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2011年12月12日 イイね!

Fashoda incident

この事件は1898年におこる。

ひとまず内容はおいて、周辺の状況から見る。1914年には第一次世界大戦がはじまる。戦争を予見した各国は、原料資材の供給地域としてこぞってアフリカを侵略した。その中で一歩抜きんでていたのは大英帝国である。200年以上も早く産業革命を成し遂げていたイギリスは、もはやアフリカを奴隷供給地と見る必要はなく、アフリカは産業革命のための原料を供給するために存在した。

このファショダ事件が起こる前からも、アフリカ中央部の奴隷貿易という経済的価値の高さに列強の利害は対立した。ベルギーのレオポルド2世がコンゴの領有を宣言すると英、葡はそれを妨害した。その混乱に乗じて口を出してきたのがビスマルクである。ビスマルクは実効支配力を持てない国は新たな領地を領有することができないとする原則を認めさせた。(ベルリン会議)

これは遅れて出てきたドイツにとって通行権と商業圏を確保しようという裏があったが、いざ蓋をあけると確実な領有が求められたベルリン会議の精神にのっとりアフリカは確実に分割されていった。つまりドイツにとっては経済価値の低い土地にしか入り込む余地は残っていなかった。

アフリカの西の端に橋頭堡を築いたフランスは、広大な地域に仏領という冠をかぶせつつ東進した。仏領西アフリカの面積はアフリカの4分の1におよんだ。

すでに南アフリカを植民地にしていたイギリスは北方へボツワナ、ジンバブエと進んでいた。すでにエジプトを保護領にしていたイギリスにとってはアフリカ縦断は目前だった。鉄道を敷いて効率のよい富の収奪を夢見ていた。奴隷は必要ない。イギリスにとっては各国が狙っているような奴隷の拉致はとっくに終わっていた。奴隷たちを販売したカネですでに産業革命は完成していた。今度は物資だ。

イギリスはいったん北に回るとエジプト、スーダンを経由して喜望峰にいたるアフリカというケーキを縦に南下してナイフカットしようとした。ここでイギリスは思いもよらぬ障害にぶつかり10年のロスをする。南スーダンにおいてマフディー一派が頑強に抵抗した。一時マフディーは全スーダンを支配下に置いた。

この10年間のロスが英仏両軍の歩調を合わせる役割をして互いに気づかぬままファショダで出くわすこととなる。

現地軍は一触即発だった。

この危機を救ったのは皮肉にもドイツだった。海外進出を狙うドイツは両軍にとって脅威だった。ドイツに怯える両国は1904年英仏協商を結んだ。これにより相互にお互いの既得権を認め長年の英仏の対立に終止符がうたれた。

両国はドイツの国力増強の前にかろうじて利害共同体としてスクラムを組むことができた。わずか第一次大戦開戦10年前のことである。

ベルリン会議でドイツが得た土地は役に立たない土地で、このことも第一次大戦の遠因になった。

妥協すべき時期と内容を心得た英仏の勝利を象徴する事件であった。

領土で対立する両国が解決を模索するとき、原則論の応酬をしても不毛だ。妥協と譲歩を一切拒否するなら戦争しかない。そう考える低脳は外交の邪魔をしてはいけない。











Posted at 2011/12/12 11:24:01 | 日記
2011年12月11日 イイね!

Panay incident

自転車に乗って走りながら1メートルの高さから水平にピンを投げて地上の長さ1センチ幅1ミリの的に当てることを神技と言わずして何であろう。

職人技の粋を極めたと言ってよい。最新式の九六式艦上爆撃機ですら爆装は3個が限度だ。しかもたった12機で攻撃した。そのうち2発はパネー号に直撃し随伴する油槽船2隻も沈めた。

この九六艦爆はパネー号だけを狙ったのではない。当時南京は混乱の極みを呈し、長江には川を埋めんばかりに中国船がいた。無駄になった爆弾はほとんどない。艦爆隊の錬度の高さは世界最高だったに違いない。

