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2012年04月30日 イイね!

くじらの博物館

くじらの博物館串本から足を伸ばして、太地のくじらの博物館に行きました。


くじらのショーをやってました。


昔は手漕ぎの小船で、大きなくじらに挑んだ人々は凄い!


キャッチャーボートが展示されてます。

日本の捕鯨
8世紀の奈良時代には文献上に捕鯨を意味する「いさなとり」の枕詞が出現している。初期には「突き捕り式」と称する銛を用いた捕鯨法で、16世紀には捕鯨専用の銛を使うようになっていた。江戸時代に入った17世紀初頭には、水軍から派生した専門的な捕鯨集団「鯨組」が各地に出現した。17世紀後半には、網を用いてクジラを拘束してから銛で仕留める「網捕り式」と呼ばれる技術が鯨組により開発された。捕獲対象は、初期には西洋と同様にセミクジラやコククジラであったが、網捕り式捕鯨の開発後は、遊泳速度が速いうえ死亡すると水に沈んでしまうため捕獲が難しいナガスクジラ科のクジラまでも対象とできるようになった。
鯨組は捕獲から解体、鯨油抽出・鯨肉塩漬けなどの商品加工までを行う数千人規模の巨大な組織となり、藩からの支援も受けていた。西海捕鯨における最大の捕鯨基地であった平戸藩生月島の益富組においては、全盛期に200隻余りの船と3000人ほどの水主(加子)を用い、享保から幕末にかけての130年間における漁獲量は2万1700頭にも及んでいる。また文政期に高野長英がシーボルトへと提出した書類によると、西海捕鯨全体では年間300頭あまりを捕獲し、一頭あたりの利益は4千両にもなるとしている。ただし、このような多数の労働者を必要とする鯨組による古式捕鯨は、その経営維持が難しい面もあり、経営難から解散に至る例もあった。日本の古式捕鯨は、好不調の波もありつつ19世紀前半にはピークを迎え、徐々に衰退、明治時代末には後述のノルウェー式捕鯨に取って代わられた。
捕獲された鯨からは、鯨油が生産されて農業資材や灯油などとして全国に流通したほか、ヒゲも様々な工芸品の材料として使用された。さらに、鯨肉は食糧としても利用されており、中でも保存性の高い皮脂や鰭の塩漬けは広範囲に流通していた。
日本では、捕鯨従事者を中心にその地域住民に捕鯨行為に対しての安全大漁祈願や、鯨に対する感謝や追悼の文化が各地に生まれた。「鯨一頭(匹)七浦賑わう(潤う)」という言葉に象徴され、普段、鯨漁を生業としない海浜地域において鯨を捕獲してその地域が大漁に沸いた事や鯨に対しての感謝や追悼を記念し後世に伝承していた例もある。ほか、鯨唄・鯨踊り・鯨絵巻など、鯨または捕鯨に関する歴史的な文化は多数存在する。
日本の宗教観念では森羅万象を神とする考え方もあり、また人々の生活を維持してくれる作物や獲物に対して、感謝をする習慣があり、鯨墓、鯨塚などが日本各地に建立されている。
日本各地に鯨に纏わる神社(俗称として鯨神社)がある。多くは鯨の遺骸の一部(骨など)が御神体になっていたり、捕鯨行為自体を神事としている神社などがある。なかには鯨のあご骨でできた鳥居を持つ神社もある。
日本各地に鯨を供養した寺があり、俗称として鯨寺と呼ばれているものもある。多くは鯨の墓や戒名を付けたりなどしているが、鯨の過去帳を詳細に記述している寺などがある。なかには鯨観音とよばれる観音をもつ寺もある。

欧米人は油だけを取って後は捨てる。
日本人はひげ、骨、皮・・全てを大切に扱い、供養をしてます。
日本の文化を大切にしよう。くじらは日本の食文化や。




Posted at 2012/04/30 12:55:14 | コメント(3) | トラックバック(0) | 日記
2012年04月29日 イイね!

