
トップ画像は、原子力災害伝承館(後述)から見た福島第1原子力発電所。煙突とクレーンが森の向こうにうっすら見えるだけですが、直線距離にして約4㎞しか離れていないそうです。
東日本大震災の復興の一助に…とかなんとか、岩手や宮城はちょくちょく行ってるのに、肝心の福島は行ってないだろうが、この偽善者めっ!と思われてるんじゃないかなぁというのは常に頭の中にあって、心苦しい気持ちでいたのは確かです。実際2泊3日のスケジュールでは岩手+宮城でもかなり駆け足で見ている感覚で、日程にまったく余裕がありません。だというのに、せっかく来たんだからと土地勘と距離感が判らぬまま、あっちも回ろうこっちも回ろうと欲張っているために、いつもギリギリになってしまうのです。
なら、今回は福島だけ回ってみようということにしました。よしつきが住む茨城とはお隣の県ということで、お泊りなしの日帰りツアーです。とは言え、今回も土地勘・距離感がまったくないままのスケジューリングだったため、痛い目を見るんですが、それはまた後述ということで。
始めは、いわき震災伝承みらい館(HP→
■)。

実は去年の年末に、宮城に行く途中に立ち寄った美空ひばりの像(過去ログ→
■)のほど近くにあって、そのときに認識はしていたのですが。
館内はこじんまりとした雰囲気で、パネルや映像展示、津波後に発見された実物の展示、VR展示など充実していました。

こちらは震災前には、いわき震災伝承みらい館が建っている場所の目の前にあった旧豊間中学校のピアノ。学校ごと津波に襲われ音が鳴らない状態だったそうだけど、いわき市のピアノ店の店主が見事に復活させたそうです。

見づらいですが、幸い津波から逃れられた方々の生々しい証言の数々。
2階の展望デッキからは、太平洋とあまりに様変わりした沿岸が望めます。

特に右側の画像では、本来ならこの目と鼻の先に豊間中学校があったことを示してあるけれど、今や跡形も名残もない状態に…。
次に訪れたのは、双葉町にある東日本大震災・原子力災害伝承館(HP→
■)。

いわき震災伝承みらい館よりもはるかに大きい展示館です。
館内の展示も、大きなスクリーンを駆使した映像や展示の数々、かなりの規模です。施設の名前にあるように、復興の大きな妨げになってしまった原子力発電所の事故が展示のメインになります。

福島第一原子力発電所の模型。
他の県の方々には、もはや年に一度思い出されるかどうかって感じの原発事故ですが、福島県民にとっては廃炉作業は政府の甘い見通しをあざ笑うかのように遅々として進まぬ現在進行形の出来事なのです。ブログトップの、あのぼやけた煙突とクレーンの下では、今でも廃炉作業を黙々とこなしている方々がいるのです。

これほど皮肉なスローガンがあったでしょうか? 温室効果ガスの抑制のためにという大義名分の下、政府は再び原発再稼働・新規建造に意欲を燃やしてますが、福島の二の舞をあと何度繰り返せば原発を諦めますかね? いつまで絶対安全・安い電気料金と嘘を重ねるんでしょうか?
ちょうど被災者の語り部による講和の時間になったので、拝聴することにしました。その方は、先月花見に訪れた夜の森地区(過去ログ→
■)に住んでいたそうです。そう、あのブログでは触れませんでしたが、あの立派な桜並木はほんの数年前まで線量が高く立ち入りすらできない地域だったのです。せっかく奇麗な桜並木のすぐそばに家を建てたものの、あの原発事故で避難を余儀なくされ、数年後なんとか一時帰宅を許される頃には家は野生動物に荒らされ、見るも無残な状態だったとか。
花見の時は並木道周辺にポツンポツンとほん数件家があるだけで、ほぼほぼ更地だったのは最初からそうなのだと気にも留めなかったのですが、この伝承館の震災前の写真展示を見て、かつて夜の森の並木道沿いには家が並んでいたことを知り愕然としました。そう、ほとんどの住民は家を壊し退去されていたのでした。呑気に桜を見て、奇麗だなどとはしゃいでいた自分が情けなくなりました。
語り部さんも泣く泣く自宅を処分し、県外にしばらく住んでいたそうですが、同居していて一緒に避難していた御両親が福島に帰りたいと望んでいたので、戻ることにしたそうです。けれど、その矢先、お父様・お母様と相次いで亡くされたということです。
事故後の、とても被災者に寄り添ってるとは思えない政策に翻弄され、帰りたくても帰れない、帰れない絶望の中で命を落とす方々も多くいると聞きます。ひとたび事故が起これば、こういう悲劇が繰り返されるということなのだ。それでもなお、原子力こそが温室効果ガス抑制のための唯一の手段だと言い張るのか? 日本国民はすべからく、自分事として考えるべきだと思う。

