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2012年11月30日 イイね!

目達原基地の軍神  4



「来るべき秋がついにきた。たとえ生還の確率が少なくても、雷撃や爆撃など帰還するこ
とが前提の出撃であれば、自分だけは絶対に生還できると信じることで、精神的な不安を
克服することができる。死は結果であって、目的ではないからである。 

 ところで、いくら命令だからといっても、生還できない「体当たり攻撃」に、平静に出
撃することが果たして可能なのだろうか。戦死することもあり得ると、承知のうえで志願
した海軍ではあったが、死ぬのが目的で志願したわけではない。」

海軍の話であるが陸軍も似たり寄ったりである。白菊偵察練習機で体当たり自殺攻撃をした。情報がどんなに不足しても負けているのはだれにも分かる。自殺攻撃の成果はあったというアホがいるがそんなら真珠湾の時からこれをやれば日本は勝っていたわけだな。

目達原には少年飛行兵がどんどん投入されては消えていった。中には飛行時間40時間というクルマの運転ですら青葉マークが必要な者が南の空に消えた。

死ぬかもしれないが頑張れ、と言われたとき日本人はとてつもない力を発揮する。しかし必ず死ぬけど頑張れと言われたのだ。日本人に限らず誰でも死地に赴く運命を嘆く。

福岡市内の女子校の寮には特攻隊員が暴れてつけた刀傷が残る。僕の数学の先生は特攻の生き残りだ。僕は彼がこういうのを100回以上聞いた。「やけくそだった。」現代のセンチメンタル右翼思想で美化することはできぬ。

この攻撃の成果を強調することで、せめて彼ら特攻隊員の御霊が浮かばれるならと、自殺攻撃作戦を正当化しようと努めたい気持ちはよく分かる。

あからさまに特攻攻撃の被害対効果の低さを強調されると、決死の思いで出撃した純粋な17歳の少年たちまでバカにされたようで心中穏やかではなかろう。

ピアノを弾いた特攻隊員たちは目達原基地に戻っていく。そして二度と鳥栖国民学校を訪れることはなかった。

ピアノを弾いたあと、隊に帰る特攻隊員2人に、小学校の生徒たちが口々に「予科練に入ります」「特攻隊になります」と言うのに対し「君達が特攻に行かなくてすむようにお兄ちゃん達が行くんだよ」やさしく言った。

目達原はなんと悲しい曲を弾かせたんだ。(一部音に乱れがあります、申し訳ありません)

純粋な国を思う気持ちの美しさに心を打たれる能天気たちよ。その純粋さは利用するのに都合がいい。

特攻の元締め大西瀧二郎は問われた。「そうまでするなら戦局を一挙に挽回できるんだろうな。」大西は泣くばかりであった。卑怯である。しかし方針は変えなかった。本人が腹を切ってすむ話ではない。2500人分の切腹をせよ。










Posted at 2012/11/30 21:30:10 | 日記
2012年11月29日 イイね!

目達原基地の軍神  3

目達原基地の軍神  31932年、上海市郊外に、蔡廷鍇(さいていかい)の率いる十九路軍が現れた。十九路軍は3個師団からなり、兵力は3万人以上に達していた。1月、日本軍が上海へ進軍してくると、国民党中央は蔡廷鍇ら第19路軍に撤退を勧めたが、蔡はこれを拒否する。1月28日より両軍の衝突が開始された。兵力は第19路軍が日本軍の半数の上、日本軍の方が装備・火力で圧倒的に優勢だった。しかし第19路軍は懸命に抗戦し、30日以上も持ちこたえた。

共産党と善戦した自信からか上海租界を狙ってのことか、兵への給料にすら事欠きながら二倍の兵力、数倍の近代装備を誇る日本軍に対峙した。

最近分かりもしないで日本軍の規律厳正かつ勇猛果敢ぶりを喧伝するアホが出てきた。1,000名だった日本軍は四日で本格的武装をした陸軍を7000名上陸させた。且つ戦闘機も導入し艦砲も可能だった。

「寡兵ヨク大軍ヲ撃ツ」とは蔡廷鍇をさして言う言葉だ。

さしもの蔡も撤退を決意する。彼は、壕と土塁と有刺鉄線で追撃を阻んだ。これに対し陸軍は20キロの爆弾に導火線をつけ竹で巻いたものをこしらえる。敵の防御線を竹で巻いた爆弾で突破しようとする。まるで文永弘安の役だ。絵巻にしたら博物館に入る原始人の戦争じゃないか。

ここで必ず出てくるのが久留米の部隊だ。とにかくここら辺は朝鮮半島の影響か、気が短く喧嘩っ早い。その後もこの無鉄砲さが買われ各地で突撃要員になる。

敵の防塁が落とせなくて苦戦していた久留米24旅団は、さきほどの爆弾つき竹やり戦法を思いつく。そんなに功を焦らずとも給料も払えない軍隊は自壊する。結果的に19路軍は蒋介石によって壊滅させられる。ナンバー2は邪魔なのだ。味方でも必要ない。蒋介石はむしろ共産党とは合作して東夷の小国を撃つ。

