのが趣味。私のお下がりのオーディオ機器で、主にFMのエアチェックをしていた。今の人は知らないか、FM放送のクラシック音楽をカセットテープに録音するのだ。そのカセットのラベルには細かく曲名を書いたりしていた。几帳面な性格だったかもしれない。
父の場合は、次の段階に進むと、小柄で物静かな印象だったのが、
母に暴力を振るうようになった。
それが、最初の兆候から1年も経ってなかったように思うのだが。
暗くなってから、私が仕事から帰宅すると、母は家の外にいて
「殺されるかと思った」と、外に避難していて、家に入れなかったのだ。私が父の胸ぐらを掴んで、片手で持ち上げ「なんでそんな事をするんや」と怒鳴ると「すみません。もうしません」
私が家にいる時でも、階下で母の悲鳴がするので、慌てておりて行くと、父が母に馬乗りになっていたり。ともかく、何か気に入らない事があると、モノを投げつけたり、手を上げたりする。
そのクセ、私が怒鳴ると、しょぼんと黙って、小さくなってる。
その後、近くの施設へディサービスに試しに行っても、すぐに
「女性に暴力を振るう」と追い出された。相手を見て、弱い者に手を出すのだ。もう最低!
まともな頃は、とてもそんな感じはなかったのに。ただ、私が子供の頃から、何か尋ねても、しどろもどろで、論理的に話すのが苦手だった。
一方で、
母は口が達者だった。
父を見てると、
認知症になると、その人の本性があらわになるのでは、とさえ思えてしまう。
ちなみに、父の頃はまだ「認知症」なんて言葉は無くて、「痴呆症」と呼ばれていた。
「認知症」は単に「物忘れ」が酷くなるというだけでは済まない。
「認知症でも人格がある」とか「社会が認知症とどう向き合い共存するか」なんて言われるけど、軽度の認知症の状態で止まればいいけど、そうでは無くて、
必ず進行する。
私の両親の認知症を見てると、
とても
手に負えない時期が来る。
それを過ぎてしまうと、言葉を失い、動かなくなって、落ち着いては来るようだけど。
父は昔から食べ物の好き嫌いが激しく、それは一人っ子のせいもあるかも。本来、兄弟が6人ほどいたはずなんだけど、みんな生まれて間もなく亡くなってる。大正14年生まれで、母より9才年上。当時の医療事情もあるだろうけど、どうも心臓に欠陥が出る家系なのかもしれない。
ともかく、肉しか食べない。魚は大嫌い。酸っぱいのも極端に嫌う。野菜も食べない。
自宅でいる時は、
母が父の介護していた。オシッコだと言うので、母が父をトイレに連れて行くけど、中に入ると、隅に見える柱を掴んで「取れへん」と言ったり、まるでオシッコをしない。母が尿瓶を当てたりしていたが。
オムツをするようになり、排泄はその中に。お尻を拭いたり、処理をするのに、使い捨てのゴム手袋を用意しても、母はいつも素手でするので、その後、手を洗ったかどうかが気になるし、そのまま台所に行くので、
私は母が「不潔な人間」という思いが強くなって行った。
私は当時、父の下の世話はした事が無く、オムツを下ろして処理中に、自分の手を持って行こうとするので、「手を抑えてて」と言われて、両手を掴んでる程度だった。
その頃は、私はとてもウンチを拭いたりは出来ないと思った。
母が父を立たせたまま、オムツを下ろして拭いてたら、父はそのままヨタヨタと歩き出し、畳の上で、ボトボトとウンチを落としたのを見た事があった。それ以来、畳の上でも、私はスリッパを履くようになった。
母の異変に気づいたのは、近所の酒屋から、調味料などの配達を頼まれて、届けたのに、すぐまた同じ注文が入ると、私に連絡が来てからだった。
当時はクリーニング屋にも来てもらっていて「出したものが帰って来ない。電話を入れると、店員が持って来たけど、何も言わずに玄関からほうり投げて行った。もうあそこにはクリーニングは出さない」とか。
また母は腰が痛いからと、自分で近くの整形外科にかかって、そこのベッドの脇に腕時計を外して忘れたと、私の仕事先に電話がかかってきたり。私は真に受けて、その医院を調べて電話するも、時計は無いと言う。すると母は「取られた」と言ってたが、腕時計は引き出しの中で見つかり、他にも時計があったのかと、その時は思った。
