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2023年04月24日 イイね!

BSにまつわるエトセトラ その⑥ : BS創立25年行事は、K市の一大ページェントであった



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 BSのマザープラントである久留米工場。その正門を入って左手に(勿論、部外者は立ち入りできませんので正門ごしに眺めるだけではありますが)、やや古びた、今となってはそれほど大きいとも立派ともいえないホールがあります。


 そしてその壁面には、これも大分傷んでおりますが・・・・


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 「25th ANNIVERSARY MEMORIAL HALL」の文字が。

 ・・・・そう。ここは今を遡ること67年前の1956年、本日4月24日からの数日間、BSとK市にとって忘れられない、否、忘れてはならない、一大ページェントの幕開けの地でありました。
 (以下、本稿の白黒掲載写真の大部分は既述の「25周年記念誌」および「30周年 会社概況」より引用させて頂きました。例によって関係者より問題とのご指摘があれば画像削除、もしくは公開先限定に変更させて頂きます)




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 (「ブリヂストンタイヤ五十年史」より)

 そのたった3年前、1953年の大洪水で工場・社宅をはじめ甚大な被害を被ったばかりでしたが、同社のHP;
 https://www.bridgestone.co.jp/corporate/history/story/04_02.html
にもある通り、石橋正二郎はそれを契機に・・・


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木造の社宅や寮を高層のコンクリート建築に改築、また周辺道路の整備に加え、幼稚園、BS会館やクラブ、記念ホールや体育センター等を配する整然とした一大コミュニティーを再構築するのみならず、


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市内各施設への建物やプール等の寄贈、


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そして欧米視察で感じた「あちらは地方都市でも都市計画が行き届いており、文化水準においても、大都市と小都市との差が少ないから、田舎の小都市でも落ち着いて住みよいであろうと感じたのである・・・人間は生活環境の良いことによって幸福を感ずるものである」との理念のもと、K市を文化水準の高い都市とすべく文化センターの建設プランを自身で構想、それを会社の創業25周年のタイミングで落成させ、全国から要人・関係者を招いて記念行事を行うという、稀代の企画・実行能力を発揮することになります。




① 4月24日(火曜日)

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「4月24日の社内式典には約3千名の従業員が出席し、久留米工場内に新設された記念ホールで行われました。式典終了後には、石橋社長はじめ従業員は、25周年を機に編成されたブラスバンドを先頭に4キロの道のりを石橋文化センターまで行進、到着後「BS25」の人文字をプールスタンドに描き出しました。」(上記HPより)


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 またその日の夕方には、翌日の記念式典のためはるばる来日した(当時はジェット旅客機などほぼ存在せず、APLなどによる船旅が主流 or 現代とは比較にならないほどの事故率のリスクを負いつつ時間をかけてプロペラ機で来日するか、のいずれかでした)グッドイヤー代表団を水明荘に招いての歓迎パーティーも開催されたとのことです。




② 4月25日(水曜日)



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 「翌25日の記念式典には、全国より来賓を記念ホールにお迎えしました」と上述のHPには簡潔に記載されていますが、通産大臣やメインバンクの頭取、取引企業の役員、さらには上記のごとくアメリカからグッドイヤー副社長まで招いてという、きわめて壮大なイベントでした。
 しつこいようですが、当時は航空機での移動はおろかブルートレインすらない時代、東京からK市までの国内移動ですら、現代とは比較にならないくらい大変だった事でしょうからね・・・


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 その後は翌日開園予定の文化センターの関係者視察も行われたそうです。




③ 4月26日(木曜日)

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 さらに26日、こんどは秩父宮妃殿下(!)までお招きしての、石橋文化センター開園記念行事が行われます。石橋美術館の開館(九州では別府、鹿児島に次ぎ3番目の地方美術館であったそうです)、プール開きや体育館、テニスコートなどの開場など、大賑わいであった様子がうかがわれます。



