先日のブログにも書きましたけど、今年は911から20年の節目を迎えます。
バイデンは今年の9月11日までにアフガニスタンから米軍を撤退させると表明しました。
米軍がアフガニスタンに侵攻したりイラク戦争を仕掛けたりした意義が何だったのか?その評価は後世の歴史家に委ねられます。
911の同時多発テロを大日本帝国の真珠湾攻撃と重ね合わせて大々的な軍事作戦を実行したブッシュ(息子)政権の判断に対し、個人的には批判的な考えを持ってますが今回はそれには触れません。
そもそもなぜ911のテロ事件が発生したのか?
その元となった湾岸危機・湾岸戦争の背景について考えます。
1990年8月、イラクのサダム・フセイン大統領はイラク軍を突然クェート侵攻させました。あっという間にクェートは占領されてしまいました。
両国の間に何があったのか?突然サダム・フセインがトチ狂って軍事侵攻したかのような認識の方も多いと思います。
現在のクェートがあるエリアは、旧オスマン帝国時代は「バスラ州」の一部でした。
旧オスマン帝国の「モスル州」「バクダット州」「バスラ州」の3つの州を引き継いで成立したイラク王国→イラク共和国でしたので、イラク目線で言えばそもそもクェートという国の存在そのものが認められないという理屈になるのですが、それにしても唐突すぎる軍事侵攻です。
クェートがイギリスから独立したのは1961年の事です。
サダム・フセインは軍事侵攻前からクェートの領有権について主張していましたが、国際的にはまるで相手にされていませんでした。
サダム・フセインがイラクの大統領になったのは1979年の事です。その前年に隣国イランではイスラム革命が起こりました。
またアラブの盟主エジプトのサダト大統領が、長年アラブと敵対し4度に渡る中東戦争を戦ってきたイスラエルとキャンプデービッド合意で和平を結んでしまったのも78年の事です。ソ連のアフガニスタン侵攻もこの頃です。
イランはシーア派が大多数のペルシャ人国家です。サダム・フセイン自身はスンニ派ムスリムですが、アラブ人国家であるイラクも国民の60%以上がシーア派です。イラク共和国にイランのシーア派イスラム革命の影響が波及することは許されません。

また宗派争いを棚上げし「アラブ民族主義」を謳いアラブ統一国家を目指していたアラブ連合は、キャンプデービッド合意によりエジプトが除名されアラブ諸国の体制が揺らぎます。
そんな中、イラン革命後の混乱が収まらないイランに対しサダム・フセインは戦争を仕掛けます。イラン・イラク戦争です。
イラン革命により親米王制が崩壊し、大使館占拠人質事件まで起こされてイランと断交した米国がイラクを支援します。
一方当初劣勢だったイランを支援したのはなんとイスラエルでした。今のイランとイスラエルの関係からは考えられない状況ですが、エジプトと和平を結んだイスラエルにとって、アラブの大国の一つであるイラクが戦争で疲弊してくれるのは好都合です。
またこの戦争中、イスラエルはイラクの原子力施設を空爆で破壊する作戦も実行しています。
結局「イライラ戦争」と揶揄されたこの戦争は88年の停戦まで約8年間続きました。
産油国で豊かなイラクとはいえ、長期に渡った戦争の経費はアラブ諸国などからの支援を仰ぎました。アラブ諸国をイスラム革命の波及から守ったと自負していたサダム・フセインは債務の減免を債権国に求めましたが、クェートは同意してくれませんでした。
イラクにしてもイランにしても石油輸出による利益で国家の再建を目指したいところでしたが、イラン革命による第二次オイルショックから立ち直った原油市場で原油価格は低迷してしまいます。
OPECに原油価格の下支えを要望しましたが受け入れられず、クェートは増産します。
さらに地下ではイラク側の油田と繋がっていると考えられていたクェートのルマイラ油田からクェートが大量に石油を「盗掘」しているとサダム・フセインは主張します。(グーグルマップで「ルマイラ油田」を検索するとイラク領内の製油所がヒットします)
これらの事が重なって両国の対立が激しくなります。サダム・フセインはクェート国境付近に軍を集結させます。
事態を重くみたエジプトのムバラク大統領やPLOのアラファト議長などが仲裁に入りますが不調に終わります。
1990年8月2日、イラク軍はクェート侵攻します。
国連安保理はイラクへの制裁決議をしますが、サダム・フセインはこれに対しいわゆる「リンケージ論」を展開します。国連決議に反してゴラン高原やヨルダン川西岸地区などを不法占拠しているイスラエルに対し国際社会は何ら制裁を加えていないのにイラクに対し制裁するのはダブルスタンダードだと主張します。
アラファトはこれを受けてイラク支持に回りますが、結果的に他のアラブ諸国から孤立する結果を招きます。
アメリカのブッシュ(父)大統領は、イラクが更に他の湾岸アラブ諸国に侵攻してくる可能性を指摘し、アラブ諸国に軍事支援を申し入れます。この結果、サウジ、カタール、バーレーン、UAEに米軍をはじめとする多国籍軍が駐留します。
この事がアラブ諸国のイスラム原理主義勢力の怒りを買いました。ウサマ・ビン・ラディンらのこれらの勢力は、元はといえばソ連のアフガニスタン侵攻に対抗するために米国の支援を受けた「ムジャヒディーン」と呼ばれた勢力ですが、サウジ等に「異教徒」の軍隊が駐留した事に激怒したと言われています。
この事が後の911のテロ事件に繋がっていきます。
結局安保理決議で設定された期限までにクェートから撤退しなかったイラク軍を、多国籍軍が実力で排除しクェートを解放しました。湾岸戦争です。
平和主義国家である日本は多国籍軍に参加しませんでしたが、多国籍軍やクェートに計130億ドル以上もの多額の援助をしました。
しかしながら自衛隊を派遣しないことに米軍から「Show the Flag!」などと批判され、後日クェートがワシントン・ポスト紙などに出した多国籍軍に感謝する広告には日本国の名前は掲載されないという事態になりました。
この時の日本外交については内外から批判され、外務省にとってのトラウマとなっていますが、他国からの評価を気にして自国の最大限の利益を追求する立場からの外交を展開せずにオロオロするばかりの姿勢こそ批判されるべきです。
この後日本はバブル崩壊を迎え、政治は混迷し経済は長期に渡り低迷したまま現在に至ります。
ブログ一覧
Posted at
2021/04/17 16:24:44