また母は自分でも不安に思う事があってか、精神科のクリニックにもかかってたようだ。ところが、母が庭で草引きをしてると、隣にダスキンの女性(うちも以前にモップを借りてた事がある)が来て、隣の人と立ち話をしていて、母が精神科にかかってる事を話してたというのだ。
母が言うには、クリニックの看護師がこの住宅団地の人で、そこへ来たダスキンの人に話して、そのダスキンが噂を広めてるというのだ。
これも私は真に受けて、そのクリニックやダスキンにクレームを入れたもんだ。
今、考えれば、母がおかしいと、すぐにわかるけど、当時はそうは思えず、母の言う事を信じていたんだ。
他にも、私が仕事に出て行って、空いてる1台分のカーポートに、誰か知らない人が来て「日中だけ貸して欲しい」と言って来たとか。
あるいは、そのカーポートに人が入り込んで、中でウンチしてたとか。それも洗い流すのに苦労したと言うのだ。見に行くと、たしかに茶色い跡があり、それも信じてしまった。
「ホラ吹き」というのは、こういう事かもしれない。何かを見たり、聞いたりして連想した事、嫌な思いをした事から、その空想と現実の違いがわからなくなってしまうのだろうか。
思い起こせば、ありそうで、あり得ない話しが多くある。
認知症の父がまだ動き回っていた頃、母にはその兆候は無かったけど、庭に出てた父に、母が「昼食が出来たから」と室内に入るように、手を引いて入れるも、父はそれを振り切って外へ飛び出して、転びながら向かいの家に行ったらしい。
そこで、擦りむいて血が出たのを見せて「家に強盗が入った。警察を呼んで」と言ったとか。
何も知らない母は、しばらくしてから父を捜しに玄関を出ると、警官が数名飛び込んで来て、事情を話しても、各部屋を見て回ったと言うのだ。その時は周囲に何台もパトカーが来ていたと言う。
しかし、これは母の話しだけで、本当だったのかどうか。情景が思い浮かぶような具体的な話しに、すっかりその時は信じてしまったけど。親しい近所付き合いも無いので、周囲に聞く事も出来ず、もちろんニュースになったわけでも無い。
母を三重大学付属病院の神経内科の「もの忘れ外来」に連れて行き、CTを撮ったり診断してもらうと、脳全体の萎縮や海馬の縮小から、
母も「アルツハイマー型の認知症」と診断された。
この「もの忘れ外来」には定期的に通院することになった。
そんなある朝、母は突然、足が立たなくなった。トイレに行こうとしても立てず、漏らしてしまった。しばらくすると、回復はしたものの、父の往診に来ていた近くの医院へ連れて行くと、当時はまだ先代が院長で、「大丈夫」という診断だった。
その後、また同じ事が起きたので、前述の三重大学付属病院の「物忘れ外来」の精神内科に電話をすると「連れて来てください」
ここで、軽度ではあるが「脳梗塞」と診断された。そして入院。
この間、父は複数の施設でディサービスを繰り返し、帰宅しないようにしてもらった。私が仕事で、母が入院なので、家では父を看る人がいないので。
その後、これを契機に、父を施設に「入所」させる事になったのだ。
ところが、当時は母も歩き回るし、妙な被害妄想で手に負えず、仕事中の私に毎日のように病院から連絡が入り「来てください」
母は「私が看護婦の立ち話を聞いたから、睡眠薬を注射される」などと言う。
結局、1週間ほどで退院させられた。
病院もこういう勝手にうろつく認知症患者は嫌うのだ。
そういや、父も母に暴力を振るってた頃、室内で自分で転倒し、ドアノブで脇腹を打って、肋骨を骨折したとかで、私立の病院に行ってCTを撮ったりして、医師が入院手続きを取ったので、私は着替えとか用意して持って行くと、看護師が歩き回る父の入院を拒否して、そのまま連れ帰った事があった。
母の認知症の
初期症状は、ともかく直前の記憶が無い。
けど、屁理屈だけは達者という状態だった。
私が2005年の年末に、愛車で交通事故を起こした。初めての人身事故だった。