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 なお妃殿下はこの後、BS久留米工場を御視察になられ、次いで戦前にご滞在された櫛原の旧石橋邸や、水明荘での歓迎式典にご臨席されたとの事です。




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④ さらに2日あけて4月29日(日曜日)。この日はBSスポーツセンターが開設され、石橋正二郎みずからも参加、従業員とのひと時を和気あいあいと楽しまれたようです。




 それにしても・・・・日本足袋以来の歴史を有するとはいえ、BSとしての歴史は「たかだか」創業25周年。その会社の創業記念式典のイベントに、大臣やら米国大メーカーの幹部やら、果ては皇族までをお招きし、また従業員・市民が一丸となってそれを祝福するという事は、いかに石橋正二郎の企画立案能力と人脈、人徳のスケールが桁外れなものであったかと、今さらながらにして思います。



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(以下、石橋幹一郎氏の追悼集「思い出」より抜粋)

 そして幹一郎氏いわく、この25周年記念イベントの開催が(戦後の労働争議や大量解雇などの影響もあり、いまひとつまとまりがないと感じられていた)社内の融和団結につながり、その後の、

https://www.bridgestone.co.jp/corporate/history/story/04_03.html

久留米工場から東京工場への800人もの配置転換やデミング賞受賞なども含め、以後の会社の発展に大きく寄与したのでありましょう。




 あれから67年・・・(今は他所に居住しておりますが)わが故郷K市も、またBSも、なにかいまひとつ斬新さに乏しく活気のないように見うけられるのが気がかりではあります。前者については今回割愛しますが、BSの経営陣についてはぜひ、創業者のことばである、


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をよく熟考頂いて、安易なリストラやこれ以上の事業売却にはしらず、従業員重視と高い目標設定をもった社内の団結をはかり、また幹一郎氏のことばである、


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をもって、「若さ」と「スピード」を重視した経営刷新に取り組まれますよう、さらには従業員の方々におかれましても、


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の精神で業績向上をめざして頂くよう、祈念してやみません。


 少々辛口のまとめとなってしまいましたが、私自身BSをささやかながら応援すべく、近日中にBS製タイヤを購入させて頂こうと思っております。





 追記;「25周年」のなごりを今に残すものは、かの文化センターやBS通りだけではありません。


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「BSガーデン」の建物も当時のままのようですし、


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 1954年に建設された、かつてのBS会館。その建物を流用・改装したこちらのパン屋さん、大変素敵で美味です! そして・・・





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 何よりこの25周年記念ホール、おそらくは高名なブリヂストン吹奏楽団久留米の練習場として使用されているのではないかと思いますけれども、本当に残して頂きたい建物です。

 何故ならここは、「故郷に錦を飾る」べくこの25周年記念行事にかけた石橋正二郎の熱意とよろこび、それに応えた従業員の団結のしるし、そしてK市民の祝福と歓喜を今に伝える歴史的建造物であるとともに、




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旧陸軍飛行場(どこかまでは分かりませんが、大刀洗、菊池、健軍あたりでしょうか)の格納庫の再利用物件=広義の戦争遺跡でもあり、また今は無き石橋文化センター体育館の「姉妹」でもあるからなのです・・・

Posted at 2023/04/24 06:40:42 | BS関係 | 日記
2023年04月23日 イイね!

BSにまつわるエトセトラ その⑤;1970年代のBS RDシリーズについて(後編)





 前回の拙ブログの後いろいろ調査を試み、1975~79年頃のBSラジアルタイヤの動向がおおよそ理解できたように思われますので筆を進めていきます。ただしまだ未調査の部分もあり、今後とも随時追記させて頂く予定です。



 <1975~76年のうごき>
 この時期は、①1975年初頭、RD-105に扁平率82%のタイプも併売開始 ②同年7月、前述のRD-108発売 ③同年10月頃、70スチールラジアル「RD-106」発売 ④1976年2月、RD-108をベースとするセルフシーリングタイヤ「マクシール(MAXEAL)」発売(当初は155SR12、165SR13の2種類からスタート~逐次拡大) ⑤同年5月頃にはマクシールに扁平率70%タイプ「RD-109」も発売、といった商品展開がみられました。