逃走する兵は殺せという命令が出ていた。ほぼ南京を手中に収めた帝国陸軍は、敗残兵の処理をのこすのみであった。

もうひとつの命令。俘虜は殺せ。これが便衣に知れわたるや混乱は極値に達した。川岸まで殺されずにかろうじてたどりついた者も長江を渡る手段は限られていた。運のいい者は船をつかまえた。そしてさらに運のいい者はパネー号に乗った。

国民党の名誉のため言うが、正規兵の中には頑強に抵抗し孤立した中で機関銃を撃ちつづける者がいるにはいた。灼熱した銃身を素手で交換してはまた射撃を続けた。

ただ大部分は気が狂ったように逃走を図るか、ダメと見ると簡単に俘虜になった。想像をはるかに超えた俘虜を抱えた日本軍はその処置に困った。10000人の俘虜には毎日30000食が必要だ。将兵の糧秣にすらこと欠いていた日本軍は打つ手をなくす。戦争計画のずさんさ、あいまいさ、低能さ、愚かさ、しろうとぶりが露呈した。

それにひきかえパネー号に対する処置は早かった。大本営自ら陸海軍そろって弁明と謝罪と賠償に奔走した。アメリカの参戦の口実に十分なりうる事件だからだ。ここにも戦争指導部の低能ぶりがよくあらわれている。

アメリカは日本の釈明があろうとなかろうとやるときはやる。しかしこのときはアメリカの参戦は絶対にない。1823年以来のモンロー主義はまだアメリカに根強かった。戦争はヨーロッパのアホどもがやることだ。アメリカは戦争しないことで豊かになった。これらの考えが合衆国を支配していた。わずかな中国にあるアメリカ権益のためにアメリカの若者を死なせることはない、という意見が支配していた。

この動向すら分からずに謝ればなんとかなるだろうという下品な無定見をさらしたのが日本だ。

パネー号は砲艦だ。油槽艦すなわちタンカーを3隻ともなっていた。当然に中国空軍に提供されたであろう石油だ。その可能性のあるものは攻撃してよい。それが国際法だ。

情況を読まない。ただ強い者には弱い。弱い者には狂ったように強い。太平洋戦争に突入する前にすでにこの時点で太陽の帝国の欠陥は明らかだった。
Posted at 2011/12/11 10:26:50 | トラックバック(0) | 日記
2011年12月10日 イイね!

盧溝橋から南京

1937年盧溝橋を挟んで対峙していた日本軍と蒋介石政権軍は7月7日戦争状態に入った。支那兵が先に発砲したことを金科玉条のように何回も叫び日本軍の進攻を正当化しようとする人がいる。根拠の弱い発言だ。盧溝橋をどこだと思っている。瀬戸大橋ではない。ほとんど北京であり海岸から数百キロも中国奥地だ。

隣の家に土足で上がり喧嘩になって相手が先に殴ったとわめくだらしなさと同じだ。ここで出てくるのがカビの生えた言い草だ。ここで退却したら今まで戦死した皇軍兵士に申し訳ない。その理屈にしがみついて本当に最後の一兵まで戦ってあげくの果てには敗戦を迎えることになる。じつにぶざまだ。

宣戦布告もなく戦争目的もなく戦争範囲もなくだらだらと戦死者ばかりを増やしていった。内実は総力戦であったにもかかわらずことを小さく見せるため国民には日華事変と宣伝した。

便衣隊を射殺するのは通常の戦闘行為だが一般住民との区別は不可能だった。当然間違いが起こるが一人間違えて住民を射殺すれば必ずその親戚五人は支那兵になった。

そこで支那兵を殺すことと支那兵が増えることとどちらがが速いかの競争になる。

兵站が伸びきったところ山西省では北海道の二倍の広さの土地をわずか十万の日本兵で守ることとなった。恐怖は必ず虐殺を生む。おとなしくさせるには殺すが一番だ。その代わりどこからともなく飛んでくる銃弾に自らもあの世生きとなった。

それでも北支那はまだましだった。南支は人口も多く、なにしろ蒋介石の本拠地だった。従軍した帝国陸軍の兵士が言い得て妙なことを言っている。「中国は心臓がいくつもある生き物だ。やっと上海を落としたと思ったら南京が。南京を落とすと重慶が、成都が。とてもやりつくせる広さじゃない。」