家を出てすぐ、仕事に向かう途中で、左端を走っていた老人の電動アシスト自転車を追い越そうとしたら、斜め横断して来て、ぶつかってしまったのだ。
この事を母に話すと、「え、どこで事故したん」と驚いて聞くけど、すぐその記憶は消えるのだ。何度、話しても、初めて聞いたと驚くわけ。
そういう
印象的(ショッキング)な出来事でさえ、記憶に残らないのだ。
過去の母の様子は記録してなかったので、前後関係がよくわからない事が多いけど、この事故の記録があるので、その時点の母の状態がわかる。
ともかく、
気になる事は常に頭にあるのに、それを確認した結果は残らないのだ。
夕方になると
「コメ洗わなあかん」と台所へ行き、米びつから定量を出して洗うのだけど、それを炊飯器にセットして、部屋に戻ると、また「コメ洗わなあかん」と台所へ行く。そこで、炊飯器に既にコメが入ってるのを見て、戻る事もあれば、また新たに洗ってしまう事もある。それで部屋に戻りかけると、また「コメ洗わなあかん」と台所へ向かう。これを延々と繰り返す。
私は仕事の帰りに翌日の食材を買って帰るのだけど、それを冷蔵庫のどこに入れてるか、今夜は何をするか、メモを書いて貼っておいても、「それが無い」と電話してくる。
メモを見て、気になって触り、違うところにしまってしまい、その後、メモの場所には無いとなるのだ。
そんな事を繰り返したので、「夕食は買って帰るから、何も作るな」とあちこちに大きな文字で書いて貼る事になった。
父がディサービスに行くのに、オムツや着替えなど、用意するものがあって、それをバッグに詰めなければならない。こういうのが厄介なんだ。
当初は母がそれをしてたけど、
オムツを何枚と言っても、それが数えられない。
結局、全部、私がする事に。仕事に行く前に用意するのが大変だった。
そのうち、私の仕事先に電話をかけて来て
「アンタ、私の通帳を持って行ったやろ」
これも日に何度も、毎日のようにかけて来るようになった。
私が帰宅して捜すと、大抵は決まったタンスの引き出しの服の下に「隠してある」
「ほら見ろ、ここにあるやないか」と手渡す。すると、数分後には「アンタ、さっき、私の通帳持って行ったやろ」
これが
認知症の典型例で、自分でどこかにしまったものを忘れて、他人に取られたと被害妄想を募らせるのだ。
何でも隠す。なぜか
トイレのスリッパをあちこちに隠す。
それはタンスの引き出しだったり、押入れの中だったり、テレビの下のラックの中だったり、

↑スリッパには大きな字で「トイレ」と書いてあるのに。
布団の中にトイレのスリッパを隠す事もあった。
この頃、私は帰宅すると、毎回、トイレのスリッパを捜し出す必要があった。だいたい、隠し場所は決まっていたけど、時にはどこを捜しても見つからない事もあった。
後に、
部屋のあちこちに万札が何枚も隠されてるを発見した。

↑押入れの布団の下から8万2千円出てきた。
これは母が完全にボケてしまってからの事だけど、「宝探し」ではないけど、経済的に苦しくなってからなので、ずいぶんと助かったものだ。
もっとどこかに隠してないかなぁ。
私が仕事を辞めたのは今から16年位前の2007年だったか。
既に父は入所していたけど、母を家に一人でおいておくのが限界だった。
それと辞めた直接の原因は雇い主との喧嘩だったんだけど。
施設に入所してた父と、ディサービスの母が面会。同じ介護サービス会社なので。

↑こうしてみると、まだ母の表情は明るく、認知症には見えないけど。2007年6月撮影。
この頃、こうして父は施設に入所していていないのに、母は台所のテーブルには4人分もの食器を並べたりしていた。数の概念も無い。父がいた頃を合計しても3人のはず。いや、昔は妹もいたか。この時点から10年以上前に別に世帯を持ってるのだ。
父は施設に入れっぱなしで、ロクに見に行く事もしなかった。なんせ、当時は仕事が忙しく、個人経営の盆栽園で、私は通いの手入れの職人をしていて、休みは40日に1度位だった。
そして、施設から電話で
「具合が悪いので入院させます。来てください」と。