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( 1975年2月のカタログより引用)

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 https://shashi.shibusawa.or.jp/details_nenpyo.php?sid=4095&query=&class=&d=all&page=37 より引用)


 このうち ①②のRD-105、RD-108については「前編」で解説したので詳細は割愛させて頂きます。


 <追記&写真追加>

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 (CG 1977-4号より引用)
 
 82タイプのRD-105については、当時のファミリアのテスト記事を見つけました。割と平凡・中庸な性格のタイヤであった模様です。




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 (CG 1975-12号より引用)

 ③の「RD-106」については、1975年10月頃発売=RD-108より後発商品でありトレッドパターンもRD-108に類似していますが、番号はなぜか若番です。
 材質やトレッドパターンはRD-108等の「新世代」、ただし構造面(2プライ?)などはまだ旧世代、といった過渡期的商品なのかもしれません。あくまで憶測ですが・・・
 ともあれこのRD-106、RD-100シリーズ=スタンダードラジアルの系譜として当時、複数の国産車の標準装着タイヤとなったようですが、


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 (CG 1976-2号より引用)

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 (CG 1977-4号より引用)


 コスモやローレル2800といった重量級・新世代の足回りをもつツーリングカーとの相性はなかなか良かったようです。


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 (CG 1976-8号より引用)

 ただしΣのようなミドルクラス4ドアセダンとのマッチングは、やはりトレッド面の硬さが災いして今いちであったように思われます。



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 (当時の広告記事より引用)


 また先発の70スチールラジアルであるRD-202との価格差もほとんどなかったようで、いまひとつRD-202との「棲み分け」がはっきりしないように思われ、BSの70スチールラジアルはまだまだ試行錯誤の状態であったものと窺われます。



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 (https://shashi.shibusawa.or.jp/details_nenpyo.php?sid=4095&query=&class=&d=all&page=38 より引用)

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 (CG 1976-5号より引用)


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 (CG 1976-7号より引用)


 ④のパンクシーリングタイヤ「マクシール」については、まず1976年2月に82タイプが先発(トレッドパターンはRD-108と同一との事で、シール材の塗布以外の技術的特徴は同様のものであったと思われます)→ 数か月後に70タイプが後発(こちらは「RD-109」の新番号が付与され、トレッドパターンもRD-106 他の既存タイヤと全く異なっており、これもまた、BSが70スチールラジアルの技術的確立のため様々な試みを行っていた証拠といえるかもしれません)されました。



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 ただし、パンクシーリングタイヤ自体はBFグッドリッチのパテントらしく、また国内販売も「またしても」ヨコハマに先行され(ヨコハマは戦前から1981年までグッドリッチと業務提携関係にあり、その流れで導入が先行したものでしょう。なおヨコハマ「シーレックス」の発売は1975年5月頃)、その後を追いかける展開となり、その後、



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 (CG 1976-8号より引用) 

  

 CMその他の広告展開も行われますが、
   https://www.bridgestone.co.jp/corporate/history/story/06_03.html
にもある通り「予想に反して販売が大きく伸びることはなく、『MAXEAL』の生産は2商品のみで終了することとなりました」(1980年のカタログには未掲載であり、1979年頃終売となった模様)。



 <1977~79年のうごき>
 この時期の新規商品は、①またまた新規70スチールラジアルの「ドリーバード(DOLLY BIRD)」(まだ正確な調査が済んではおりませんがおそらく1976-77年発売) ②そして1978年11月、有名な「スーパーフィラー」構造の新商品「RD-207」の誕生~ラインナップの拡充 ③1979年の「ポテンザRE-47」となりますが、③については今回割愛させて頂きます。



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 (*当初掲載写真とさしかえ。19774月の総合カタログより)


