2021年10月18日
来週は、ももっぴの祥月命日なのと、来月の命日の日程を考えて、今月のお墓参りは今日にしました。
大切な方のお庭は、毎月来るたびに、こんな花も咲くようになっていたんですね!と必ず新しい花が迎えてくれます。
1月にお墓参りとして初めて来たときは、椿が咲いていましたから、きっと一年中、季節の花を咲かせるようにつくられた庭なんですね。
命日は11月ですが、私が知らされたのは1月なので、まだ11月、12月のお庭をみていませんが、それを無事にみることができたら、私は、大切な方がとことんこだわり、毎日毎日朝から晩までつくりあげてきた庭を、12ヶ月全てみることができるんです。まるで「森は生きている」の世界みたいです。
孤独だった一年のなかで、10月〜11月は、きっと一番体が苦しかったはずです。
そして、死期を感じながら、病院にも行かず、誰にも助けを求めず、たくさんのメモを残したときなんです。
なるべく人に迷惑をかけないように、二階を空にして、荷物はすべて一階の一室に、荷物と言っても最低限の衣類等、そして、たくさんあった本棚を一台にして、その一台分にびっしり入った本。私の写真を含めた数枚の写真、
はやく発見されるようにと、東北で寒かっただろうに、カーテンを外しレースだけにされて、鍵もかけられていなかった、、、
全てのメモをみせてもらったわけではありませんが、自分を見つけてくれた人へと、メモと通帳を残した。
ずっと考えてきた死に様というものを、突きつけられました。
そして私は、自分がしようとしていたことの残酷さに初めて気づきました。私は間違っていたと。
どんなにきれいに死んだって、自分の幸せを願ってくれた人たちに、これほどの苦しみを与えてしまうなんて。
死に様とは、残されるものの気持ちを考えてこそ語れるものでした。
無駄死にした蠍の無念と一緒に、その蠍を思い、苦しむものの可能性も考えるべきだった。
私の人生は、他人がたくさん手を差し伸べてくれる人生でした。
それは驚くくらい誠実で強い手や、本当にずっと長く差し伸べ続けてくれるものもありました。
だけど私は、その手を一度もとることができませんでした。
理由はいろいろあるのですが、
一番大きな理由は、そこが、悲しみや苦しみを解決する努力もせずに、そこから逃げて、耳を塞いで、ずっと忘れたふりをする場所に思えていたからです。
でも、きっとその悲しみや苦しみは、私だけのものじゃなくてみんながもっていたもので、だからこそ私に手を差し伸べていた。
私が誰かの悲しみや苦しみに共感して抱きしめるとき、せめて私のそばにいる間は忘れさせてあげたい、守ってあげたいと思う気持ちと同じだったんだと今頃になって気づきました。
機動戦士ガンダムの「風にひとりで」という歌に「しかたないだろ大人になるなら、耐えるしかない今日はひとり。慰めあってなんになる、、居はしないのさ、そんな人」という歌詞があるのですが、私は辛いとき、それを何度もききながら、いつもその通りだと現実を受け止め、ひとりで泣いていました。
でも、
どうせ人間が気持ちを封印できるのがいっときだけならば、
得られずはずがないと、本当は欲しいものを封印するのではなく、自分を守ろうとしてくれるものの手をとって、いっときだけでも悲しみや苦しみこそを封印するべきだった。
それが慰めであり、その繰り返しがきっと私に欲しいものは欲しいと思い続ける強さをくれるものだったのだから。
大切な方の孤独死を受け止めながら、
亡くなってからも、ずっと私にいろんなことを問いかけ、成長させてくれることを思い知らされます。
大切な方は、信頼されている人から裏切られるということが、どれだけの破壊力をもつのかをよくわかっている人でした。
これだけ、まわりのことを考えて死んでいく人です、
価値観のちがう私から信頼され、その信頼をずっと裏切らないために、私の気持ちを、どれだけ考え続けていてくれた事でしょうか。
一度も私を傷つけることなく、私にくれていたたくさんの言葉を思い出しながら、胸がとても苦しくなります。
どんなに愛情に気づいても、ひとつも恩返しできず、
私の写真の存在や、メモをみて、私とずっと会いたいと思ってくれていたことを知っても、もう会うことすらできないのですから。
何度も訪ねて、たくさん甘えたらよかった。
たくさん依存して、自分がいなくなったら生きていけないんじゃないかって心配させちゃえばよかった。
そしたら、きっと私のために長く生きる方を選んでくれたはず。
だってそういう人なんだから。
何よりも優先して、たくさん看病して、それでも逝かなくてはいけない運命だったとしても、
おば様が言ってくれたように、人間がみんな逝くときは一人なんだとしても、
それでもずっと手をつないで逝かせてあげたかった。
たくさんの天国の話をしながら「私がずっと手をつないでいるんだから、行き先は天国しかないんだよ」って言ってあげたかった。
人は、愛すると脳を共有できます。
それは、相手が家族だろうが、恋人だろうが、友達や他人や動物であっても。
愛されると、相手の脳が私を受け入れてくれている瞬間をいつも感じるんです。
そして私はその相手の一部となって、感じる全てを相手に与えることができるようになるんです。
それは相手を幸せにできる瞬間であり、その瞬間だけは、このように強く感じるように生まれてきたことを本当に幸せだと思えました。
だからこそ、ずっとそばにいて逝かせてあげたかったのです。
お墓参りのたびに、お墓でもご自宅でも、その方が考えた天国を想像するのですが、
美しいものは世界中にたくさんあるけれど、やはりそれに一番近い場所は、ご自宅の庭だったんだろうと思ったんです。自分の好きなものだけで作り上げられたこんなにも姿をかえる庭、、、
変わらないものか好きだと言っていたのに、季節や自然でこんなにも変化するものを本当は愛していたことにも、亡くなってから気づけました。
だから、このお庭の美しさを私がしっかり感じようと思ったんです。
孤独で苦しかったであろう一年を、同じ一年、
感謝と愛をこめて供養したら、必ず一年をやり直せる。
この願いは時空をこえて叶えられると私は信じます。
かなり暗いブログになりましが、私はずっとお庭で去年のその月のその方を想像していたので10月11月は苦しくなるだろうとわかっていました。
でも一周忌にむけて、気持ちを切り替える準備もしてきています。
だから、来月のお墓参りは幸せで明るいズグロンの予定です。
と、ここまでは行きの新幹線で書いたブログです。
この頃行きはじめじめです(~_~メ)
でも、今日は本当にいろんなことがモリモリ盛りっと盛りだくさんで、ズグロンは今幸せです。
それは次のブログ、お墓参り行動編で(๑¯◡¯๑)
Posted at 2021/10/18 22:29:20 | |
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