慌てて行くと、もう息が苦しい状態で、病院でCTを撮ると、
「肺が真っ白です。ここまで来ると、もう今夜がヤマです」と言われた。
父は施設で、こんな状態になるまで放置されてたのだ。
後に、寝たきりになった母の介護をしてると、誤えんが原因で発熱したりすると、私はすぐに医者を呼んで診てもらって対処して来た。
この時の父は奇跡的に回復した。施設は胃ろうすれば受け入れると言われて措置をした。
ところが、後日、また同じ状態になったのだ。その時も「今夜がヤマ」と言われた。
父が施設に入って、2度も死にかけたので、母を施設に入れる気にはならなかったのだ。
その後、父は施設では無くて、長期療養も可能な病院に移った。そこで亡くなるまで2年近くいただろうか。
母を父の病院へ見舞いに連れて行っても、父の事なんか全くそっちのけで、私が持って行ったオムツなどを見て、「こんなに置いておいたら取られる」と持ち帰ろうとするわけだ。どう説明したって、理解するわけも無く、いつも病室で口論。
もう母を父に会わせに連れて行くのもやめた。
母はそんなディサービスから帰ると、決まって
「西宮の家に帰らなあかん」とか「婆さんが待ってる」とかよく言ってた。
私も両親も、両方の祖父母も兵庫県西宮市の出身で(生家は甲子園球場から直線距離で800m)地縁の全く無いこちら三重県に越して来たのは1990年。おかげて阪神大震災は免れた。
なのに、まだ西宮に住んでると、頭の中は20年前にタイムスリップしてるのだ。
認知症でよく言われる、
過去の事は覚えてるのに、新しい事は忘れているのだ。
「婆さん」だって、同居してた父方の祖父母は私が幼稚園の頃に亡くなってる。母は結婚して以来、実家の親とは別居で、その母方の祖父母は確か私が高校生の頃に亡くなってる。
ちなみに、その
母方の祖父も認知症でよく徘徊してたらしい。
母ら三姉妹がお金を出し合って、長男と同居してる親の介護費として渡していたのに、ろくに食事も食べさせず、哀れな格好で徘徊しては近所の飯屋で食べさせてもらったり。
長男の嫁がその金を使い込んでるとかで喧嘩して、母の姉が文句を言いに行くと、長男が包丁で脅して追い返したとかで、以来、
母方の実家とは絶縁状態だった。
このように、
認知症はその周囲の人間の争いをも生む。
その
母の姉は3才年上で、やはり認知症なのだ。
私が子供の頃は高価なものを気前よく買って来てくれるセレブな印象だった。事実、夫は小さな貿易会社を営む社長で、夫婦でよく海外へも行っていた。けど、経営が悪くなってから、熟年離婚していた。
独り身で、子供がいないので、認知症になった母の姉を、私の妹が看ていた。早くから施設に入れたものの、医者にかかる場合は、妹が連れて行くようだ。
つまり、
我が家には実質、3人の認知症がいるわけだ。
母の妹は8才年下で、私が子供の頃は「お姉さん」のような存在だった。
私は3才年下の妹と二人兄妹だけど、3才年上の姉は生まれてすぐに亡くなってる。
母の妹は結婚後、夫婦で会社を設立。年が離れた夫が亡くなってからは彼女が社長、会長をして来た。その会社はプロ野球のバッターの後ろに社名が映るような大きなもので、社員は7千人とか。
2009年の父の葬儀の時は、家族葬だけど、母の妹も東京から駆け付けてくれた。そもそも最初の結婚後、すぐに離婚して、1年ほどは我が家に居候していたのだ。私が中学生の頃だけど。だから、私の父には恩義があるのだろう。
私も母の事でメールを交わす事がよくあったけど、この数年は無くて、今年の年賀状にも初めて返事が無かった。これまで認知症の気配はなかったけど、どうなのだろう。
家系からすれば、
私も認知症になる可能性がある。
けど、母の妹は健在だったので、必ずそうなるものでも無いという安心材料の一つだったのに。
母の妹は5年位前だったか、会長職を退いて、相談役になり、息子に経営を任せていたが、今、会社概要を見ると、取締役にもその名前が無くなってる。もう年を取ったから引退? 創業家を追い出し、経営を乗っ取られた?