 ①については1976年前半までの資料には出現せず、1977年4月のカタログ掲載の時点で順次販売サイズを拡大中のようであり、おそらく1977年初めの発売で間違いないでしょう また1977年のCG誌をチェックしても新商品紹介記事が見当たらないため、現時点では1976年後半の販売開始と推測しております。デザインについては、これまた今までにない「バードウイング型」トレッドパターンであり、ホワイトレター(後にブラックタイヤも併売)も含め高級志向・静粛性や乗り心地志向のタイヤのようで、後年の「レグノ」の前身のような位置づけのタイヤと思われます。ただし前述のようにBSが70スチールラジアルタイヤの技術を「モノにする」過渡期にあるタイヤであり、メーカー自身あまり多くの拡販広告を行わなかった事もあってか、それほど大きな評判を得ることはなかった模様です・・・



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 そして②=1978年11月にデビューしたRD-207。これが「70」スチールラジアルであった事、宣伝文句が「あのラジアルが乗り心地までものにした。」である事からも分かる通り、「(BSの)70スチールラジアルは硬く重く乗り心地が悪い」「ウエットグリップも今いち」といった評価に対するブレイクスルーを目指し、そしてそれにかなりの成功を収めた記念碑的タイヤであると言えますでしょう。

 スーパーフィラーラジアルの当時談については、みんカラでも徳小寺 無恒さまが、
 https://minkara.carview.co.jp/userid/124785/blog/8825524/
で既におまとめになっておられますが、






 当時BSは大規模な広告宣伝活動を行い商品アピールに努めました。


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 そういえばわたしも自分のBS・モンテカルロ自転車に、当時こんなマッドフラップを付けていましたね・・・



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 (https://shashi.shibusawa.or.jp/details_nenpyo.php?sid=4095&query=&class=&d=all&page=42 より引用)



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 (1980年1月総合カタログより引用)

 
 SFシリーズについてはその後、82テキスタイルラジアルの「RD-115」(発売時期未調査)→ 「アクアコンパウンド」による、さらなるウエットグリップ向上をはかった82スチールラジアルの「RD-208」(1979年4月発売)→ アクアコンパウンド技術を70スチールラジアルにも導入した「RD-209」(1980年初頭発売)、と続いていくこととなります。またトレッドパターンについても徐々に、1980年代的・直線的なパターンが出現しはじめている点にご注目下さい。


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 一方で、それと引き換えにRD-202/203やマクシールといった先行スチールラジアル群は、より先発のRD-201やRD-102 WIDE70 より早く終売(カタログ落ち)となった模様です。次いでRD-105などもおそらく、そう日をおかずドロップしたものと思われます。
 なおRD-201やRD-102 WIDE70 がその後もしばらく生き残ったのは、減価償却の終わった廉価版としての価格面でのメリットや、チューブタイヤ対応の絡みもあったものでしょう。



 以上、1970年代のBS RDシリーズ 乗用車用一般ラジアルタイヤについてまとめてみました。1970年代のBSラジアルタイヤは、テキスタイル→スチールへの流れもあってかなり試行錯誤のあとがみられ、特に乗り心地やウエットグリップの改善には苦労した模様であること、また商品開発的に先行するヨコハマに追いつき・追いこすための努力に傾注していたこと、その中でもRD-108と「スーパーフィラー」シリーズは、その後に繋がる大きなブレイクスルーであったものと考えられました。


 ・・・どなたかお暇な方、1980年代のBSラジアルタイヤについて続きをまとめてみませんか?(笑)。ではでは。


Posted at 2023/04/26 19:35:50 | BS関係 | 日記
2023年04月20日 イイね!

