
あのJR西日本の起こしたJR福知山線脱線事故から今日で丸6年になりました。
僕が関西に来る前の事故でしたが、今でもその傷跡は現場に残っております。
僕も週に1~2回は仕事で取引先に行く時に利用している電車で、いつも事故現場を通るたびについつい←写真のマンションに目をやってしまいます。。。
以下Yahooニュースより抜粋
兵庫 JR脱線事故から6年
4月25日 8時1分
107人が死亡したJR福知山線の脱線事故から、25日で6年になります。兵庫県尼崎市の事故現場に設けれた献花台には、JR西日本の社長をはじめ、朝早くから多くの人が訪れ、花を供えるなどして犠牲者を悼んでいます。
平成17年4月25日に兵庫県尼崎市で、JR福知山線の快速電車がカーブを曲がりきれずに脱線し、乗客106人と運転士が死亡、562人がけがをしました。事故から6年となる25日、事故現場に設けれた献花台には、千羽鶴や花束が供えられ、通勤前に立ち寄ったという男性が手を合わせていました。JR西日本の佐々木隆之社長は、午前6時40分ごろ役員らとともに事故現場を訪れ、黙とうをささげたあと、献花台に花を供えました。佐々木社長は「ご遺族やけがをされた方の悲しみと苦しみは6年の歳月をもってしても癒やされていないと考えています。安全な鉄道会社にしなければならないと、改めて強く思いました」と話していました。このほかこの事故で業務上過失致死傷の罪で起訴され裁判が行われているJR西日本の山崎正夫前社長や、検察審査会の2度の議決で強制的に起訴された歴代の3人の社長のうち、南谷昌二郎元会長と垣内剛元社長も献花台に花を供え、静かに手を合わせていました。25日は現場近くにあるホールで追悼慰霊式が開かれ、事故が起きた午前9時18分に全員で黙とうをささげます。
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JR福知山線脱線 犠牲106人から6年…電車ようやく乗れた
産経新聞 4月25日(月)9時18分配信
事故で負傷し、精神的なショックから電車に乗れなくなった兵庫県西宮市の主婦(38)は事故から6年になる今年、ようやく福知山線に乗って事故現場を通ることができるようになった。電車に乗る練習を少しずつ続け、恐怖を受け入れながら前進した6年間。現在も練習は続けながら、「あきらめなくてよかった」と実感している。
女性は約6年前、大阪市内に通勤するため、事故車両の1両目に乗車していた。衝撃でマンションの地下に投げ出されたが、自力で脱出。病院で治療を受けたが打撲などの軽傷で、その日のうちに帰宅できた。
しかし、事故のショックは心に大きな傷を残した。翌日以降、自宅を出ることが怖くなり、外出もほぼ不可能に。阪急電車に乗車したが、強い恐怖で足が動かなくなり、1駅で降りた。約1カ月後、なんとか職場に復帰したが、タクシーで通勤するしかなかった。
焦りもあったが、「乗ろうと思えるまで待とう」と思い直し、電車に乗る練習を始めたのは事故の約5カ月後。仕事帰りに地下鉄に乗ることから始めたものの、当初は事故の記憶がよみがえり、1駅が精いっぱいだった。翌年には出産のため退職し、一時中断。長女が1歳になってからゆっくりと練習を再開した。
徐々に地下鉄や阪急電車には乗れるようになったが、JRへの抵抗はなかなか消えない。そんな時、救いとなったのが家族の存在だった。長女を連れて電車に乗り、泣かないよう車内でおもちゃを出したり、絵本を見せたり、気を使ったことで、「大変だったけれど、ずいぶん気が紛れた」と振り返る。
今年2月、初めて事故現場を通るJR福知山線塚口-尼崎間の上り電車に乗ったときは、夫(41)が付き添ってくれた。電車が塚口駅を出る瞬間「もう逃げられない」と恐怖がよぎったが、夫が話し続ける別の話題に集中し、周囲を見ないでいると、いつの間にか尼崎駅を過ぎていた。「乗れた」-。降車後、自然と喜びがわき上がってきたという。
4歳になった長女は電車好きになり、今では「乗りに行かないの?」と誘われることも。長女が今年4月に幼稚園に入園し、次は1人で福知山線に乗る練習を始める。「これが私のペースだったと思う」。目指してきたゴールが、すぐそこに迫っている。
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この事故で犠牲になった106人の命を決して忘れることなく、JR西日本には同じ過ちを起こさないようにして頂きたいです。
Posted at 2011/04/25 22:08:16 | |
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