
(承前)
'70年のシーズンを、ポルシェの公認チームとして戦うことになったジョン・ワイヤー。
ポルシェからは、最新のワークスマシンとドライバーが派遣されますが、マシンの整備とチーム運営は全面的にJWAが担当、ワイヤーのスポンサーであるガルフ社も引き続きJWAの活動を支援することが決まりました。
ポルシェから派遣されたのはワークスのエースドライバー、ジョー・シフェールとブライアン・レッドマン。
これとは別にワイヤーが独自に雇ったのが、フォード時代から旧知のペドロ・ロドリゲスと、新人のレオ・キヌーネン*。
このナンバーツー・コンビには、スポンサーのガルフ社が報酬を支払っていたようです。
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本当は自ら発掘した秘蔵っ子ジャッキー・イクスを連れて行きたかったのですが、フェラーリに先手を取られ断念。実現していれば “ポルシェのイクス” をもっと早く見ることができたんですね。
ジョン・ワイヤーの最初の仕事は、ポルシェの旗艦、917の大改造でした。
ポルシェ初の12気筒モンスターはそのパワーを持て余し気味で、デビューシーズンの戦績はいまひとつ。
GT40で大排気量マシンを御す経験をすでに積んでいたJWAの技術陣は、ボディ形状に問題ありと見抜きます。
即席でリアカウルにアルミ板をタップ留めしてハネ上げ、ボディをクサビ形に近づけることによりダウンフォースを確保、高速安定性を劇的に改善させました。
このテスト結果を基に誕生したのが、ポルシェ917K (ショートテール) です。
空力的問題が解決された917は、前年までの暴れ馬とはうって変わり、'70年シーズン開幕戦デイトナ24時間でいきなりのワンツーフィニッシュ。
その後もJWAの二台の917Kは勝利を重ね、出走した選手権レース八戦で実に六勝、圧倒的な強さを見せつけました。
画像はル・マンのコースを走る、シフェール/レッドマン組 (20号車) とロドリゲス/キヌーネン組 (21号車)。
カラースキームは、フォード時代を踏襲していますネ (^ ^b
またシーズンを完璧なカタチでものにしたいポルシェは、ツイスティなコースには専用のコーナリングマシンを用意、タルガフローリオとニュルブルクリンク1000kmの二戦に投入しました。
ポルシェ908/03、前後オーバーハングを切り詰めたボディに、8気筒3リッターエンジンを搭載した小兵です。
画像は'70年タルガフローリオの出走前の様子。
矢印をモチーフとしたカラースキームが印象的です。
JWA三台のうち、シフェール/レッドマン組 (12号車) とキヌーネン/ロドリゲス組 (40号車) がワンツーフィニッシュを決めました。
'70年のシーズンを総括すると、選手権レース全十戦中JWAが七勝、うち三戦でワンツーフィニッシュ。
JWA組がリタイアしたニュルとル・マンは僚友チームのポルシェKGザルツブルクが勝利し、結局ポルシェが取りこぼしたのはシリーズ第二戦セブリング12時間のみ、という完勝に終わりました。
この年のポルシェ...特にワイヤー率いるJWAチームは、本当に強かったのです。
ポルシェは獲得ポイントでフェラーリを大きく引き離し、二年連続の国際メーカー選手権を獲得。
ワークス・ナンバーワンチームを託されたワイヤーも、ひとまず面目躍如といったところだったでしょう。
唯一、ル・マンの総合優勝という課題を残して。
...そう、JWAが勝てなかった数少ないレースのひとつが、ル・マン。
スティーブ・マックイーン主演の映画『
栄光のル・マン』の影響で “'70年ル・マンの勝者=ガルフ・ポルシェ” のイメージが強いですが、実際は出走したJWA勢は全車リタイア。
優勝請負人として期待されていたワイヤーは、忸怩たる思いだったはずです。
この時代、“ル・マンで勝つ” ことの意味は、現在とは比べ物にならないくらい大きかったのです。
ワイヤーの宿題は翌年に持ち越しとなります。
'71年シーズンはドライバーに一部変更があり、レッドマンとキヌーネンの代わりに、デレック・ベルとジャッキー・オリバーが加入。
それぞれシフェール、ロドリゲスとコンビを組みました。
メインマシンは引き続き二台の917Kと908/03。
前年の雪辱を期したル・マンには、専用仕様である二台の917LH (ロングテール) も投入されました。
画像の17号車はシフェール/ベル組のポルシェ917LH。
この車両はストライプ・レスで、ルーフがオレンジのカラースキームを採用しています。
これは、前年のル・マンにスポット参戦したショートテール22号車と同じデザイン。
映画では22号車が見事優勝したのですが...