西安事件で国共合作が成立すると日中は総力戦の渦の中に落ちていった。支那軍は爆撃機を保有するようになり揚子江に浮かぶ帝国海軍の艦艇は攻撃をうけた。暴支庸懲は帝国臣民の合言葉となった。ただ前線の兵士にはスローガンはどうでもいい。殺し殺される毎日が繰り返されるのみである。

南京に進軍したのは九州の部隊である。激戦地は猪突猛進の兵が珍重される。将校は突撃のとき怖気づいて壕から出られないでいる兵がいたら射殺しなければならない。そうして殺される兵はほとんどいなかった。ただ敵の水冷機関銃は間断なく撃ちつづけ将棋の駒を倒すように兵をなぎ倒した。

生き残った兵は敵愾心に狂い便衣隊を殺す。そうして北支と同じことが起こる。

誤解してもらっては困るのが、敵愾心だ。これは自分だけがもつものではない。敵も同様に敵愾心を持ち、捕虜は銃剣の的にしあるいは目玉をくりぬいてこちらの部隊に投げ込むことをする。

それでも帝国陸軍はどこまで進むかだれも分からない進軍をつづけた。なんと勝っているつもりでいたからお笑いだ。

中国は中国のものだから帰れと言っているのを参謀本部が理解することはなかった。
Posted at 2011/12/10 22:01:16 | トラックバック(0) | 日記
2011年12月10日 イイね!

zbrodnia katyńska

1939年8月独ソ不可侵条約が結ばれるとヒットラーは待ってましたとばかりにその8日後ポーランドに攻め込む。ポーランドの西半分はドイツ第三帝国の一部になった。一方スターリンもヒットラーから攻め込まれる心配なく安心してポーランドの東半分をとる。

こうしていわゆるポーランド分割が完成する。この時点においては、ファシストとコミュニストの利害は一致していた。

スモレンスク郊外のカチンの森はソ連領になった。

さあお食べと一個のポーランドパイを二人の駄々っ子の前に差し出したらどうなるか。最初は仲良く食べている。しかしお互いに相手より自分が強いと信じているから、その仲良しがいつまでも続くはずがない。

最終的には利害が反してくるという正確な見通しをもっていたのはヒットラーの方だった。安心しきっていたスターリンはソビエト連邦の周りに寄り添う社会主義衛星諸国どもを夢想していた。青二才のくせに兄貴より喧嘩が強くなっては困るのだ。子分のくせに強いポーランドはありえない。

スターリンは得意の手を使う。粛清。粛清。2500万人!しかも自分で殺しておいてこの2500万人は名誉の大祖国戦争の犠牲者に算入した。つまりナチスのせいにした。スターリンの猜疑心には限度がない。

スターリンの行った粛清の総数からすれば微々たる数だが、このとき邪魔になったのが捕虜となったポーランド将校だ。彼らはおそらく戦後ポーランド復興に際して重要な人物になる人たちだ。ポーランドを再起不能にしておかなければならない。

彼らは冬のカチンの森に消えた。

人殺しスターリンはナチスがポーランド分割線を破って侵攻を始めても、しばらくは反撃をためらった。それほど仲良くパイを食べたがっていた。一方、ナチスの侵攻はとどまるどころか自国ソビエト領に深く入り込んできた。こうなるとスターリンの怒りは尋常ではなくなる。ふられた女の逆恨みだ。ナチスとしては当時の国際政治の常道をより巧妙に実現していただけだ。

スモレンスクを占領したナチスドイツはカチンの森に4000人のポーランド人将校の虐殺死体を発見する。

ゲッペルスは映画まで作ってコミュニストの残虐性を弾劾する。大佐級の米軍捕虜、ロシア人捕虜、各国の赤十字が証人となった。そして多くの動かぬ物的証拠をあげた。しかし、信じたものはナチス自身以外いなかった。

