
マンガ家、故・やなせたかし氏は言ったそうです。
怪獣を倒すスーパーヒーローではなく、怪獣との闘いで壊された街を復元しようと立ちあがる普通の人々がヒーローであり、正義なのです。
正義を行う人は自分が傷つくことも覚悟しなくてはいけない。
今で喩えると、原発事故に防護服を着て立ち向かっている人々がいます。
自分たちが被爆する恐れがあるのに、事故をなんとかしなくてはという想いで放射能が満ちた施設に向かっていく。
あれをもって、「正義」というのです。
映画『Fukushima50』を観てきました。
刻一刻と悪化していく状況と、それを他人事のようにモニターの向こう側の安全なところにいる人たちのお役所仕事的な指示との板挟みにあいながらも、命を懸けて日本を救おうとする福島第一原子力発電所の職員たち。
心が震え、涙するシーンの連続でした。
東日本大震災を体験した人たちは観てほしい映画だと思いました。
いや、今ただ漫然と電気を使っている日本国国民のすべてが観るべきだと。
そして、原子力発電政策を強く推し進めている人たちは、特に観なければダメだと思いました。
CO2排出による温暖化が世界的な大問題になっている現代において、従来のように化石化燃料を燃やして発電するという方法は敬遠されつつあるのが世界の潮流です。では、何を使って発電するか?というと、今のところ再生可能エネルギーか原子力の二択ということになりそうです。
そうすると、我が国のお偉いさんたちは口を揃えたように、再生可能エネルギーは変動性があって安定的ではないと言う。だから原子力がいいんだと。
でも、今回の事故で痛感したはずです。原子力というのは、ひとたび事故があれば人類が全く手に負えない代物であると。
以前ブログに書いたかと思うのですが、私も福島第一原子力発電所の事故より前は、日本には資源がないのだから原子力に頼るのは仕方ないと思ってました。しかし、この事故でその考え方は一変しました。事故から9年が経とうとしているのに、いまだ線量が高すぎて人間が長時間いることさえできず、まったく手付かずの場所が多く、廃炉作業は遅々として進んでいない。なにより、これをまず撤去しなければ何もできないという、放射線を大量にまき散らしている燃料デブリには、近づくこともできないというもどかしさ。そんな代物に手を出すべきではなかったんだ、と私は思うようになりました。
福島がまだこんな状況だというのに、政府は全国の他の原子力発電所を再稼働させようと躍起になってます。どうしてそれほどまでに原子力に固執するのでしょうか? 原子力を使うことで利する人たちへの忖度なのでしょうか? それとも、自身が便宜を受けているのでしょうか?
いずれにしろ、そんな人たちを肥え太らせるためにお金を使うよりも、再生可能エネルギーをメインにするための弱点克服の研究にお金を使う方が、将来的にもはるかに有効なのではないでしょうか?
原子力の方が安いと原子力推進派のセンセイたちは言いますが、その電気料金にはこれから続々と出てくる廃炉要件(原則、運転から40年ということになっているけど、例外として20年延長可という骨抜き要件。「例外」といっても、ほぼ「例外なく」と言い換えられる模様)を満たす原子炉の廃炉費用は含まれません。また、原子力発電で排出される核廃棄物の最終処分場の建設費用も含まれてないのです(余談だが最終処分場にいたっては、どこに建設するかすら決まっていない。原子力発電環境整備機構という組織が核廃棄物処分全般を担当しているのだが、2000年発足以来、最終処分場の候補地すら決定できずにいる。100名以上の職員がいて、¥200億ほどの予算を計上しているらしいが、これでは全くのムダだ)。それなのに、原子力由来の電気が安いなんて本当に言えるのか?
多少電気代が高くなっても発電が不安定でも、人類が手に負えない事故を起こすような原子力より、再生可能エネルギーの方がはるかにましだと思います。原子力村の人たちに与えるムダなお金をもっと有用に使えば、再生可能エネルギーだって安定的に使える将来はきっと来るはずです。そうして日本は技術立国としてこれまでやってきたわけですから。
事故後に発足した原子力規制委員会は、原子力発電所の安全規制を強化して、運転の是非を決定する権限を持ちますが、この「原子力規制委員会が安全と認めた原子力発電所は運転をしてもよい」という考え方が非常に引っ掛かります。たかがニンゲンごときが「安全と認める」というのは、どういうことなんでしょうか?
福島第一原子力発電所だって、安全にはそれなりに十分な対策があったはずです。にもかかわらず、事故は起きました。すると、モニターの向こう側の安全なところにいる人たちは「想定外の事態が起きたのだから仕方ない」と言います。では、「原子力規制委員会が安全と認めた」原子力発電所では「想定外の事態」は起きないのか? それとも、また事故が起きたら「想定外の事態が起きたのだから仕方ない」と言うつもりなのだろうか?
