(前回の続きです)
<その他の建築物件について>
・久留米医大基礎学教室(1956. 現存せず)
https://minkara.carview.co.jp/userid/549571/blog/45597097/
にて紹介済みのため詳細は割愛いたします。
・母子寮(1953?1956-57? 現存せず)
写真引用先の資料によると、母子寮は今でいうシングルマザーとその子供の保養施設であり、元々瀬下町にあったものが火災に遭ったため昭和28年野中町(現在の文化センター共同ホールの地)に移転、昭和55年国分町に再移転するまで使用されたとのこと。ここに石橋正二郎は2回にわたり建・増築資金を寄贈したとされています。
写真の建物を菊竹氏がデザインしたかどうかは不明ですが、いわゆる「ローコスト住宅」やそのリフォームなどを手がけたという事なのかもしれません。
<追記>
どうやら、1957年に増築された建物が菊竹氏設計のようです。それが上掲の写真のものか否かは現時点では情報不足でわかりません・・・なお本建築については後年の、
SD誌にて紹介されているようですが現時点では入手/閲覧できておりません。
また母子寮自体は上述のようにBSと直接関連はない施設のようです。
さらに追記;1966年の「35周年 会社概況」に石橋文化センターの空撮写真がありました。黄色で囲った建物が、もしかしたら「それ」なのかもしれません。「五戸」という建物数も合致しているようですし・・・
・久留米商業高校講堂(1956年. 現存せず)
これも事務所に設計図が残っていたようです。
ちなみに久商は石橋正二郎の出身校で、この建物も正二郎の寄贈によるもの。
わたしは久商の沿革に疎く今まで知りませんでしたが、上に紹介したものと同じ書籍によると、久商は明治~昭和24年までは東櫛原に、次いで昭和24~47年まで「現 えーるピア久留米」のある諏訪野町に存在し(=本建築は同所に存在したもの)、47年に久商が現在地に移転の後は、
元 陸軍偕行社の建物を利用していた久留米市公民館が、久留米学園の同地への移転に伴い取り壊されたこともあり、
昭和48年~平成13年まで、元 久商の建物を利用する形で久留米市中央公民館として利用されていたのだそうです。国交省の空中写真でみると、少なくとも体育館は後年まで再利用されていたようですが、勿論現在では跡形もありません・・・・。なお、
https://cocomi.cotton-time.jp/features/40.html
によると、昭和46年建設の現在の久商の体育館も「正二郎氏を中心とした有志が建設・寄付したもの」なのだそうですが、菊竹建築とは無関係のようなので今回は割愛させて頂きます。
<写真追加&解説追記>
「25周年」と「30周年」を見比べると、両者とも同じ写真にもかかわらず、前者では「大」が講堂、「小」が武道場との説明ですが、後者では逆になっています。中央公民館に関する引用文献まで含め考えれば、「大」が講堂(兼 体育館)、「小」が武道場という事(=「25周年」の方が正しい)なのだろうと思います。
・石橋社長軽井沢別荘、およびBS軽井沢3人の家(年式不詳)
写真もなく詳細不明ではありますが、少なくとも前者については新築物件というよりリフォームの類と思われます(石橋正二郎は戦前より軽井沢に別荘を構え、とくに戦時中は軍の横槍を嫌って軽井沢に引きこもりがちであったという史実もあります)。後者については「30周年 会社概況」に掲載されていた「軽井沢山荘」というのが、正二郎自身の別荘にしては簡素な印象、かつ写真でみるに複数の建物からなるようであり、これに該当するように思われますが確証はありません・・・
・BS旭町商店街(城南マーケット ? or 生協マーケット?)
