注文していた「香川照之の昆虫すごいぜ!図鑑」全3巻がとどいて、かなりハマって読んでいました。
昆虫採集が好きな人は、二つのタイプに別れます。
それは、標本にしてコレクションするタイプと
飼育するタイプです。
私は完全な飼育タイプで、昆虫を捕まえて標本にすることは、その瞬間をみることもできません。
子供も全く同じです。
ですが、標本の展示でもある昆虫博等は好きで、たくさん行っています(. ❛ ᴗ ❛.)
飼育と言っても、トンボのような直ぐに死んでしまう昆虫等は、捕まえても観察をして写真をとったらすぐに逃します。
海や川で捕まえた小さい魚やカニ、山や森、田んぼで捕まえた昆虫や蛙等は、川沿いや砂浜にいる間だけか、滞在中のホテルでだけ飼育します。持ち帰って一年も飼育したのはモリアオガエルだけかもしれません。
そういう場所にあるホテルは、近所で捕まえた生物をケージで持ち込んでも良いですよ!といつも言ってくれるので、車にたくさんのせてある大きいケージに、生物ごとにできるだけ快適な環境にして、部屋でじっくり観察しながら一緒に過ごし、あとは元の場所に帰します。
カニさんがハサミで餌を口に運んで食べる姿は、さるかに合戦みたいで本当に可愛らしいんですよ!
一番感動したのは与論島のオオヤドカリ。
すごいんです!雑食だからケーキだって食べちゃうし、野球ボールくらいに大きいんです!
昆虫すごいぜ!を読んでると、香川照之が可愛くて可愛くて、こんな人だったんだーと、とても嬉しくてたまらなくなります。見方がすっかり変わってしまいました。
オニヤンマとかカマキリとか、私と憧れや好きなものが一緒で、本当に感動してしまいます。
この人も完全な飼育タイプ。
3巻の71ページにある、捕まえた昆虫と離れたくなくて、ケージを抱きしめて寝ようとしてるページには本当にキュンキュンしてしまいます♡(˃͈ ˂͈ )かわいすぎる!!
この香川照之
メスカマキリなんですって(*^^*)♥
カマキリのこの姿のまま思いっきりギュッとされたい!
一緒にずっと過ごしてみたい、そして一緒に眠ってみたい!
これまた3巻の64ページには、香川照之は夢でも3ヶ月に一回はカマキリを捕まえてるって書いてありました(*^^*)♥ヤバイめちゃくちゃ可愛いい。
自然界やこの世界の残酷さは十分理解しているつもりだけど、この人がみている世界も見せようとしてくれる世界もこっちなんだね。
あれ?なんだかとても泣ける。
そして、とても癒やされました。
飼育タイプもコレクションタイプも、どちらが愛情が大きいか?となると、それはかなり個人差がでます。
火事で、既に死んでいる標本を守るために命がけで助ける人もいますから。
私は物への愛情も2つのタイプがあるんだな、、といつも思うのですが、
自分が一番美しいと思うときの姿で、ずっと変わらないものを愛する人と、
変わっていくものを愛する人です。
私はこれも後者なのです。
だから昆虫は、本当は図鑑や標本でみるより、生きてる姿が、絶対的な価値観で好きなのですが、
大切な方は、標本タイプで、変わらないものを愛する人でしたから、
そんな私が、大切な方の書庫で、もう変わることができない昆虫たちの、あの図鑑をみて夢中になりうっとりする姿を、いつもとても誇らしげに見ていました。
私達は、共感関係ではありませんでした。
ですが、私を完璧なくらいに理解してくれましたし、なぜか私の考えをとても愛してくれました。
私は私だけのために図鑑を作りたいのですが、それは一年間で自分が出会った生物の写真に、ヒヤシンスの恋や、はやぶさくん&こまちちゃんみたいに、生態とともに私が勝手に感じてしまう想像の会話をつけて、絵本みたいに仕上げていきたいと思っています。
香川照之を知って、
昔、中学生の頃にとても素敵だなって、こんな恋がしたいなって、ずっと憧れていた詩集を思い出しました。
文章も表題も正確にはおもいだせないけど、内容ははっきり覚えています。
恋人と二人で海を歩き、