彼女はよく「社員とその家族の生活がかかってるから、経営は大変」と言ってた。また大の阪神タイガースファンで、社内でも「トラキチ」で有名だったらしい。だから、生まれた地でもある甲子園球場の警備はずっと担って来たらしいけど。
話しは戻って、当時の
母はよくパンツの中で大量の下痢便をしていた。それは寝たきりになってからも、ずっと続いた事があったので、体質的な事もあるのかも。
トイレに入って、なかなか出てこない。カラカラとトイレットペーパーを大量に引き出す音がする。出てくると、ズボンの裾や腰のゴムの当りからペーパーが垂れ下がってたり。トイレを見ると、床が便まみれで、それを無造作に拭いた跡がある。
あるいは、
便が付いて丸めたティッシュがその辺に放置されていたり。

↑左右にあるのはディサービスで作ったもの。既に認知症だったので、本人が作ったというより、作ってもらった?
またはトイレで間に合わず、床に大量に下痢便を撒き散らし、それを踏んで滑ってスリッパが脱げて、靴下でモロに踏んで、そのまま出てきて、
床にペタペタとウンチの足跡が付いていた事もあった。
まさに
「阿鼻叫喚(あびきょうかん)」の地獄絵図!
画像もあるけど、見せられない。
ともかく、2013年~2015年の間、頻繁にウンチ騒動があり、見せられない画像が沢山ある。
振り返ったら、
この頃の母が一番、大変だった。
こんな状態でもまだ台所に立って、食事を作ろうとするのだから汚い!
時期は不明だけど、
私は台所でウンチを踏んでしまった事がある!
私は部屋の中でも常にスリッパを履いてるのだが、あのムニュとした感覚は忘れない!
道で犬のウンチを踏む事はあっても、
まさか台所で人糞を踏むとは。
それも調理?をしてる母のそばで。
「なんやコレ、ウンチやないか」と私が叫ぶと、母はティッシュでそれを摘み上げ「味噌や」とシンクのコーナーのゴミ入れにほり込んだのを覚えてる。
もう呆れて言葉も無い。
そして、私が家にいると、母との口論が絶えなかった。母は口だけは達者だった。
どんどん攻撃的になって来た。興奮してハサミなんで向かって来た事もある。もし刃物なんかが近くにあると危なかった。
前にもこのブログに上げたというか、その為にYouTubeに上げた母の動画は
↑これは2012年にアップした事になってる。
同じく、どこかで紹介されたのか、12万回も再生された同じような動画
以前はテレビの中の人に愛想笑いしたり、お辞儀をしたりしてたのに、動画のように、
テレビの中の人と喧嘩すると言うか、家のものを取ったり、食べたりしてると思い込むまでになっていた。
母との喧嘩はカップうどんでも。大量に買っておいたカップうどんがすぐに無くなる。母は昼に自分でそれを食べておいて、
「今日は何も食べてない」とまた食べようとするのだ。
食べ終えたカップを小さく畳んでテープで留めてシンクの横に置いてある。
「コレを食べたやろ」と言っても聞かない。だから、食べたらすぐに日付と時間を書いておくのだが、それを見せても「これは昨日のや」と聞かない。
そのうち、食べたはずのカップが無くなるのだ。いったい、どこに隠す? ポケットに入れてる事もあった。
ある日、母が門の外に出てるのに気付いた。2階から様子を見てると、隣の隣の空き地の電柱のところへ。後で見に行くと、その電柱の根本付近に草に紛れて、小さく畳んだプラ製のカップが大量に捨てられていた。
トイレのウォシュレットの水が止まらないと、
ノズルを引っこ抜く事が2度あった。
当時、家のは古くて、立ち上がっても止まらない。停止ボタンを押さないと止まらないのだ。それを忘れて、出続けるウォシュレットのノズルを抜いてしまうわけ。
また夏は扇風機が止まらないと、
電源コードをハサミで切ってしまった。

↑ショートしてハサミの刃が焼けてる!