BSにまつわるエトセトラ その⑤;1970年代のBS RDシリーズについて(前編)


*この記事は、過去記事;
 https://minkara.carview.co.jp/userid/549571/blog/22655378/
 の続編となろうかと思います。



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 1970年代の国産ラジアルタイヤの進化は主に、①70タイヤの出現 ②スチールラジアルの普及、の2点が主だといってよいかと思います。そして70年代末に、③アドバン、ポテンザ等のスポーツタイヤ登場(*アスペック、レグノ等のコンフォートタイヤの展開は1980年以降) ④スーパーフィラー等の新技術の展開、などがみられ1980年代へと繋がっていく訳ですが、ここはRDシリーズの話ですので③は割愛いたします。




<1971-72年のうごき>

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 (「ブリヂストンタイヤ五十年史」より)

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 https://shashi.shibusawa.or.jp/details_nenpyo.php?sid=4095&query=&class=&d=all&page=32
に記載されているように、1971年は ①1月に輸出用スチールラジアルタイヤとして「RD-170V」発売(1972年に国内販売開始。詳細後述) ②3月に「RD-101」「RD-201」「RD-301」を同時発売 ③7月に初の70シリーズラジアルタイヤ「RD-102 WIDE70」発売という、かなり目まぐるしい展開でした。


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 RD-170Vについては主に欧米市場で、ミシュラン等のスチールラジアルがその走行性能、耐摩耗性、耐パンク性などの利点から支持が広まってきたため、これに対応したものと思われます。特に当時のミシュランはZXやXAS〜XZXやXWXといった、今でもクラシックタイヤ界での流通が続く名作を次々と世に問い、一頭地を抜く勢いでしたからね・・・



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 RD-101とRD-201はどちらも扁平率82% のテキスタイルラジアルであり、なぜ作り分けを行ったのか現時点では調査不足でよく分りませんが、おそらくRD-101はチューブ対応製品と思われ、急速に進行したチューブレス化の波の中で比較的短命に終わった(1973年には終売か。1974年カタログには記載なし)ようです。



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 (画像は過去オク画像より拝借)

 なおRD-301はスノータイヤのようですので今回は割愛いたします。


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 (画像は1980年のタイヤカタログより)

 一方でRD-201は「ボクシンググリップ」と呼称される独特なトレッドパターンで有名であり、1970年代を通じBSラジアルタイヤのボトムレンジ商品として長期にわたり販売されることになります。以前のRD-10/11の欠点として「耐摩耗性」「ウエットグリップ」「硬い乗り心地」等がCGテストなどでは挙げられており、RD-101/201のブロックタイプのトレッドパターンは、おそらくウエットグリップなどの向上を狙ったものでしょう。



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 また以前の拙ブログに記した通り、ヨコハマは1969年、国産初の扁平率70 %タイヤである「G.T. スペシャル スーパーモデル70」を発売して好評を博し、BSはしばらくその後塵を拝していましたが、BSも2年近く遅れながら1971年7月に「RD-102 WIDE70」を発売、70タイヤ市場に参戦しました。

 ただしこのタイヤが「謎」であるのは、BS初の70タイヤ=(たぶん)高級タイヤとしての位置づけ、であるにもかかわらず、RD-200番台ではなく100番台なことです。
 当時のBSラジアルタイヤの番号付けは素人目によくわからないのですが、ざっくりした印象では「100番台=普及型、200番台=高級型」のようにみえますし、「ではRD-101の発展形・70バージョンとしてRD-102があるのかな?」と思いトレッドパターンを見ても、

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 全然違うパターンです・・・
 なんだかよく分かりませんが、ともあれこの「RD-102 WIDE70」、市場でも、また新車装着タイヤとしても一定の評価を得(例えば、当時セリカ1600GTV等に新車装着タイヤとして採用されているようです)、BSはヨコハマに追いついたように思われました・・・


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 追記;それでもまだまだ、とくにウエットグリップなどは十分な性能ではなかったようです(写真はCG 1976-1号、レオーネRXのテスト記事より)。




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 しかしながら敵もさるもの。ヨコハマは1972年6月頃に、国内メーカー初の一般乗用車用スチールラジアルチューブレスタイヤ「G.T.スペシャル・スチール」を市販、動的性能の高さや耐摩耗性、耐パンク性能の高さなどを謳い人気を得ることになります。
 その後のアドバンやアスペックを含め、少なくとも1980年代初めまではヨコハマが国産ラジアルタイヤの主導的地位であったといえるでしょう。