いくら、何重にも安全対策を張り巡らせたとしても、「想定外の事態」は起きる。その「想定外の事態」を想定できないニンゲンごときが、「安全と認める」? この傲慢さは一体なんなんだろう?といつも思うのです。
そしてまた、去年9月、東京電力の旧経営陣3人が全員無罪となりました。
2008年に15mを超える津波が予想されるという報告を受けたのにもかかわらず、信頼性がないと一蹴し、何もしてこなかった経営陣が無罪です。これだけの事故をおこしておきながら、職を辞した以外はなんの責任も問われないのです。日本には正義はないんだと思いました。
彼らは今後も、福島から避難を余儀なくされている方々よりも、はるかにいい暮らしをして、何不自由なくのうのうと生きていくのでしょう。神も仏もないとはこのことです。
◇
かの総理大臣は、オリンピック招致活動のプレゼンテーションにて言いました。
「Under control」と。
その薄っぺらい発言をどのくらいの人が信じたのかは判りませんが、汚染処理水はいまだに溜まり続け、2022年夏ごろにはタンクは一杯になるそうです。敷地内にこれ以上タンクを増設したら、廃炉活動の妨げになる。海洋放出するなら、その放出施設を作るのに2年はかかる。だから、処理水をどうするのか決めるタイムリミットが近づいているというのだ。
多核種除去設備(ALPS)で汚染水をろ過すれば、トリチウム以外の放射性物質を除去することができる。トリチウムは環境に対する負荷が少なく、トリチウムを含んだ水ならば、国内外の原子力発電所でも放出している。だから問題ないというのが、海洋放出したい方々の言い分。
しかし、最近判明した事実によると、処理水の中にはトリチウムだけが残されている海洋放出可能な基準値以下の水は全体の3割程度だということです。この期に及んで、まだ隠ぺい体質が抜け切れていないようです。
こうなると、タンクが増設できないというのも、放出設備建設が2年かかるというのも、単に厄介な処理水を早いところ海洋放出してしまいたいと思っている何者かのウソなのではないか?と考えてしまうのも無理ないことだと思います。
どこが、何が、「Under control」だというのだろう? 情報をコントロールしてるということか? 情報をコントロールして人心をコントロールしてるということか?
映画の最後で、「東京オリンピックを『復興五輪』として、聖火ランナーが復興の象徴たる被災地・福島を走る」とかいうキャプションが流れます。
だけど、そのルートでもある大熊町の住民たちからは、不信感を伴う言葉が漏れると聞きます。いわく、聖火リレーのルートはTV中継されるから、キレイに直されたところだけ映して、あたかも復興は完了しましたと見せたいだけなんだと。それで本当に復興は完了されたんだと思われたら堪らない、と。
実際、汚染土が詰まったフレコンバックが画面に映らないよう、別の場所に移されたとか、そもそもまだ復興が進んでないように見える場所をルートに選んでいない…なんていうニュースは聞いたことがあります。
いいところだけ見せて、なにが復興か?
なにが「復興五輪」なのか?
「俺たちは自然の力をなめていた。自然を支配したつもりでいた。慢心だ」
渡辺謙氏演じる、吉田昌郎福島第一原子力発電所所長の述懐にある言葉。
奇しくも、2014年に公開されたハリウッド版「ゴジラ」でも芹沢猪四郎博士役で出演していた渡辺氏のセリフに、同じような文言がありました。
「人間は自然を支配できるとうぬぼれているが…実際はその逆だ 」
今まさに、その東京オリンピックが、新型のウィルスによって開催が危ぶまれています。
これは、自然をなめていた、支配したつもりでいた人類へのしっぺ返しなのでは?というのは考えすぎでしょうか?
◇
ラストシーンで、渡辺氏とともにダブル主役を演じたもう一方の雄、佐藤浩市氏演じる伊崎利夫が見事な光景の中、つぶやく一言が胸に刺さります。
私もその光景を、一度は直に目にしたいと思いました。
映画は、事故のとりあえずの最大の危機を脱したところでラストを迎えますが、現実では、収束の見えない廃炉作業は続き、多くの名もなき英雄たちが日々命を懸けて闘ってます。
そのことを忘れないでいましょう。
今ある便利な生活は、人が命を懸けて築いたものでもあるということを知りましょう。
そう、9年前の今日は、人類が経験したこともない途方もなく長い闘いが始まった日。福島第一原子力発電所に津波が押し寄せた、東日本大震災が起きた日。