詳細不明にて菊竹建築との確証もないため写真のみ掲載しておきます。
追伸;上掲の生協マーケットは「社宅地区内マーケット=城南マーケット(現在は”グリーンフィールズ” として上屋は残存)」とは異なり、工場敷地内に存在していたもののようです。デザイン的に「生協マーケット」の方は旧軍 or 進駐軍のカマボコ兵舎の転用物件のような趣であり、まだ「城南マーケット」の方がモダンではありますが、前者が菊竹初期の「木造リフォーム物件」だと言われれば否定もできず、真偽のほどは不明です。
<未調査物件>
・U邸(1956-58):比較的珍しい苗字からすると、BSの幹部であった方の私邸でしょうか?
*2025年追記;
この作品集によりますと、U邸の建築主はやはり、当時BSの幹部であった方で間違いなさそうに思われます。屋根の形状などは後のスカイハウスや「京都信用金庫」の支店群を髣髴とさせますし、何より今更ながら気づいたのですが・・・
この作品紹介には「家具 井上猛」と(わざわざ)特筆されています。
んん? 「家具 井上猛」+「BS」といえば・・・・アッ!!!
(写真は https://response.jp/article/2023/10/08/375696.html よりキャプチャーしました)
プリンスの名車、スカイライン・スポーツや1900スプリントで有名な、あのお方ではありますまいか!!
本建築を印象付ける雨戸など、もしかしたら井上氏の手によるものかもしれませんね。しかもしかも、

この斎藤らの論文によれば、本作品は現存している可能性がありますし、もしそうであるとすれば、これはもう是非、藤森大先生あたりに探訪して頂きたいものです・・・
・水戸BSビル(1958)、東京・市ヶ谷にあったらしいBSセールスビル(1959)、BS埼玉エバーソフト(1960)などは、現時点で写真を確認できておりません。
*追記;市ヶ谷のBS社屋については、Google Map で検索すると、
数年前まで外堀通り沿い・新見附橋付近に存在していたようです。ただし写真の建物はどうみても1980年代以降のもの。普通ならここで諦めるところでしょうが、「市ヶ谷 昭和」をキーワードとして画像や動画を執念深く(苦笑)検索したところ・・・
https://www.youtube.com/watch?v=JDB4ZE-hIgs
この動画の2分55秒〜3分5秒あたりに、それらしい建物を見つけました!
この当時は、右側に縦書きで「ブリヂストン」、左上にBSマーク、真ん中にタイヤの広告が書いてあったようですね。別にどうということもない建築ではありますが、ひとつスッキリしました(笑)。
・その他、1958年に竣工した久留米保健所(かつて合川町に存在)も、菊竹建築であったようにどこかで聞いたような気がするのですが、ソースがはっきりせず確認がとれておりません。
*2025年追記:さきに紹介した
https://www.jstage.jst.go.jp/article/aija/88/804/88_707/_pdf
の論文によれば、
やはり旧・久留米保健所は菊竹建築で間違いなさそうです。
・K医大 看護婦宿舎というのは、わたしの大昔のうろ覚えな記憶では、〇で囲んだこの建物であったような気がするのですが、全く自信はありません・・・そのうちリサーチしてみます。
*2025年追記;どうにもしつこい性分ですので(苦笑)色々検索したところ、
このような書籍を発見・確認しました。やはりあの建物(写真⑬)が当時の看護婦宿舎であり、後年になり(看護学生寮として増築されていた)屋上(4階)部分の木造プレハブを撤去、看護婦宿舎としての機能は隣に建設された(写真⑭)建物に移され、建物全体を看護学生寮に転用された後、1990年代のはじめに取り壊されたようです。
さらに言えば、この建物全体が「菊竹デザイン」であるとは到底思いがたく(当時のうろ覚えですが、とても古典的なデザインであったような記憶があります)、「菊竹デザイン」はむしろこの・・・
建物全体のデザインとはかなり異質な、4階の木造プレハブ部分(のみ)ではなかったかとも思われます。初期の菊竹ワークスはBS関連の木造・リフォーム物件が中心であったことは有名ですし、石橋正二郎は当時のK大学理事長でもありましたので、話の整合性は十分ありそうですが、いかがでしょうか・・・
