2011年03月15日
先ほどは、地震が発生してから帰宅するまでを書いたけど、今度はこれからのクルマのことについて書きたいと思います。
帰ってきた日はもうとにかく疲れてたから、オヤジに「詳しくは明日聞くけど、クルマ、買ったらいいんじゃないか?お金貸すから」って言われた。その日は「うん・・・」って言って寝た。
次の日、両親(主にオヤジ)と地震発生直後から帰宅するまでのことを話した。
それはさっき書いたとおりだからここには書かないけど、詳しくクルマについてハナシをした。
まず、命が助かったのは一番良かったことだって言われた。
あの時空港に行ってなければ。。。とか、いろんなことで悩んだりもしてたけど、
オヤジに言われたことは、「あれだけ愛してたクルマだからきっと身代りになってくれたんじゃないかな・・・?」っていうこと。なんか、本当にそう思えてなりません。
よりによって、20万キロ突破した次の日にこんなことに巻き込まれてしまうなんて。
これからまだ走って行こうと思っていた。1つ大台を突破して、離れるべくして離れたんだろうかとか、いろんなことを考えたりして、空港を出るときは涙が出てきた。
そして今日。俺は店主に電話。本当はもう少し落ち着いてから電話した方がいいのかな?とかって思ったりしてたんだけど、オヤジから「ずっと足がないのだって、大変だろ?店主に電話して、店主の状況が許さないなら、自分で買ったらいいんじゃないのか?」って言われる。
それもそうだなって思って、まずはお店に電話。つながらない。次、店主のケータイに電話。
1度目は通じなかったけど、1時間後くらいに電話したらつながった。
出た感じでは思ったより元気そうだったからよかった。「あの、大丈夫でしたか?」って聞いたら、
「若干被害遭ったけど、大丈夫だったよ!アルミホイール落ちたのと、板金やるところの工場のガラスがちょっと割れたくらい。まだマシな方かな」って言ってた。
俺は「あ、そうでしたか。無事で何よりです。俺の方は、実はですね・・・・」と言って続ける。
地震の時に空港にいて、インテが津波に流されてしまったんですよ。。。って言うと、
「えーーーーーーーー!」ってメチャクチャビックリしてました。
でもやっぱり命が一番だからっていうことも言われました。
そこでお願いは二つあることも伝える。
1つ目は廃車にしたいから、その手続きのやり方を教えてほしいということ。
2つ目は足がないと厳しいからシビックRを探してほしいということ。
これらに対しての店主の答え。まず廃車手続きについてだけど、これに関しては警察に捜索願を出すといいって言われた。そして見つかった時点で店主がやってくれると。
それを聞いて今日、警察に電話したんだけど、盗難とかの時は捜索願を受けるけど、地震の場合なんかでは受けないんだとさ。その時の警官の態度のでかさときたらかなりムカつく!
交通取り締まりなんか絶対に協力しねー!って思った。ネズミ捕りやってたらガンガン対向車に教えてあげようと思った。
とりあえずもう少し待って、見つかったら店主に連絡しよう。
次、シビックについて。下回りのサビ止め塗装だけお願いしてもらって、220万円くらいだったら厳しいですか・・・??って聞くと、220ではちょっと厳しいとのこと。
シビックRのようなスポーツカーは予算を限定してしまうと、いいのが入らない可能性がある。
あと少し出せばすごくいいのが買えるのに。。。っていうことがありえるから、予算を付けない方がいいよ?って言われる。だからって、ベラボーに高いっていうことはなくて、常識の範囲内で探すから!って言われたんだよ。このような場合において、これまで自分の予想を上回ったことはないので、店主を信頼してお任せしたいと思います。無限の脚を組んでもらったり、ブッシュ類をやってもらった時なんかも、予測してたよりも遥かに安かったからね。
シビックRを購入するときは、本当は一番いい形でインテを手放すっていうのがよかったんだけど、まさかこんな形になるなんてっていうのが正直なところだよ。シビックRに乗れるのが決まったのはうれしいけど、うれしさは半分かな。。。
Posted at 2011/03/15 18:50:49 | |
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クルマ | 日記
2011年03月15日
ネットがようやく今日つながったので、地震発生から今のところのことを書いていきます。
次のクルマに関してのことは詳しくは次の日記に書こうと思います。
3月11日。会長とおでかけすることに決定。おでかけっていうか、いつものことなんだけど、
空港に行って飛行機見ながらコーヒーを飲み、ハナシをするっていうのが、最近のお気に入りかな。すごく楽しいんだよね。その日もいつも通りのはずだった。
2時45分だったかな。俺はトイレに立つ。すると、「あれ・・・??なんか揺れてる。。。
おさまらないな。。。」って思って、会長のところに戻った途端、凄まじい揺れ。。。
思わず叫んでしまったよ。。。「うわーーーー!!!!」ってね。灰皿が落ち、テーブルの上にあったカップや皿などもどんどん落ちる。
死ぬほど怖かった。でも、怖さとかつらさがここから始まるだなんてこの時は全く思わなかった。
