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マンセルRED5のブログ一覧

2012年12月20日 イイね!

今も語られるフェラーリドライバーの悲劇。

今も語られるフェラーリドライバーの悲劇。先日、某DECKの中山氏が、
フェラーリF641についてのブログをアップ。
ちょっと懐かしくって、長いコメしました。
(笑)
前哨F640はペリカンノーズと言われた、
フェラーリエースナンバー27を付けた、
我らがナイジェル・マンセルがドライブ。
開幕戦でいきなり優勝したマシンです。
ポルトガルでピット失敗黒旗扱いなのに、
1コーナーでセナと激突した方が記憶に?
(笑)
シーズン3勝はしたかと思いますが、セミATの信頼性が薄く、
アクティブサスも、試行錯誤の時代。エアロの進化だけが目をみはる時代でした。
同じ書籍の近くにMP4/4の雑誌も有りましたが、それより目についたのが、
Racing onの 「ジルとディディエ」 。

言わずと知れた1982年ジル・ヴィルニューブを死に追いやった、
フェラーリのセカンドドライバー、ディディエ・ピローニ。。。
この2人の特集が組まれてました。
直接は当たり合った訳じゃ有りませんが、ゾルダーサーキットで、
タイムアタック中のジルに道を譲ったヨッヘン・マスのマシンに激突。
ジルは強引に抜こうとして、譲られたマスと同じラインにいた。。。

前戦イモラで紳士協定を破ったピローニに、心穏やかでなかったジル。。。
僕もジルが好きだったので、色々言いたいけど、解説が有るので貼っときます。


【Wikipediaより  ジョゼフ・ジル・アンリ・ヴィルヌーヴ 】
国籍カナダ 出身地同・リシュリュー
生年月日1950年1月18日
没年月日1982年5月8日(満32歳没)

[ 1980年 ]

1980年は一転して苦難の年となる。当時はグラウンド・エフェクト・カー全盛期で、
フェラーリの水平対向12気筒エンジンは幅が広いため、
ボディ横をウイング形状に成型する際邪魔になるため不利と見られていた
1979年はその欠点がさほど表面化しなかったが、1980年は他チームのマシンに比べ、
ダウンフォースを確保できない状況でシーズンがスタート。
マシン自体もチームメイトのシェクターが「マシンが爆発炎上して粉々になっても、
ドライバーを無傷で守ってくれるほど頑丈なカミオン(大型トラック)」と言い切るほど、
出来が悪く、ヴィルヌーヴは入賞4回・表彰台なしと低迷する。
しかしそんな中でも予選でしばしば上位に食い込み、第2戦ブラジルグランプリでは、
スタート直後にトップを走行する場面もあった。

チームメイトで前年のチャンピオンのシェクターも5位入賞1回のみで、
予選落ちまで喫した。シェクターはこのシーズン限りで引退し、
ヴィルヌーヴはフェラーリのエースドライバーに昇格した。

[ 1981年 ]

ヴィルヌーヴのチームメイトとして、ディディエ・ピローニが加入した。
フェラーリはターボエンジンに移行するが、新車126CKは旧態依然なシャーシ設計が
災いし、ヴィルヌーヴが「真っ赤なとっても速いキャデラック」、ピローニが「赤いカミオン」
と評したほどに挙動が不安定なじゃじゃ馬だったと言われる。
総合性能では他チームのマシンより低い状態だったが、
ヴィルヌーヴは時折光る走りを見せた。

第6戦モナコGPでは狭い市街地コースをドリフトしながら、
ガードレールとの距離をセンチメートル単位でコントロールする走りで予選2位。
決勝レースでもアラン・ジョーンズを終盤に抜き去り、優勝
を飾る。
次戦第7戦スペインGPでは後続の4台のマシンを巧みに抑えこみ、
一列縦隊のまま先頭で逃げ切った。
1位ヴィルヌーヴから5位までのゴール時のタイム差は僅か1秒24で、
「ヴィルヌーヴ・トレイン」と形容された。

雨の中で行われた第14戦カナダGPではレース途中で破損したフロントウィングが
めくれ上がり、視界を遮られた状況での走行となる。
ついにはノーズごとウイングを失ったが、そのまま走行を続けて3位表彰台を獲得した。

[1982年、事故死 ]
エンツォの肝いりにより、ハーベイ・ポスルスウェイトをデザイナーに迎えて
作られた新車126C2は、他チームと遜色のないマシンに仕上がり、
ようやくヴィルヌーヴはチャンピオンを獲りに行ける環境を手に入れた。

