2009年11月14日
魏志倭人伝
邪馬台国論争・・・
一考古学ファンとしては、かの国がどこにあったのかは、大変に興味がある問題でした。
近畿説vs九州説。永遠の水掛け論の如し・・・・
纏向遺跡で、大規模な建造物の遺構が発見されました。
邪馬台国論争は”決着”・・・なのかな・・・
何しろ国内には当時の記録がなく、中国の三国志の一部(魏志倭人伝)だけが頼りなのです。これには大陸から邪馬台国までの”道程”が記されています。ところがこれが不明瞭であり、解釈のしかたによって様々な説が唱えられたのでした。
どう不明瞭なのか、それは議事倭人伝を読んでみれば判ります。ネット社会に感謝。
「從郡至倭、循海岸水行、?韓國、乍南乍東、至其北岸狗邪韓國、七千餘里」
(Wikisourceより引用、以下略)
帯方群(現在のソウル付近)から狗耶(邪)韓国(くやかんこく、朝鮮半島南端)まで海岸伝いに南や東へ7000里(当時の中国の一里は約90km前後)だと言っています。
「始度一海千餘里、至對馬國」
海を渡ること1000余里で對馬國(対馬国)に至ります。
「又南渡一海千餘里、名曰瀚海、至一大國」
さらに海(瀚海、かんかい)を渡り南へ1000余里、一支(大)國(いきこく、壱岐)に至ります。
「又渡一海千餘里、至末廬國」
更に海を渉って1000余里、末廬國(まつらこく、松浦郡)に至ります。九州上陸です。
「東南陸行五百里、到伊都國」
南東に陸行し500里、伊都國(糸島郡)に「到」ります。字がここだけ異なり(「至」でない)、五百餘里とは書かれていないところも興味深く思われます。
「東南至奴國百里」
南東に100里で奴國(なこく、福岡市か)です。陸行したとは書かれません。しかし起点は伊都國です。
「東行至不彌國百里」
南東に100里で不彌國(不弥国、ふみこく、不明)です。ここも陸行したとは書かれません。起点は伊都國とも奴國とも取れます。
これ以降の国を伊都国起点と取るのが放射説で、九州説が取り入れています(でないと九州をはみ出す)。
奴国起点と取るのが連続説で、近畿説が取り入れています。これ以降も全て連続して移動した軌跡と取ります。
不弥国は糟屋郡宇美付近だとも言われています。
「南至投馬國、水行二十曰」
南は投馬國(とうまこく、不明)に至ります。水路で20日です。
距離は? それが書かれてないのです。
しかも南へ行ったとあります。そもそもこの「南」が疑問なのです。対馬から見て壱岐は真南ではありません。東南です。当時の地図がどう描かれていたかも考慮しなければなりません。
当時の地図には、日本が、九州を北にして南北に延びたように描かれたものもあるそうです(混一彊理歴代国都之図、こんいっきょうりれきだいこくとのず)。そうした地図を元にしたのであれば、「南へ」というのは「東へ」と読み替えなければならないでしょう。
当時の「東」は今の「真東」ではなく「日の昇る方角」だったとも言われます。
「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十曰、陸行一月」
有名なくだりですね。
南は邪馬壹國(邪馬台国)に至ります。水路で10日、陸路で1ヶ月です。
放射説(九州説)では伊都国→邪馬台国とします。連続説では伊都国→奴国→不弥国→投馬国→邪馬台国です。
ところでどうして途中から距離表現でなく日数表現になるのでしょうか。
これもまた色々解釈されています。
「水行十曰、陸行一月」というのも、水路で10日プラス陸路で1ヶ月なのか、水路だと10日だが陸路だと1ヶ月なのかもはっきりしません。
個人的な考えは一端おきます。
とにかくこのように、魏志倭人伝は、どこかを間違っているとするか、どこかの解釈を変えなければ辻褄が合わないのです。そしてそれが何通りもあるのです。
辻褄を合わせたとしても傍証がなければ机上の空論・・・
今更そんな大発見があるとは思っても見ませんでした。
今後の展開が非常に楽しみです。
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Posted at
2009/11/14 02:01:45
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