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 そこでBSは新型スチールラジアルタイヤの開発を加速させるとともに、ひとまず前述の輸出用スチールラジアルタイヤ「RD-170V」を急遽9月頃に国内販売開始し、当面これに対抗することになります。

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 (「ブリヂストンタイヤ五十年史」より引用)

 当時のBSの「日本国内には乗り心地その他からテキスタイルラジアルの方が向いている」との市場判断、および「170V」という飛び番号からしても、当初このタイヤを国内投入する予定はなかったものでしょう。
 ただしトレッドパターンなどからみてもやや古い設計年次のタイヤであり、当時スチールラジアルタイヤを好んだような若者・スポーティ派への訴求力はあまり高くなかったものと思われます(1976年頃終売)。





 2024年追記;たまたま読んだ1972年のCG誌で、240Zの標準装着タイヤとして「RD-150」という銘柄が存在することを知り検索したらeBayに出品あり。トレッドパターンは先に紹介したどのタイヤとも異なっています。まだまだ知らない事だらけですね・・・




<1973-74年のうごき>
 ここでは、①新型70・テキスタイルラジアルである「RD-105 WIDE70」の発売(73年初頭)、および前述のRD-170V の国内投入により当面の状況をしのぎつつ、②待望の新型スチールラジアルタイヤである「RD-202 STEEL WIDE70」(70タイプ。1973年後半発売)、および「RD-203 STEEL」(82タイプ。1974年初頭発売)をセールス、といううごきがみられました。


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 ①については当時のCG誌の製品紹介、およびカタログによると「リブ・パターンの採用によるロードノイズ低減」「サイプを数多く入れウェット時のブレーキ性能向上」「耐摩耗性の向上(RD-201比10~20%アップ)」等が謳われておりますが、裏を返せば既存製品においてロードノイズやウエットグリップ、耐摩耗性に対する満足度がまだ十分でなかったことが窺われます。なおRD-105はのちに扁平率82%のタイプも併売され、1980年頃終売となったようです。




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 そしてBSファン待望の②の発売。ちなみにこの「RD-202 STEEL WIDE70」というのが・・・



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 先日「何シテル?」に投稿したクイズの答えでございます(笑)。
 ♡ を連ねたようなトレッドパターンが特徴的ですね。


<追記&画像追加>




 この新商品紹介号と手持ちカタログから推測すると、RD-202は1973年7-8月頃、RD-203は1974年2月頃の発売であったと思われます。



 いずれにせよ、ようやくここで他社のスチールラジアルタイヤと同等の商品を提供できるようになり、懸案であった動的性能や耐摩耗性の改善を得られた・・・と思われたBSでしたが、スチールラジアルには別の欠点がありました。

 それが「重くて硬く、乗り心地がハードである」との評判です。特にあの当時、国産スポーティーカーに後付けラジアルタイヤを履かせるような御仁は、



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「スチールホイールより重いんじゃね?」といった、ごっつい社外アルミとの組み合わせが多かったですし、国産車の足回りも多くが固定軸やら板バネ、ラジアルタイヤに適合したコンプライアンスも取られていないサス設計で、ボディ剛性も低く、ダンパーも低性能・製造公差大、さらに道路舗装状況も今ほど良くない、といった時代なだけに、ドタドタガタガタな乗り味に不満が多かったものと予想されます。ここみんカラでも、

https://minkara.carview.co.jp/userid/1993078/car/1499826/profile.aspx

といった回顧談が検索されました。


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 追記;RD-203 についてはCG 1975-5号、GTOのテスト車に履いていた記事を見つけました。こちらも初期のスチールラジアル+基本が1970年登場の車という、スチールラジアルの装着を前提としていないサスセッティングの相乗効果によってか、相当に硬い乗り味であった模様です。