トルコ記念館

トルコ記念館昨年も行ったトルコ記念館です。
記念館の由来は、オスマン皇帝の特使を乗せて日本に派遣されたエルトゥールル号が、帰国の途にあった1890年、樫野埼灯台近くで座礁したことにある。犠牲者587名という大惨事であったが、地元大島村(現串本町)の人々はトルコ人の遭難者に温かい対応を行ったことが、日本とトルコの友好の始まりとして有名なエピソードになっている。
トルコ記念館はこの出来事を記念し、1974年に遭難現場付近の紀伊大島に建設された。2階展望台からはエルトゥールル号が座礁した地点を見ることができる。


エルトゥールル号が遭難した明治23年当時、地元樫野の島民は献身的な救助活動を繰り広げ、引き揚げられた遺体は、救出され一命を取り留めたハイダール士官立ち合いのもとに、遭難現場である船甲羅岩礁を真下に見下ろす樫野埼の丘に埋葬されたと伝えられています。
翌、明治24年3月、和歌山県知事はじめ、有志の義金により、墓碑と追悼碑が建立され、併せて追悼祭が行われました。
後に、昭和天皇の樫野埼行幸(昭和4年)を聞いたトルコ共和国初代大統領のケマル・アタチュルクが新しい慰霊碑を建立するこ事を決定し、和歌山県が委託を受け、現在のような立派な弔魂碑に改修されましたが、墳域設定に際して、大島村民は樫野埼灯台南東約300㎡のこの広場(面積746㎡)を提供いたしました。そして、天皇行幸8周年記念日に当たる昭和12年6月3日、除幕の日を迎え、今日もなお熊野灘沖を行き交う船舶を見守るかのように、樫野の丘にそびえ立っているのです。


日本赤十字「平時国際活動発祥の地」
この記念碑は、トルコ軍艦遭難時に救助・看護にあたった人々と赤十字の博愛精神を忘れることなく平和を願う心をデザインしたものです。
一命をとりとめた士官ハイダール以下69名は荒れ狂う怒涛の中、大波に翻弄されながらも、必死で島に這い上がり、樫野の灯台に助けを求めました。嵐の、しかも深夜、まして通信機関も救助機関もない離島での大事件、それでも島の人々は手持ちの着物や布団を持ち寄り応急処置と看護にあたり、また、各戸に蓄えていた羊や飼っている鶏などの食料を提供し、幸いにも洋食調理の心得のあった村民の一人、樫田文衛門がコック役を務めましたが、小さな村に一度に69名の珍客を迎え、たちまち食料が底をついてしまいましたが村民は、トルコ人が本国で賓客に示すに劣らぬ歓待の意を示し、食料の一切を喜んで提供したといいます。生存者の救済の一方で遺体の捜索もなされました。


今も大島の小学校、中学校で歌い継がれている、エルトゥールル号の追悼歌です。

時は流れ・・・
日本人216名を救ったトルコ航空機
イラン・イラク戦争が始まった、1985年3月17日、イラクのサダム・フセインが「今から40時間後に、イランの上空を飛ぶ飛行機を打ち落とす」ということを世界に向かって発信した。イランに住んでいた日本人は、慌ててテヘラン空港に向かったが、どの飛行機も満席で乗ることができなかった。世界各国は自国民の救出をするために救援機を出したが、日本政府はすばやい決定ができなかったため空港にいた日本人はパニックに陥った。
そこに1機のトルコ航空の飛行機が到着した。トルコ航空の飛行機は日本人216名全員を乗せて、成田に向かって飛び立った。タイムリミットの、1時間15分前であった。なぜ、トルコ航空機が来てくれたのか、日本政府もマスコミも知らなかった。この時、元駐日トルコ大使のネジアティ・ウトカン氏は次のように語られた。「エルトゥールル号の事故に際して、日本人がなしてくださった献身的な救助活動を、今もトルコの人たちは忘れていません。私も小学生の頃、歴史教科書で学びました。トルコでは子どもたちでさえ、エルトゥールル号の事を知っています。今の日本人が知らないだけです。それで、テヘランで困っている日本人を助けようと、トルコ航空機が飛んだのです」

素晴らしい話でしょ、どんどん広げてくださいね。
Posted at 2012/04/30 12:28:01 | コメント(1) | トラックバック(0) | 日記
2012年04月21日 イイね!