序盤3戦はリタイヤ・失格が続いたが、第4戦サンマリノGPは、ヴィルヌーヴがトップ、
ピローニが2位と、2台のフェラーリが他を大きく引き離す状態でレースが進んだ。
終盤には「燃費に注意を払い、無用な戦いを避けるように」との意味でピットから
「"SLOW"」のサインが出され、ヴィルヌーヴはリスクを冒さず、ペースを落とした。

しかし2位のピローニはレース終盤にヴィルヌーヴを追い越してしまった。
このレースは政治的な対立から多くのチームがボイコットし、
僅か14台の出走であったため、ヴィルヌーヴは当初、
「見所の減ったレースで観客を喜ばすための余興」だと考え、
トップを奪い返した。しかしピローニは最終ラップで再度抜き返す。
裏切りに気付いたヴィルヌーヴはペースを上げてピローニを追ったが、
結局2位に終わった。


表彰式でシャンパンを手にはしゃぐピローニの後ろで、ヴィルヌーヴは無言を通したが、
内心はピローニに対して激しく怒っていたといわれる。
ヴィルヌーヴはこの事件以降ピローニを拒絶。「もうあいつとは口を利かない、
チームメイトとしても扱わない」と断言し、両者の関係は修復不可能なほど
悪化してしまう。
カーレースの世界では時折起きる、
チーム内のドライバー間の内輪揉めといってしまえばそこまでであるが、
ヴィルヌーヴのそれはベルギーGPの悲劇に直結してしまった。

続く第5戦ベルギーGP(ゾルダー・サーキット)の予選2日目(1982年5月8日)、
ヴィルヌーヴはピローニが自身の予選タイムを0.15秒上回ったと聞くやいなや、
再び予選アタックへと飛び出していった。予選終了10分前ほどであった。
ピローニのタイムを更新することができないままタイムアタックを続ける中、
最終コーナーのS字カーブでスロー走行中のヨッヘン・マスのRAMマーチに遭遇。
マスはヴィルヌーヴの接近に気付きレコードラインを譲ろうとした。
しかしヴィルヌーヴはレコードラインの外から抜いて行こうとし、
結果として同じ方向(アウトコース)に動いてしまった。
この時、ヴィルヌーヴ車は推定時速230km/hに達していたといわれる。

ヴィルヌーヴ車の左フロントタイヤがマス車の右リアタイヤに乗り上げ、
回転しながら宙に舞い上がった。マシンは前部から路面に激突して、
150m垂直状態のまま横転して大破し、ヴィルヌーヴの身体はマシンから投げ出され、
コース脇のフェンスに叩きつけられた。
現場や病院で救急隊により蘇生処置が施されたが、ちょうど支柱のあった場所に
叩きつけられていたヴィルヌーヴは頚椎その他を骨折しており、
その日の夜9時過ぎに死亡した。
32歳であった。


[ 死後 ]

ケベックで行われた葬儀には多数のF1関係者が参列、
ジョディ・シェクターが弔辞を述べた。
遺体は荼毘に付され、第2の故郷ベルティエヴィルの墓地に棺の一部が納められた。
また、ピローニは遺族から参列を拒否された。

他のF1ドライバーからもジルの死を惜しむ声が多く上がり、
アラン・プロストは「ジルは非凡な、かけがえの無いレーサーだった。
彼がいないF1は、もう同じF1ではない」
とコメントしている。

ヴィルヌーヴの死亡事故の後ピローニはポイントリーダーとなるが、
シーズン後半のドイツグランプリでジルと同様の事故に遭って重傷を負い、
戦線を離脱した。フェラーリチームはチャンピオン候補であった、
二人のドライバーを両方失ったが、
空いたシートを埋めたパトリック・タンベイとマリオ・アンドレッティの手により、
1982年のコンストラクターズタイトルを獲得した。

[ ピローニ ]

ヴィルヌーヴ事故死の原因になってしまったピローニだが、
実際はヴィルヌーヴに対して友情を持っていたと言われる。
ピローニは第8戦カナダGPでポールポジションを獲るが、
「本来ならここにいるべき男がいない」と涙を見せた。このレースでは決勝スタート時、
ピローニはエンジンをストールさせてしまい、後方から追突したリカルド・パレッティが、
シーズン2人目の事故死者
になるという悲劇が起きている。

ピローニはその後ポイントリーダーになったが、
雨で視界不良となった第12戦ドイツGPの予選中、前を走るプロストのマシンに乗り上げ、
ベルギーGPのヴィルヌーブと同様の事故
を起こしてしまう。
ピローニは両足複雑骨折の重傷を負い、タイトルは無論のこと、
F1ドライバーとしてのキャリアをも失う結果になった。
ピローニは1987年にパワーボートレース中の事故で死亡したが、
パートナーの女性は死後に誕生した双子の息子にディディエとジルと名づけた。