 さらに追記;当時の雑誌広告をみると、BSじしん・・・





 スチールラジアルは「NVHを若干犠牲にして」「耐摩耗性・耐パンク性」を主に追及したタイヤであり、また(世間で思われているほどの差はないけれども)テキスタイルラジアルよりはやや重い(=バネ下重量の増加によるドタドタした乗り心地になりやすい)ですよ、と正直に解説はしており、他社との競合の絡みもあって新商品を発売したものの、この欠点に関する問題意識は早期からもっていたことが窺われます。




<1975年;RD-108の誕生(7月)>

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 上記の不満の多くを軽量構造により改善させ、非常に長い生命を保った傑作タイヤ「RD-108 STEEL」についてはBS自身による解説;

https://www.bridgestone.co.jp/corporate/history/story/06_02.html

をご参照下さい。本当に、あの当時の国産車の多くに標準装着タイヤとして履かせてありましたね・・・



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 ただし一方で70スチールラジアルについては1975~77年頃の短期間に、
・RD-106
・ドリーバード(RD-205?)
・そして「黄色いゴムがタイヤを変えた」として宣伝されるも、あまり売れずに数年間で終売となったマクシール

といった複数の製品が登場、既存のRD-202と併売されるなど、やや混沌とした状況が見うけられますが、これらについてはまだ発売年次や性格づけなどに関する調査が進んでいないので、ここらで話を一旦打ち切り、後日「後編」として発表させて頂きます m(_ _)m 。


Posted at 2023/04/20 20:13:00 | BS関係 | 日記
2023年04月15日 イイね!

石橋幹一郎氏を偲んで;大正浪漫と海軍と戦争と


 (皆様、くれぐれも「イイね」付けはなさらぬようお願い申し上げます)



 しごく当たり前の話ですが、わたしは生前の石橋幹一郎氏との面識など、あろう筈もありません。
 しかしながらBSのホームタウンであるK市で生まれ育ち、親戚にもかつてのBS関係者を有し、またはじめて定期購読したCG誌であった1984-7号に、




氏のインタビュー記事が掲載され興味深く拝読した事などもあり、以前より氏のことは気になる存在でした。

 とはいえ当時は10代~20代の若造の事、氏の様々な企業・社会活動については「創業者一家の2代目として堅実に事業を発展させたけれども、あまり目立つことを好まれない地道な経営者」という印象であり、1997年の氏のご逝去後はそのお名前を耳にする事も少なくなっていったように思われます。著書・伝記の類も殆どありませんし・・・







 しかしながら、既述のように先日この本を大変面白く読了した事で、わたしは(既に歴史的大人物として揺るぎない評価と情報量を有する)石橋正二郎よりむしろ、幹一郎氏のことをもっとよく知りたいと思いました。
 とくに本書には書かれていない部分、すなわち大正生まれの氏が避けては通れなかった先の戦争との関わりに、氏の戦後の生き方・あり方を規定するものがあるのではないかと想像して・・・





 そこで氏に関する書物を調べたところ、某所にてこの追悼集を見つけ、一気に読了いたしました。



 ・・・ざっくりまとめますと、氏は「育ちの良さ」「もって生まれた多方面の才能(学力のみならず文芸・音楽・写真・美術など)」「大正生まれの上流階級の方が体現する、モダンで自由でロマンティックな感性」を有しながらも、戦前・戦中の重苦しい時代の中、「昔風の宿命を背負うて」「お国のために命を捨てる覚悟で」東大卒業後に海軍経理学校(「短現」)~海軍へと進み、戦後は父親の事業の後継者、戦後の郷里や日本の復興をめざす者としての責務・使命を全うしつつ、海軍の仲間との厚誼や、戦没者への鎮魂の思いを終生絶やす事がなかった、といえますでしょう。

 そしてあの時代を生きた方々に特有の「多くの仲間が死に、自分はこうして生き残ってしまっている」事に対するある種の羞恥心と「それを体験していない若い人々には、畢竟、そのことについて伝えるのは不可能であろう」との諦観からか、みずからの戦争体験を若い世代に広言するようなふるまいについては抑制的であったものと想像されます。