戦後ニュールンベルク裁判でアウシュビッツと並んでカチンの森の虐殺事件をソ連から批判されたナチスは一言言い放つ、「恥知らず」

ソ連の破廉恥ぶりにはあきれる。ただ僕は言いたい。ただ一人でもいい。東京裁判では連合国に恥知らずと言えた戦犯がいたか。無能な戦争指導ぶりだけでも十分に戦犯だが、負けて裁判に立たされると途端に連合軍の言いなり小僧になり下がる。残虐非道さにおいて連合国は日本軍の比ではなかった。

ナチスドイツの将軍はニュールンベルクで言った。たしかに残酷な人殺しはした。しかし、お前(連合軍)に言われたくはないぞ。

東京ではついぞ聞けぬ発言だった。

Posted at 2011/12/10 12:04:08 | 日記
2011年12月08日 イイね!

宥和政策

1935年アドルフ=ヒットラーは怯えと怒りと野望の中にいた。断じて行えば鬼神もこれを避くという心境か、ベルサイユ条約をほごにして再軍備を宣言した。英仏はヒットラードイツよりも何よりも戦争そのものに怯えていた。

ところがドイツにとってはベルサイユ条約下では絶望という戦争がまだ続いていたのだ。200億倍ものインフレ。すさむ人心。割譲された領土。ドイツにとって起死回生のチャンスは全くない。と、思われた。

ヒットラーは自信家ぶっているだけでこのときの気持ちを薄氷を踏む思いだったと回想している。ドイツを永久に奴隷に貶めるベルサイユ条約を拒否した。ドイツ国民がこれ以上絶望という屈辱に耐えねばならぬ理由はない。

しかし、英仏が恐怖と考えていたのはドイツの再来ではなく戦争の再来だ。英仏には2500万人が死んだ戦争はもうたくさんだという厭戦気分がしっかりと根付いていた。

ネヴィル・チェンバレン (Arthur Neville Chamberlain、英首相 )は独伊との開戦を何とか回避しようとミュンヘン会談に乗り込み悪魔の取り引きをする。

1938年、その会談でヒトラーがズデーテン地方(チェコスロバキアの要衝)を要求したことを受け、イギリスのチェンバレン首相は、平和主義のためと、戦争準備の不足からドイツの要求をのんだ。

つまり、ファシズム諸国の領土的要求に譲歩することによって戦争を回避したのである。弱小国が割譲されて消滅するよりも戦争の被害が少ない方がましだったのだ。

会議はどうしても戦争を避けようという空気が強かったため、アジアでいえば日本の満州侵略に目をつむった。ドイツの小都市で開かれたヨーロッパ列強の虚々実々の駆け引きは国際世界を見渡していた。

彼自身、ナポレオンの後始末をしたウィーン会議のように列強間の協議によって紛争を解決しようという意識しか持ちあわせていなかった。

その結果何が待っていたか。たしかにチェンバレンは戦争を回避した政治家として全国民的英雄になった。一方でヒットラーは常にイギリスに対して開戦するぞと脅しをかけ、脅しが有効であることを実感していた。ヒットラーの手中にはまったチェンバレンはヒットラーが無傷でズデーテン地方を第三帝国内に収める事ができるように保証を与えたのと引き換えに、イギリスの安泰を図ったのだ。(ヒットラーのチェコ侵攻を黙認する代わりにヒットラーはイギリスを攻めない)

しかし、はなしはここでおわらない。ヒットラーは言った。これ以上の領土的野心はないと。チェンバレンはお人好しにもそれを信じ、第1次大戦の10倍の死者を出す第二次大戦を不可避にしてしまった。なぜならヒットラーの領土的野心は大日本帝国と同様とどまるところを知らなかったからだ。

かつての我が帝国の植民地が傲慢にも空母を作る時代になった。竹島みたいに無為無策ではすべてを失う。チェンバレンの宥和政策が如実にそれを示している。

宥和政策は敗北主義だ。日中友好も日韓友好も口に出した瞬間負けだ。

Posted at 2011/12/08 13:38:22 | トラックバック(0) | 日記

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「目新しいものを求めてさまようカモ http://cvw.jp/b/849485/48568574/
何シテル?   07/28 20:30
続けて読んでいただく方々に感謝しております 裏切り者、舞い上がった者、偉そうなバカと戦うブロガーであり続けます ...
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