シフェール組とロドリゲス組は、まさかの二年連続リタイア (>_<
JWA三番手として投入されていたアトウッド/ミューラー組の917K (19号車) が二位に食い込み、何とか面目を保ったものの、トップの座はマルティーニ・レーシングの白い917Kにさらわれてしまいました。
またしても総合優勝は僚友チームへ...
ポルシェ時代のジョン・ワイヤー、ル・マンにはよくよく縁がなかったようです (^ ^;
シーズンが終わってみれば、JWAは選手権十一戦中五戦で勝利し、そのうち三戦はワンツーフィニッシュ。
残り六戦のうち三戦はマルティーニの勝利で、前年に続きポルシェが国際メーカー選手権を獲得しました。
この間、チームの勝ち頭であったロドリゲスをアクシデントで失う**悲劇を乗り越えての、堂々たる、まさに横綱相撲の勝ちっぷりでした。
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ロドリゲスはシーズン終盤の1971年7月11日、プライベーターのフェラーリ512Mを駆ってノリスリンクで行われたインターセリエに出場、事故で還らぬ人となりました。
ガルフとポルシェの時代は、これにてお終い。
CSIのレギュレーション改定で917を使用できなくなったポルシェは、翌年の世界メーカー選手権争いから撤退、JWAとの委託契約も終了します。
ポルシェのレーシングカーが公式にガルフのカラースキームをまとったのは、実は'70~'71年の二シーズンだけだったんですね。
そしてシーズンオフには、ロドリゲスの後を追うように、ワークス・ポルシェを牽引してきたエースドライバーのシフェールも他界。
ひとつの大きな時代が終わった、感があります。
あまりに強く、あまりに儚く...わずかな時間の中で人々に鮮烈な記憶を残したチームでした。
左がシフェール (享年35歳)、右がロドリゲス (享年31歳)。
シフェールは1971年10月24日、BRMで出走したF1レース中の事故で、還らぬ人となりました。
同じチームながら強烈なライバル関係にあり、時にはサイド・バイ・サイドの激しいトップ争いを演じたふたり。
早すぎる死が悔やまれます。
その後のジョン・ワイヤーについてあと少しだけ。
ポルシェとの契約を終えたワイヤーは、次のシーズンから再びミラージュで耐久レースに参戦を開始します。
アストンマーチン時代からの片腕、ジョン・ホースマンと共に完成させたミラージュM6。
オープン二座のオリジナルボディに、フォード・コスワースDFV のF1用3リッターV8エンジンを搭載したスポーツプロトタイプ・マシン。
デレック・ベル、ジィズ・ヴァン・レネップ、マイク・ヘイルウッド、バーン・シュパンらを擁し、プライベーターとして世界メーカー選手権にエントリーしました。
チーム名は “ガルフ・リサーチ・レーシング・カンパニー”。
当初はフォーミュラカーのエンジンを耐久レース用に手懐けるのに苦労したものの、M6→GR7→GR8と熟成を重ねるにつれマシンの完成度はアップ。
'75年には、ついにチーム監督として通算四度目のル・マンの栄冠を勝ち取りました。
画像は'75年ル・マンの勝者、デレック・ベル/ジャッキー・イクス組のミラージュGR8。
このカラースキームのマシンは...そしてイクスはやっぱり強かった b(^-^;
この勝利を花道に、ワイヤーはチームとマシンの一切を
グランド・ツーリング・カーズ (GTC) に売却し、引退を決めます。
1950年代から二十年以上にわたってスポーツカー耐久レースの最前線にいた名伯楽は、静かに現場を去りました。
'70年代を共に駆け抜けたガルフのカラースキームも、しばしの間、表舞台から消えることになります...
つづく。