まるで会社の人事抗争を見るようだ。三国志を読んでいたほうが勝ちだな。

このとき軍国美談がねつ造される。死ななくてもいい21歳の青年が勇士となって死んだ。この話は国定教科書に載り国民のほとんどが信じた。今でも一部のアホは信じている。

国定教科書。

 敵の弾は、ますますはげしく、突撃の時間は、いよいよせまって来ました。今となっては、破壊筒を持って行って、鉄条網にさし入れてから、火をつけるといったやり方では、とてもまにあひません。そこで班長は、まづ破壊筒の火なはに、火をつけることを命じました。
 作江伊之助、江下武二、北川丞、三人の工兵は、火をつけた破壊筒をしっかりとかかへ、鉄条網めがけて突進しました。-----すると、どうしたはずみか、北川が、はたと倒れました。つづく二人も、それにつれてよろめきましたが、二人はぐっとふみこたへました。もちろん、三人のうち、だれ一人、破壊筒をはなしたものはありません。ただ、その間にも、無心の火は、火なはを伝はって、ずんずんもえて行きました。
 北川は、決死の勇気をふるって、すっくと立ちあがりました。江下、作江は、北川をはげますやうに、破壊筒に力を入れて、進めとばかり、あとから押して行きました。
 三人の心は、持った破壊筒を通じて、一つになってゐました。しかも、数秒ののちには、その破壊筒が、恐しい勢で爆発するのです。
 もう死も生もありませんでした。三人は、一つの爆弾となって、まっしぐらに突進しました。めざす鉄条網に、破壊筒を投げこみました。爆音は、天をゆすり地をゆすって、ものすごくとどろき渡りました。
 すかさず、わが歩兵の一隊は、突撃に移りました。
 班長も、部下を指図しながら進みました。そこに、作江が倒れていました。「作江、よくやったな。いい残すことはないか。」作江は答えました。「何もありません。成功しましたか。」
 班長は、撃ち破られた鉄条網の方へ、作江を向かせながら、「そら、大隊は、おまへたちの破ったところから、突撃して行ってゐるぞ。」とさけびました。
「天皇陛下万歳。」作江はこういって、静かに目をつぶりました。

僕は一等兵たちの勇気を深く尊敬する。ただ彼らは招集兵である。除隊後は夢があった。百姓をしたり輸送業をしたり。どの子もそうであるように親にとっては希望の星だった。

国定教科書はウソつきだ。竹の先に爆弾をつけた20キロ程度の物が爆発しても鉄条網が破れるのはわずかである。その爆弾つき竹の棒が雲霞のごとく押し寄せるのならなんとかなるが、そのまえに兵は死ぬ。音が大きかったとあるが火薬を知らないからそんな嘘がつけた。音と威力は反比例するのだ。

そんな幼稚なことではまるで日露戦争だ。会津の白虎隊にも笑われる。砲撃をせよ。野砲でも艦砲でもよい。15分ですむ。敵は糧秣にも事欠いているんだ。飛行機に任せろ。2分ですむ。それがいやなら何もしなくてもいい。敵は湿地帯の中で持ちこたえることはできない。

叙述があまりにも微に入り細にわたっている。誰か弾が飛び交う中でメモやスケッチでもしていたのか。あとで創作したじゃないか。だから矛盾してくるんだ。

なにが「天皇陛下万歳」だ。木っ端みじんになるときにどうしてそんな言葉が言えるんだ。そこで物語を変えゆっくり死んだことにしてある。

陸軍はさらにひきょうなことをした。3人のうちの一人に被差別部落出身をいれた。要するに同和ですらこんなに命がけで戦っているんだ、汝臣民一層奮励努力せよというためだ。

彼らは軍神となり銅像が立つ。第二次大戦時の金属供出で銅像は撤去されるが一部石膏が残っていたので復元される。

目達原基地の資料室に2m以上の大きな銅像がある。江下武二一等兵(死後伍長)21歳、本懐を遂げたか。
Posted at 2012/11/29 15:15:00 | 日記
2012年11月28日 イイね!