 さかしらな分析はこのくらいにして・・・わたしが齢をとったせいでしょうか、故人となって四半世紀にもなろうという方、全く面識のない方でありますのに、とくに「素顔」にみられる、学生時代のクラスメートや海軍における「同期の桜」の方々、お世話係の方々、そしてご家族の方々などによる追悼の文章に、何度となく涙腺が緩まざるを得ませんでした。

 わたしごときが書中の文章を勝手に引用するなど、誠にもって不敬の至りであるとは重々承知しておりますが・・・・



















 しかしながら氏の、戦争体験について語った文章、そして経理学校同期の方による追悼の辞について計3編、これだけはどうしても、限られた人々の間でこのまま埋もれさせてしまうには誠に忍びないと考え、この場に紹介させて頂くこと、関係者の方におかれましてはどうぞお目こぼし願いますとともに、カネと欲に明け暮れるわれわれ現代人が忘れ去ってしまった、人間の「生」と「価値」、そして「戦争」について、わたしも終生考え続けていきたいと思っております。



 「散る桜、残る桜も 散る桜」 か・・・


Posted at 2023/04/15 12:17:34 | BS関係 | 日記
2023年04月13日 イイね!

BSにまつわるエトセトラ その④;S小学校 石橋記念講堂(現存せず)について



 菊竹建築にいったん話を戻します・・・

 わたしが以前より気になっていた、今は無きK市内の菊竹建築、それが先日の拙ブログ;
 https://minkara.carview.co.jp/userid/549571/blog/46863548/

でも簡単に紹介した、
 
 
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 この建物です。

 石橋正二郎は創立150年以上を誇る同校の卒業生であり、1959年にこの講堂を新築寄贈したとのこと。この写真をみる限り、本建築の完成式典には正二郎その人も参加していたようにも見えます。

 建物の詳細写真については、

 https://gengo-matsui.musalab.co.jp/pdf/works004.pdf

にも掲載されていますが、菊竹清訓氏設計、松井源吾氏構造解析、施工工務店も大手ゼネコン等ではないものの大正時代創業で現在も存在する老舗であり、決して安普請の建物であったようには到底思えません。しかしながら・・・
によると、1990年には築31年で早くも取り壊されてしまったようです。


 ところで、一体この建物が小学校のどこにあったのか、例によって国交省の空中写真を交えて検索してみると、

alt
 (写真上;現在のgoogle map. 写真下;国交省空中写真1981)

 どうも写真矢印部のところであったもよう。現在、かつて講堂やプールが存在した場所にプールは90°向きを変えて作り直され、また更衣室などが建てられているようです。


 ・・・それにしても、母校の名士・歴史的偉人たる石橋正二郎が寄贈し、同じく地元出身の世界的建築家である菊竹清訓が設計したこの講堂、わたしが当時の校長やら教育委員会なら、たかだか30年ほどで跡形もなく取り壊すなんて「畏れ多くて」とてもできませんが、一体なにがそうさせたのでしょうか? 上記リンク先にはただ「老朽化」とありますが、特殊な構造ゆえの雨漏りの問題でもあったのか? 体育館兼用として使うにはサイズやつくりの問題で使い勝手が悪かったのか?  下衆の勘繰りは尽きません・・・

 おそらく当時の関係者も幹一郎氏に事前に「お伺い」くらいはたて、幹一郎氏は聖人君子(かつ多分、菊竹氏への思い入れもあまりない)な方ですので「古くなって使い勝手が悪いのであれば、どうぞ建て直して頂いて構いません」とでも仰られたのであろうと勝手に推測しますけれども、後世の者からみるといかにも「勿体ない!」と感じてしまいます・・・


 知人・遠戚に同校の卒業生がおりますので、そのうち当時の話など聞いてみたいと思います。ではでは。


Posted at 2023/04/12 19:00:47 | BS関係 | 日記

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