あつをさんと春を楽しむ

あつをさんと春を楽しむかい。
特別講演「日本経済とおねえちゃん」

場所は岸和田カンカンベイサイドモール
布施風月

豚玉3枚、スジコンねぎ焼き、風月焼きそば2人前、ベーコンアスパラ2人前、オム巻き2人前を
masaさん、イルカさん、たけしさん、markの4人で食べました。
演者のあつをさんと席が離れたので、詳しいことは分かりませんが、
経済部門の演説
「粉もんは安くて、お腹がいっぱいになるなぁ~」とたぶん言ってるはずです。

1Fにあるスタバに場所を変えて、

入り口の所に陣取ってますから、入ってくるおねえちゃんをバッチリ観察しているあつをさん。
お姉ちゃん部門の演説
「お~、ええ姉ちゃんが来たで~」、デロ~ン、ズルズル

なぜか泉大津SAに出没

SAの入り口に陣取って、お持ち帰りを物色してます~。
イルカ兄弟に、「何才までならいける~」「年金貰いだしたらあかんやろ~」等延々と会話が出てます~。
後はどうなったか知りません、あつをさんお持ち帰り日記を見てくださいね~。
Posted at 2012/04/22 00:34:51 | コメント(8) | トラックバック(0) | 日記
2012年04月07日 イイね!

オイル交換、タイヤインプレ

オイル交換、タイヤインプレ5000kmの定期オイル交換。
10000kmのエレメント交換。
近藤エンジニアリングに行きました~。
お客さんが一人居てましたが、強引にやってもらいました。
「コンピューターチューン出来るようになりましたよ~」
「でっ、なんぼしまんねん?」
「20万です~」
「う~ん、あと1年半はあきまへんなぁ~。家のローンが残ってるから~」
危ない、危ない、コンピューターだけではすまへんど~、エキマニ、スポーツ触媒入れたら50万はいかれるなぁ~。やばい、やばい。
「そう言えば、プラグ交換してないんやけど?」
「ディラーは10万までは大丈夫って言うけど、たぶん減ってますよ~、交換しときましょう~」


トラストのGReddyレーシングプラグ(赤箱)
「NGKが作ってるいいプラグですよ~。ただし20000kmで交換してくださいね~」


オイルキャップをしげしげ見ながら
「このキャップよく割れるんですよねぇ~、アルミのが有るんですけど、どうします~?」
「えっ、割れるんですか?、じゃぁ~お願いします~」

お~金色や~。汚いエンジンルームに光ってる~。
クアトロ大尉の百式みたい~。ええど~ええど~。

タイヤのインプレ。
リアタイアヤを交換して1ヶ月。
何か乗りにくいなぁ~、ピョンピョン跳ねるし~、わだちではハンドル取られるし~、横に向こうとするし~、高速コーナーではVSAがチカチカするし~、これはミスチョイスって思って近藤さんに話すと、「見てみましょう~」ってゲージで圧を測って「これは跳ねますよ~、3.6キロも入ってます~、反対側は3キロですね~、これじゃぁ~跳ねますね~」「えっ、ほんまですか~?」あちゃ~基本中の基本や~、マルゼンの兄ちゃんの2.6キロを信用したのが失敗や~。自分で確認せなあかんなぁ~、反省や~。
帰り道の素直な運転、いや~快調、快調~。
空気圧はこまめにチェックしましょうねぇ~。
Posted at 2012/04/07 23:02:07 | コメント(3) | トラックバック(0) | 日記

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何シテル?   09/18 23:15
赤S2000 TYPE-Sです。いい年して、こんな車買ったなぁって言われているイチビリおやじです。Vゾーンたのしんでま~す。今後いろいろアイテムを増やすつもりで...
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