それをギボシでつないで、今も使ってる。
もう母が台所に立つのは無理だと、
台所の入り口に鍵をかけた。
汚い手で食器などを触られたくなかったから。
当初は「なんで鍵をかけるんや」と大声を出して、ドアをバンバンと叩いていた。
レバー式の取手では、すぐに鍵を壊された。それで、トイレの丸いドアノブに変えたものだ。
そして、
食事も全て、私が作るようになった。
と言っても、私は料理なんて全くした事が無く、興味も無い。
以下は2012年5月の食事。母はまだ食卓で食事をさせていた。
毎食、写真に撮るようになったのは、2011年12月からなので、その頃から私が作ってたのかもしれない。
畳が傷んで来たので、ずっとテレビ(ブラウン管式)を置いていた畳と入れ替えると、その色違いの部分を気にして、
いつも持ち上げようとしていた。2013年2月撮影。
2014年の2月には、
転倒による肋骨骨折で入院してる。
あれは夜、母をトイレに連れていくのに、ベッドから起き上がって、立たせてから、何か上着をと横のタンスの引き出しから取り出そうと、手を離した瞬間に、母は「朽木倒し?」のように、横にドスンと倒れたのだ。畳の上で、自分の腕を下にして倒れて、それで肋骨が折れたらしい。
その時は「う~ん」という感じだったけど、その後も痛がるので近くの医者で診てもらい、現在と同じ病院への入院となった。
CTを撮ると、
肋骨が9本折れてると言われたか。
さらに
「外傷性血胸」で肺に血が溜まっていたらしい。
その血を針を刺して抜こうとしたけど、動いて危険。全身麻酔も高齢なので出来ないと言われ、自然に治癒するまで待つ事になった。
この頃、近くの医者へ連れていくのに、こうして車椅子に乗せて行ってた。

↑歩いて5分なので、車の乗り降りより、車椅子のまま移動して院内に入れるし。
この頃、もう愛車に乗せたくないという思いもあった。
翌年の2015年11月にも、母の部屋の和室の窓際の棚になったところに、腰かけさせて、ズボンを脱がせてた時だったか、スルリと滑って回転するようにその棚部分で脇を打って、また肋骨骨折で入院していた。
母は2015年まで、ディサービスに行っていた。
それも当初の大人数のところから、グループホームへの一日数名枠のディサービスに3年ほど行ってただろうか。
そこは同じ介護サービス会社が運営するものの、本館から離れた平屋で、中は綺麗で明るく、入所者には個室があって、その部屋は自分のよりずっといいように感じた。スタッフの対応もよくて、ここならと思えた。
母も入所希望のリストに入れてもらい、その順番が回ってきたのだけど、当時は1~2週間、妹(既婚、子供あり)の家へ預けても、「タクシー呼んで。帰るから」を繰り返し、挙げ句は「マサが私の家を勝手に売り上がったな」と悪態をたれる始末。
こんな状態では、
とても入所は無理と先送りさせてもらった。
しばらくはそんないい感じのディサービスが続いたけど、
当時の
母は145cm程の身長に75kgもあり、足腰が弱って来て、風呂に入れるのが、女性スタッフだけの時は困難と言われるようになった。
それで、仕方なく、以前にいた
大人数のところへ移動したものの、そこはいい印象はなかった。
見に行った事もあるけど、50名位の人が1つの広間でゴロゴロしていて、数人のスタッフ同士は立ち話ししてるという光景だった。それはまるで羊の群れなんかの放牧みたいな光景だった。
しかも帰宅すると、
背中までオシッコまみれになっていたり、迎えの車が軽の古い車で、ヘッドレストの無いベンチシートの後部座席に座らされたり。こんなんで急ブレーキや最悪追突されたりしたら、ムチウチだけでは済まないだろう。
この車については改善要望を入れた。
それと、風呂は午前中に入れると言う。それで夕方の帰りまでトイレにも行かさないのか?