揺れが収まって空港職員が、「速やかに避難してください!」っていうから、列を作って並んで空港の外へ。そのまま帰ろうかと思ってクルマに乗ろうとしたら、「6mの津波警報が出てます!すぐに3階に避難してください!」って言われた。
その時は、津波・・・??まさか。。。って思った。30分たってもこない。「まぁ、大丈夫だろ!」って思って少しすると、「あー!!きたーー!!」っていう声が聞こえてきた。
海の方を見るとものすごい波が。。。真っ黒な波がこっちに来た。
あ・・・俺たぶん死ぬ。。。ってマジで思ったし、インテも当然終わりだって感じた。
波が滑走路を埋め尽くした時は、一応大丈夫だったんだと思ったけど、「これ・・・いつ帰れるんだろうか?」って次は思うようになった。
暗くなってきたところで空港職員がお土産を分けて、そこにいた人たちに支給。
空港だし、電気とかしっかりしてるだろうから、寒さとか水の問題は大丈夫だろうと思ったら、そんなことは全くなくて、自家発電も2時間くらいだし、水は止まるし。。。
すぐに親に連絡して無事であることや、いつ帰れるか分からないこととかを伝える。
夜を過ごしててつらかったことはやっぱり寒さ。とにかく寒い。厚着したとはいえ、それで寝るのはしんどいし、開き直ったとはいえ、不安もよぎる。
毛布は50枚のみ。もちろん、お年寄りや小さい子供のいる女性が優先。俺とか会長は、最後の方に割り振られてもおかしくないような人間。あきらめながらその晩を過ごす。
津波は満潮と絡んでたこともあったようで、引くのも遅い。でも、引けば帰れるんじゃないかな?って思ってたんだけど、その考えが甘かったことを翌朝突き付けられる。
もう泥だらけ。クルマはおもちゃのように引っくり返り、家や木などが流されてきてて、とてもじゃないけど、空港の建物からは出られないっていう感じだったよ。こりゃ、今日もいなくちゃいけないな。。。って覚悟してた。やることといえば、椅子に座って寝てるか、本部に行ってラジオを聞いて情報を得てるかのどちらかしかないんだもん。
また、もう1つ大変だったこと、それはトイレ。まず電気がないから、ケータイカメラの明かりを使う。でも、それもバッテリーには限度があるから、100円ライターを使って照らしながら進んで行く。
それだけならいいんだけど、つらいのはそこの臭い。。。とてもじゃないけど、ここには書けないよ。流せないんだから。
今日も帰れないのか???ってあきらめかけてた12日夜。名取までバスが出るという情報が。。。
滑走路のところからバスが出て名取まで行くけど、そこから先は自分でやってくれっていう感じだった。会長と俺はこれに乗って行こうって言ってたんだけど、なんかハナシが違ってきた。
岩沼にしか行かないとかってなってきた。会長は岩沼なら行かないと。俺はとにかくここから出たい!っていう思いから、出ることを決意。後で会いましょうっていうことで会長とは別れた。
俺と同じ思いで空港を後にした人は何人かいて、俺を含めて5人で岩沼からは歩いて行こうっていうことにした。滑走路をバスが走るんだけど、木や岩などを自衛隊が、クルマが通れるようによけてそこをすり抜けていく感じだったんだけど、インテとここで別れるのかと思うと、涙が流れたよ。それからやっぱり、自衛隊が片付けをしている時にはけっこう遺体があったらしい。もう辛かったよ
でも、とにかく自分が出ないことにはイカンっていう思いがやっぱりあった。
岩沼に着いた時、なぜ名取には向かわないのか?っていう理由がだいたい分かった。それは、信号がついていないために、4号線を右折するのが危険だからだろうって感じた。岩沼ならばそれほど広くない道路を一回右折するだけであとはずっと左折左折でこれるからね。
歩いた人は5人。歩くこと数キロ。館腰駅というところで、公衆電話があった。災害のために電話が無料で使えて、そこで一人が自分の会社の人に電話。そしたらなんと、二人が迎えに来てくれるとのこと!
待つこと数十分。キューブとミラが来た!そこからいったん、その人の職場へ行って、それぞれの自宅の人がいるかどうかを確認してから帰った方がいいんじゃない?っていうことになって、充電させてもらい、電話を何度かかけた。結局は出なかったけど。たぶんいるだろうって思って自宅まで送ってもらった。
会社にいる時のことなんだけど、カップラーメンを出されたんだよね。この時のカップラーメンのおいしさと言ったらもう・・・なんて表現したらいいかわからないくらいにおいしかった、ありがたかった。
この会社の方々には本当に感謝しているので、あとでお礼を持って伺おうと思っています。
12時くらいに帰宅しました。電気が全て消えていて、避難しているか、家にいるかわからなかったから、「帰ったよ!誰かいる!?」ってけっこう大きな声で言ったら、俺以外の家族はいました。
でも、兄貴は地震関係の対応に追われて帰ってきたところだったようで、俺が帰ってきたことに気付かないくらいに爆睡してたそうです。
こうして空港からの脱出は終わったのでした。。。死ぬほど疲れましたが、俺なんかの比じゃないくらいに辛い想いをしている人たちはまだまだたくさんいるんだよね。
すごく恵まれているんだなって思いました。
Posted at 2011/03/15 15:58:46 | |
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分析 | 日記