
僕はその時、入社3年経過して、
コーヒーラウンジのチーフとして勤務してました。
ラウンジには当時TVが設置されており、
お見えになるお客様の要望に応え、
チャンネル変えたりしてました。
その日、遅番で21時まで勤務でした。19時過ぎてからだったでしょうか、
お客様も少なくなり、さぁ閉めの時間が迫る時、
TVから日航123便の行方不明の報道が、どのチャンネルも一斉に始まり、
これは大変な事だとTVに釘付けになりました。
翌日も遅番だった為、当時住んでた茨木の家で、朝まで報道ニュースを見てました。
僕の中で忘れられない事は、
日航123便墜落・阪神大震災・JR福知山線脱線事故に東日本大震災が追加されてます。
天変地異と言う観点では、阪神大震災・東日本大震災は天災の分類。
事故の観点では、日航123便とJR福知山線。
600km超の速度で御巣鷹山に激突した機体や人が、そのGの衝撃で、
まともな形で残ってるはずが有りませんよね。
それでも奇跡的に4名の生存者がいた。
画像はその1人、川上慶子さんのご遺族が眠る墓標、御巣鷹山です。
あの事故からの生存者として、この30年は生きるも地獄。
自分の目の前で命耐え逝く家族、まだ声のあった両親、マスコミからの好奇な目。
表に出なかったこの30年、静かにしてあげて欲しいと願うのは、僕だけじゃないはず。
阪神大震災も経験され、未だ看護婦として人の命と向き合って居られるとか。。
YOUTUBEの画像で当時の悲惨な写真がアップされてますが、
激突の衝撃は爆弾と変わりませんね。遺体が確認されただけでも、良かったのかも。。
遺族の皆さんが確認や対面の時の悲惨さを思うと、切なすぎます。
JR福知山線も、あのカーブの侵入速度は116km。。。
しかし、軌道を面した電車のGは想定以上だったでしょうね。
アホな奴がいちびって飛ばしてスピンクラッシュする画像が、
自分のドラレコでアップされてる馬鹿が居ましたが、なんなん!
ともあれ、僕にとって忘れられない8.12。
操縦士の機長と副操縦士が最後まで努力したボイスレコーダーは、
聞いてるだけで涙が出ます。どんだけ努力しても叶わなかった操縦・・・
圧力隔壁の破壊により損失したリア部分の補填を、
エンジンやフラップ、あらゆる手をつくして何とかしようとした2人。
しかしその努力も空しく、520名は生命を落としたのです。
21歳の僕が受けた衝撃は大変なものでした。
他人事ですが、今思っても忘れられません。
こんなに自分が衝撃を受けた事故は過去に無いからです。
僕はこの日、何時も手を合わせてます。
亡くなられた520名の皆さんの冥福と、
生きた4名の方のこの先の未来に、どうか幸あれと。
そして2度とこのような航空機事故が無いようにと、祈ります。
Posted at 2015/08/12 22:41:50 | |
トラックバック(0) |
独り言・妄想 | 日記