彼女が貝殻をみつけて、踏みたくないなと思っていると、彼氏が「踏みたくないね」って言うんです。
それを彼女が、
私達は、その日海の試験にパスして、とても優しい関係になった、、みたいに語る詩です。
そして私は、その優しい関係というものが、ただの優しい関係という意味ではなくて、
その日からもっと深い関係になって、もっと深くつながり、より相手が愛しくなり、お互いに対する思いやりが育ったということだと感じて、
私も、
海の試験も、森も川も山も、月や星や空の試験だって、全てパスする恋がしたいと思いました。
同じ場所で同じものをみても、同じことを考えていることなんて、親子であっても、きっとほとんどあり得ない。
それこそが、きっと共感でなければ起き得ないことでしょうが、、、
香川照之となら、とりあえず、昆虫の試験にはパスできちゃうんじゃ!と、思ってしまい
、なんだかテレビにでてくる度に意識してしまうようになってしまいました(^_^メ)
そして私は、こんなに共感というものに飢えてしまっているんだ、、と切ないくらいに自覚しました。
きっと失ってしまったものたちの存在があまりにも大きすぎて、もうそれをうめれるものって共感しかないと気づいてしまったんだと思うんです。
今まで、人生で、こんなに明確に強く求めたものってあっただろうか。
これって私、来年共感できる人に本当に出会えてしまえるんじゃ?!
そうじゃなきゃ、来年からの3年間の幸福なんて天国しかありえないと思ってしまいました。
私はずっと、
子供の頃から全く変わらない自分の本当の幸せなんて、得られるはずがない、この世界では存在しないものだと思ってきました。
だから、他人の幸せな姿をみることで、幸せを感じていたかったんです。それは本当に幸せなことだったから。
でも、だからなのか、わたしには生に対する執着が欠けているんです。
2019年に緊急入院したとき、体の異常をずっと感じながら病院にすら何ヶ月も行かなかったのは、べつにこのまま死んでもいいと思っていたからです。
ただ、銀河鉄道の夜の蠍みたいにはなりたくなくて死様をずっと考えていました。
体が使い物になるギリギリのところまで、やれることをやっていましたが、臨月の妊婦さんくらいにお腹が腫れてきて、もう本当に体が使い物にならなくなり、緊急手術となったときも、そんな状態でもさらに手術を数日先にしてまで転院したのも、もしものときの死に場所を考えたからです。
だから、院長先生がありえない無理をみんなにさせてまで、私のたかが傷口までも少しでも小さくしようとしていたことを知ったとき、本当に申し訳ないと思いました。
あれほど穏やかに楽しく生きる日をたくさん持ちながら、奥底にはいつもそれがあり、最終的にはいつも破壊的な選択をする自分が、自分でもよくわかりません。
今年5月から、
全く価値観が違うとわかっていたのに、なんとか受け入れよう、理解しよう、と長い間努力していたものを、みえない風が次々に吹き飛ばしているような不思議な出来事が起こり、
私から全て遠ざけられていきました。
まるで、もう本当に欲しいものだけを受け入れなさい!と言われているみたいでした。
この2日間、枕元にこの図鑑を置いて眠りました。
それはずっと欲しかったけど、諦めて封印していたものをゆっくり思い出すためです。なんだかここでも、涙、ポロポロでした。
また、今年、いろんな人が、いろんなことを私に話してくれたのですが、あまりにもそういうことが多かったのと他のことに夢中で気付けなかったのですが、
急に全てを思い出して、冷静に整理したら、ずっと繋がっていった、どうしても会って確かめたいことができてしまいました。
私は気になると、そのことしか考えられなくなるので、来月のお墓参りまで、またいつものみんカラ休みに入ります(๑¯◡¯๑)
手術後から、ブログをたくさん書いていますが、みんカラは私にとって秘密基地に隠した遺書だと、ずっと思ってきました。だから実はとても大切なんですよ(. ❛ ᴗ ❛.)