電話を入れて、「お風呂はせめて午後にしてもらえませんか」と丁重に話すと、電話に出た若い男性職員は「しばらく待ってください」その後、年配(上司?)と思える女性が出て、
「うちでは対応出来ません。そんなん言うんやったら、グループホームに戻ってもらわなアカン」
先日の迎えの車の件といい、うるさい利用者と感じたのか、横柄な態度に感じた。
そもそもここは前から
「面倒みてやってる」と言わんばかりの中堅職員の対応が感じられた。
父が入ってたのも同じ施設で、仕事の帰りの夜、事前に連絡を入れておいて、薬を届けに行った時も、入り口で話して、半歩前へ(中へ)入ろうとしたら、不審者扱いなのか、いきなり突き飛ばされた経験もあった。
そんな経緯もあり、私ももうカチンと来て、
即日、このディサービスは中止した。すぐにケアマネージャーや職員らが考え直すようにとやって来たが、私は一度、「やめる」と言ったら、もう二言は無い。それは会社を辞める時も、盆栽園を辞める時も同じだった。
その日は、2015年の私の誕生日の日だった。
それ以来、在宅介護なのだ。
まだ、2015年位まではの時点では、かろうじて斜めになりながら、食卓で食事はしていたけど。
そして、カメラを向けると、笑顔を見せていた。撮影は2015年4月。

↑この頃は、
適度?に体も弱って、かつてのような攻撃性は無くなった。
ただ、
自宅で風呂に入れるのが大変だった。
なんとか週に一度、湯を張って、入るように仕向けても、
「昨日入ったから入らん」
やっとの事で、湯船に浸かっても、すぐに「もう出る」私が「体を洗え」と言っても、
「さっき洗ったとこや」と出てようとする。
結局、私がタオルに石鹸付けて洗う事に。次は髪を洗うのも大変。せっかく入ったのだから、何とか髪も洗いたい。なだめすかしたり、怒ったり、まるで子供を扱うごとく。もちろん、私は生涯独身なので、子供なんて知らない。
何とか洗えばいいけど、どうしても洗わないで、後に洗面所で髪を洗う事もあった。
その後、必ず、私がドライヤーで乾かして、整えた。
それでも、次第に足腰は悪くなり、立ってられない。普段は座椅子でテレビの前に座ってるが、
トイレに連れて行くのが大変になった。
既に漏らして、座布団が濡れたり、座椅子も汚して交換する事もあった。
もう、歩くのは困難になり、室内でも車椅子なんだけど、普段はリクライニング可能な車椅子に。
でも、それは大きくて、トイレや食卓への移動が出来ないので、もっと小型の車椅子も必要に。
ところが、
乗り換えは容易では無い。手すりも用意するけど、どう工夫してもゴロンと床に転がってしまう。
一旦、そうなると、
トドのような体を起こすのは大変で、私は当初、力任せに引き起こしていたが、そのうち、腰がおかしくなった。ギックリ腰とかいうのでは無く、まるで力が入らなくなってしまった。
ちょっとしたものを持っても、腰がカクンと曲がってしまう。これについては、その後、ある程度は回復はしたけど。
当時、使っていた車椅子など。床から順に上げて行く為に、低いのから複数の椅子を用意した。

↑トイレも右上の椅子型のポータブルのを用意したけど、これに座らせてもまるでしてくれなかった。
トレイの入り口までは小さい車椅子で連れて行き、前輪を敷居の中に入れて、そこから母を持ち上げて、向きを変えて便座に座らせるのだけど、狭いトイレの便座の脇にへたり込んだり、便座に座る前にはボタボタと漏らしたり。
当時、パンツ形式のオムツをしていたけど、
トイレで長時間、格闘する事が多かった。
オムツの中で便をしてしまってる時は、そのオムツパンツをハサミで切り裂いて外し、なんとか便座のシャワーで綺麗にしようとするものの、どこに当たってるのか不明で、どうしても綺麗にはならない。
仕方なく、下半身裸のまま、トイレから出し、隣の風呂場でシャワーで流したり。トイレにも風呂場にも手スリが作ってある。それは介護保険で作ってもらったものだった。
そうして、何とか風呂場まで歩かせたのは、もっと前の話しだったかもしれない。
オシッコも終えて、
立ち上がると、なぜかまたジャーとオシッコが出て、履いてるものを濡らしてしまう事もよくあった。その為に尿瓶(しびん)を用意したけど、口の幅が大きくて、肥満の母の股間には入らない。それで、amazonで
女性用の立ち小便のためのロウト?を購入し、500mlのペットボトルと組み合わせて使用したものだ。
ここで、文字数制限にかかってしまった。
続きはこれより過去の日付で書くことに。