串本から足を伸ばして、太地のくじらの博物館に行きました。
くじらのショーをやってました。
昔は手漕ぎの小船で、大きなくじらに挑んだ人々は凄い!
キャッチャーボートが展示されてます。
日本の捕鯨
8世紀の奈良時代には文献上に捕鯨を意味する「いさなとり」の枕詞が出現している。初期には「突き捕り式」と称する銛を用いた捕鯨法で、16世紀には捕鯨専用の銛を使うようになっていた。江戸時代に入った17世紀初頭には、水軍から派生した専門的な捕鯨集団「鯨組」が各地に出現した。17世紀後半には、網を用いてクジラを拘束してから銛で仕留める「網捕り式」と呼ばれる技術が鯨組により開発された。捕獲対象は、初期には西洋と同様にセミクジラやコククジラであったが、網捕り式捕鯨の開発後は、遊泳速度が速いうえ死亡すると水に沈んでしまうため捕獲が難しいナガスクジラ科のクジラまでも対象とできるようになった。
鯨組は捕獲から解体、鯨油抽出・鯨肉塩漬けなどの商品加工までを行う数千人規模の巨大な組織となり、藩からの支援も受けていた。西海捕鯨における最大の捕鯨基地であった平戸藩生月島の益富組においては、全盛期に200隻余りの船と3000人ほどの水主(加子)を用い、享保から幕末にかけての130年間における漁獲量は2万1700頭にも及んでいる。また文政期に高野長英がシーボルトへと提出した書類によると、西海捕鯨全体では年間300頭あまりを捕獲し、一頭あたりの利益は4千両にもなるとしている。ただし、このような多数の労働者を必要とする鯨組による古式捕鯨は、その経営維持が難しい面もあり、経営難から解散に至る例もあった。日本の古式捕鯨は、好不調の波もありつつ19世紀前半にはピークを迎え、徐々に衰退、明治時代末には後述のノルウェー式捕鯨に取って代わられた。
捕獲された鯨からは、鯨油が生産されて農業資材や灯油などとして全国に流通したほか、ヒゲも様々な工芸品の材料として使用された。さらに、鯨肉は食糧としても利用されており、中でも保存性の高い皮脂や鰭の塩漬けは広範囲に流通していた。
日本では、捕鯨従事者を中心にその地域住民に捕鯨行為に対しての安全大漁祈願や、鯨に対する感謝や追悼の文化が各地に生まれた。「鯨一頭(匹)七浦賑わう(潤う)」という言葉に象徴され、普段、鯨漁を生業としない海浜地域において鯨を捕獲してその地域が大漁に沸いた事や鯨に対しての感謝や追悼を記念し後世に伝承していた例もある。ほか、鯨唄・鯨踊り・鯨絵巻など、鯨または捕鯨に関する歴史的な文化は多数存在する。
日本の宗教観念では森羅万象を神とする考え方もあり、また人々の生活を維持してくれる作物や獲物に対して、感謝をする習慣があり、鯨墓、鯨塚などが日本各地に建立されている。
日本各地に鯨に纏わる神社(俗称として鯨神社)がある。多くは鯨の遺骸の一部(骨など)が御神体になっていたり、捕鯨行為自体を神事としている神社などがある。なかには鯨のあご骨でできた鳥居を持つ神社もある。
日本各地に鯨を供養した寺があり、俗称として鯨寺と呼ばれているものもある。多くは鯨の墓や戒名を付けたりなどしているが、鯨の過去帳を詳細に記述している寺などがある。なかには鯨観音とよばれる観音をもつ寺もある。
欧米人は油だけを取って後は捨てる。
日本人はひげ、骨、皮・・全てを大切に扱い、供養をしてます。
日本の文化を大切にしよう。くじらは日本の食文化や。
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2012/04/30 12:55:14