実はピローニとヴィルヌーヴは例のサンマリノGP以降、一度だけ言葉を交わしている。
ヴィルヌーヴはピローニのいる場所には極力近付かないようにしていたが、
ある時ピローニとヴィルヌーヴがお互いすれ違う時に「Salut(やぁ)」と言った際
、とっさに「Salut」と返事をした。この後、ヴィルヌーヴは酷く自分を呪ったという。

[ 事故原因 ]
FISAの事故調査委員会はヴィルヌーヴの判断ミスと判定し、
マスの責任を問わなかった。
レースアクシデントとしては、両者の回避判断が重なってしまった、
不幸なケース
とみなされている。
ただしモータースポーツの基本として、
「速度差の大きい後続車に道を譲る場合はむやみにライン変更せず、
後続車に追い抜きの判断を任せる」というマナーがあるのも事実である。


ヴィルヌーヴの事故は、
当時多用されていた予選用タイヤの存在が引き金になっている面もある。
予選用タイヤは非常にグリップ力が高く好タイムを出しやすいが、
その能力を発揮できるのはせいぜい1 - 2周で、最高性能を発揮する前後は
スロー走行しなければならない。当時は予選出走台数が30台に達し、
コース状況が良くなる予選終盤に各車が一斉に出走する渋滞状態が、
問題視されていた。

そのため予選中には、
タイヤの最高性能が出た状態でタイムアタックする車両と、
スロー走行する車両がコース上に混在するという、
非常に危険な状況が常態化してしまっていた。
ヴィルヌーヴの事故の際は、ヴィルヌーヴがタイムアタック中で、
追突されたマスはスロー走行中だった。

これがジル・ヴィルニューブがこの世を去る数年間の出来事です。
僕はコレを就職した年にTVニュースで見て、ショックを受けたのを、
憶えてます。
人を惹き付ける魅力、何が有っても前へ前へ。。。
当時のF1カーが現在のような安全基準なら、良かったかどうか・・・
この年以降1994年まで12年間、F1では本戦で死者は出ませんでした。
1986年、フランスのエストリルで、テスト走行中のロータスドライバー、
エリオ・デ・アンジェリスは亡くなってますが、GPとしては、
あのイモラサーキットまで、誰も死にませんでした。。。
安全性と危険性、相反する要素を組み込んだモータースポーツ。

ティフォシに支えられる熱烈なフェラーリドライバーは、
声援と共に、責務も背負うのです。。。誰もがなりたくてなれない、
フェラーリドライバー。
ミハエルやアロンソは、良い時代に生まれました。
魅力あるF1、魅力あるフェラーリドライバー。。。
これからも多くの猛者が、渡り歩くでしょう。。。

Posted at 2012/12/20 11:35:20 | コメント(1) | トラックバック(0) | NIGEL MANSELL&F1GrandPrix | 日記
2012年12月20日 イイね!

本格積雪時の仕事。

本格積雪時の仕事。昨日の朝、花脊は積雪15cm。

気温は高かったのですが、

もうこの先の雨予報は=雪ですね。

山々が雪で覆われてしまうと、

流石に仕事は出来ません。。。

今までもそうですが、冬の間は花脊から市内に出て行きます。

ナラ枯れの除伐が主な仕事でしたが、

この冬は竹林の除伐作業が入りそうで、先日下見と打合せに行きました。

竹の除伐は経験が無いんですが、

整理してやらないと混む一方で良くないそうです。

問題は現場までの距離が遠いので、

移動時間がかかる事と、ガソリン等の経費がかさむ事。

事業が存在してる以上は、何とかリカバリー出来ますが、

片道1時間40分くらいはかかる場所なんですよねぇ~・・・

行きは花脊の凍結・積雪路でさらに時間がかかるし、

早い時間は気温が低いので危険度が大きい。

帰りは16時頃を目処にしないと、花脊着は17:30以降。。。

それでも、仕事が有る限りは行かねばならぬ。。。って感じですね。

僕は除雪等の仕事が有りますので、そうそう行けませんが、

雪や天候に左右されるのは、山仕事の皆さんのネックなんです。。。

晴れても雪が覆い被さった山では、仕事は出来ません。。。
Posted at 2012/12/20 02:01:51 | コメント(2) | トラックバック(0) | 仕事・作業関連 | 日記

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