さらに追記;さきに紹介した、
https://www.jstage.jst.go.jp/article/aija/88/804/88_707/_pdf
の論文によれば、

わたしの推測は間違っていなかったようです♪。
・その他K市内の物件では、H内科医院、K邸などが詳細不明のままです。前者については当時の建築雑誌に掲載されていたようですので、そのうち発掘できれば・・・と考えております。
*2025年追記;
この作品集によれば、久留米市内に建てられた菊竹氏の個人向け住宅というのは(おそらくご親族のための)赤枠の物件のみのようであり、「K邸」とはこれを指しているものと思われます。かなり後年の作品だけに、ひょっとしたら現存の可能性もあるかもしれません。そのうちリサーチしてみようと思います。
<追記>
BS関連ではありませんが、1960年代の菊竹建築の名作・代表作の1つともいえるT寺納骨堂。物件が物件なのでかなりの画像処理をしたため見にくい写真で恐縮ですが、現状はかなり老朽化が進行しており、またほぼ一般非公開のようです(写真は敷地外より撮影)。市が助成金を出してでも補修・保存する価値のある建築だと個人的には思っておりますが、色々難しいのかもしれません・・・
<2024年追記>
この「BSタイヤゴルフクラブ」、おそらくは鳥栖の現・ブリヂストンカンツリー倶楽部」を指しているものと思われますが、
1957年完成の初代クラブハウスなのか・・・


1965年竣工の2代目なのか、私には分かりません。時期&デザインテイスト的には初代の方が菊竹建築、2代目は他社のように思われますが・・・
<推察>「もしかしたら・・・」な物件について
1967年、石橋正二郎の寄贈により竣工したK大学医学図書館(氏は当時の大学理事長でもあったそうです)。昭和38年に氏がBS会長職となり、社長の座を息子の幹一郎氏に譲って以降、菊竹-BSのつながりは急速になくなっていきます(その理由は色々と考えられますが「下衆の勘繰り」となりそうですのでここでは省略)が、正二郎氏個人の寄贈によるこの建物は、
・柱による垂直性の強調
・張り出された談話室
・段差や階段による高低感の表現
などの点が、当時の館林市庁舎や(菊竹事務所出身の建築家による)北九州ユースホステルなどとの関連を(個人的な印象ですが)感じられ、また、
・一方で、1階部分のレンガ風タイル張りにより「正二郎好み」をさりげなく取り入れるなどした「手練れ」さ
・当時は、菊竹建築である上述の基礎学教室と渡り廊下でつながっていたこと
などとあわせると、これが菊竹建築である可能性はないでしょうか・・・
専門の方にご調査・ご教唆頂けると幸いですm(_ _)m 。
<追記> 同時代の建築物に、
というものがあり、なんとなく雰囲気は似ています。この設計者は丹下研出身、当時KS大学工学部建築学科の助教授だった方とのことで、F県の大学つながりという事も含め、もしかしたらこの方の設計かもしれませんし、菊竹スクールの若手のどなたか、あるいは単純に企業系(例;松田平田など)によるものかもしれません。もう少し調査してみたいと思います・・・
<結語>
以上、BS・石橋家・K市関連の初期の菊竹建築について私見を添えてまとめてみました。
これらの建築物の中には、石橋文化センター美術館や国立青年会館、殿ヶ谷アパートに代表される、作家性を表現したもの=「表・菊竹建築」も若干数存在するものの、千栄禅寺や久留米教育会館などに代表されるように、石橋正二郎/BSの意向に沿って己のカラーを消した建築=「裏・菊竹建築」が大半を占めます。このような建築物件を数多くこなしていくことについては当時の菊竹氏自身、
といった葛藤もあったようですが、しかしながらそれら多数の物件をこなしていくことにより、氏のスキルアップ(と安定した収入・生活)につながり、氏が世界的建築家に飛躍する一助となったのかもしれない・・・と考えると、それもまた興味深いものがあります(終)。
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Posted at
2023/04/08 08:28:32