地震や津波、さらには原発事故と三重の困難にさらされ、なおも強く生きていく人々には尊敬するばかりです。そんな彼らに、我々が出来ることといったら、忘れないでいること、可能な限り支援をしていくことくらいですかね。
伝承館のほど近くに、そんな被災者に寄り添った施設がありました。
フタバスーパーゼロミル(HP→
■)

地震と津波、とりわけ原発事故によって、人も家もなくなってしまった双葉町に、ようやく帰還ができるようになりました。けれど、町は人が戻ってきただけでは町足り得ません。復興のための雇用を創出するために工業団地を作る計画がたったそうです。そこに名乗りを上げたのが、岐阜県に本社を置く、タオルメーカーの浅野撚糸さんです。その新工場がフタバスーパーゼロミル。
上のリンク先を見てもらえるとお判りの通り、上空から見ると復興に勇気と力が沸いてきそうなカッコイイ工場建屋です。
浅野撚糸さんの社長さんが福島の復興に貢献したいと新しく工場を建てたと、確かネット記事で読んだと記憶しています。その意気に嬉しくなり、福島訪問の際には是非行ってみたいと思った場所でした。
工場を含む建屋には、そこで作られたタオルを販売するショップやカフェも併設され、ガラス越しではありますが実際にタオルを作ってる現場の見学もできます。

当然工場で作られたタオル、エアーかおるを購入。まだ使用してはいないのですが、普段使ってるような安物とは大違いの高級品です。その違いをあとで存分に楽しみたいと思います。
最後に震災遺構の請戸小学校を見学。

津波の高さは、2階の床くらいまで来たそう。

1階の教室はこの有様…。

右の画像は体育館で、津波のせいで床が大きく凹んでいます。

昇降口の隣には展望台があるという珍しい造り。その展望台には津波の到達点が。

当時、小学校にいたのは先生と生徒含めて93人は、全員近くの山に避難して無事だったそうです。近くとは言え、1.5㎞もあるそうで、いつ来るか判らない津波の恐怖に耐え、よくも全員避難できたなと感心しきりです。
最初のいわき震災伝承みらい館だけはすぐに小高い地形になってるせいか周辺に家がありましたが、双葉町や請戸地区の伝承館や新工場、震災遺構周辺の平らな土地は更地ばかりで何も手が付けられてない状態でした。こういうのを見るとまだまだ復興はできていないと実感します。
実際、国道6号を走ってても、いまだにバリケードの前に警備員が立っている立ち入り禁止の道がそこかしこにありました。福島第一原子力発電所の廃炉作業は、政府の甘い見積もり以上に何十年もかかりそうで、だとするとこの立ち入り禁止の道が解放されることはまだまだ先のことなのだろう。薄くか細い希望の光は見えつつも、福島の復興・再生はまだまだ遠い。出来る範囲での支援をしつつ、思いを馳せることは忘れずにいたいと思う。
<オマケ>
東日本大震災・原子力災害伝承館に着いたのが、ほぼお昼の頃。見学と語り部の講話を聴くうちに、午後2時を大幅に過ぎてました。伝承館の隣には双葉町産業交流センター(HP→
■)という施設があります。お腹が空いていたので、センター内にあるレストランで遅い昼食をとろうとしたトコロ、ラストオーダーは14:00…
フタバスーパーゼロミルにもカフェが設置されていたんですが、こちらもランチは14:00まで…。
しかも請戸小学校は見学受付が16:00までなので、呑気にご飯食べてる時間はないので小学校に直行。
見学は充実していましたが、空腹状態は最悪だったのでとにかく何か食べたい!と、でもせっかく海の近くなんだから魚食べたい!というコトで、井の頭五郎ばりに店を探そうと。持参したるるぶをパラパラ見ていたら、請戸から1時間ちょっと走るようだけど、相馬市に「浜の駅 松川浦(HP→
■)」というのがあって、中に食堂もあるとか。名前の通り港の近くで、美味しい魚も食べられそう。営業時間は18:00まで。チンクを走らせ、なんとか17:00頃に滑り込みました。

ワクワクしながら、店内の食堂に行くと…
∑(◎Д◎)
なんと、浜の駅自体は18:00までやってるけれど、食堂のラストオーダー14:30ですと…。よく見たら、るるぶにも浜の駅のHPにもそう書いてあった…orz
浜の駅 松川浦に置いてあった、近くの食事処を網羅したチラシを見てみると、魚を扱う料理屋はことごとくランチタイムばかり。チラシを見ながら、相馬市内のお店行っても、満員ですぐには提供できないというお店ばかり。
さすがに何にも知らずに飛び込みで入る度胸もないので、もう高速道路のSAで済ますコトにしました(ToT)

アジフライ定食…。
たしかに揚げたてのアジフライは衣はサクサク、中はフワフワで最高に美味しかったんですが、オサーンが求めていた魚料理ではないんですよ!
結局、旅行は下調べをキッチリしてムリのない計画を立てて行くべし!というごくごく当たり前の教訓を胸に刻んだワケですわ┐(´д`)┌=3