目達原基地の軍神  2

目達原基地の軍神  2帝国陸軍大刀洗飛行学校の分校として、昭和18年に目達原飛行場は稼働する。ただし、自殺攻撃のみを目的として。

太平洋戦争前、一時的ではあるがおおもとの大刀洗飛行場には民間機も運行しにていた。じっちゃんの友人は夏休みなどに帰省する時、この民間機を利用した。戦前に飛行機で帰省。朝鮮の金持ちは戦前から桁外れだ。僕が韓国に住んでいるとき大変可愛がってくれた。今はあの世だ。

小日本の貧乏陸軍はその自殺機にさえ事欠くありさまだった。複葉機が爆弾を抱えてヨタヨタ低速で近づいてきたとき、ヤンキーどもは撃つのを忘れて笑ったに違いない。

その自殺機の話は次回にするとして今回は自殺人間爆弾の話をする。カモがネギしょってやってくる。その鴨たるや20歳前後の子供だ。子供は言われれば何でもする。だから子供に無意味なことを「志願」させた。その張本人こそが反省すべきなのである。この絶望的な状況でも神風が吹いて日本は勝つと言いくるめたのが、狂った陸軍と腰ぬけ海軍と弱虫政府だった。



最初はどんな戦も勝ち戦が続く。不意打ちをすればだれでも勝つ。また戦争はそうでなければならない。しかし戦線というものは距離の二乗に正比例して長くなる。三乗に比例して警備地域は広がり、少なくとも四乗に比例して捕虜は増える。実はそれほど勝っていなかったのが上海事変である。

戦線を維持しようにもあったのは兵力だけで軍備は劣悪で且つ不足していた。宣撫(宣伝)工作はほとんどなく最初っからなかった民心はさらに離反した。捕虜に関して言えばバカでも分かる計算をだれもした形跡がない。主計兵はなにをしていたのか。たった1000人の捕虜でも一日3000食が必要だ。

だからここでも神風に吹いてもらわないと困ったことになった。弱い支那兵、強い皇軍、素直な支那人、よいことをしている帝国の陸軍兵、わるさばかりする19路軍。「暴支膺懲」だ。

帝国は日露戦争より多くの死者を出しながら、ことを小さく見せるため事変という言葉を使い国民をだました。第一次上海事変。

なかなか奇怪だ。19路軍がいるかと思えば国民党がいて新四軍の共産党がいる。一番遠い関係の者同士が手を組んだり離れたり、三国志を地で行っているのでとても面白い。

東夷の国が海を越え来た時、ただ一つ気がつかないことがあった。太陽の国はみんなの嫌われ者であったことだ。違うというなら支那に住め。支那人が歓迎するはずだぞ。


江下武二一等兵(戦死後二階級特進、佐賀県神埼郡蓮池)、北川丞一等兵(同、長崎県北松浦郡平戸)、作江伊之助(同、同、佐々)の三名が20キロの爆弾筒を抱え敵の鉄条網を破壊せんと突進した。自爆攻撃ではなく兵は爆弾筒を投げると同時に退避するよう訓練されている。

ところが誤って転んだりして退避する時間をなくした。原始的な導火線に火をつけて進む方式だ。転んだりした時間のミスなど無視して導火線は短くなる。20キロを抱えて退却はできない。体だけ退却しようものなら戦意不足で即銃殺される。

彼ら皇軍の勇士はいかなる行動をとるか。


現在の目達原基地につながる話。ウソつきたちに勝手に戦争をねつ造させてはいけない。



なを、参考までに申しますと、かの大韓民国の兵の修身の教科書には爆弾十二勇士というのが載っております。十二人で爆弾を抱え赤軍の機関銃の前にヨタヨタ近づく姿は、ただのひき肉志願者だと言ったら、韓国兵たちは、「そうさ、分かりきったことさ。国は俺達をだまそうとしている。」ときわめて健全でした。

                                 写真は靖国神社レリーフ、爆弾三勇士

Posted at 2012/11/28 22:42:24 | 日記
2012年11月27日 イイね!

目達原基地の軍神

目達原基地の軍神今から60年前、佐賀県目達原(めたばる)基地(駐屯地)の前を走る国道34号線がコンクリート舗装になった。朝鮮戦争当時、博多港や板付飛行場についた米兵の死体を佐世保に運ぶため、進駐軍は何よりも優先してこの道路を舗装することを命じた。腰ぬけ日本の行政は狂ったように全国から資材を集め突貫工事で舗装した。

今、コンクリート舗装は一部を残して姿を消しアスファルト舗装に変わった。僕はそこから道をそれてフラフラと好きなところを走った。ふと出たところが吉野ヶ里だ。三田川(みたがわ)饅頭を買って鳥栖方面に行った。僕には最近ポッと出現した吉野ヶ里饅頭より、僕の生まれる前からあった饅頭が思い出も詰まっていてよろしい。

目達原基地は三田川饅頭よりさらに古い。正門が少し移動して入りやすくなったので、勇気を出して番兵さんにお願いした。年をとってアポなしで行くというのは苦しい。年取って常識がないのは本当のバカだからだ。

司令はいなかったが内心ほっとした。構内の売店で買い物はできますかと言ったら怪訝な顔をして「どうぞ」と言ってくれた。シャツやバッグ、懐中電灯、ノート、手袋やズボン。買いまくった。米軍のようにカッコイイ迷彩じゃないが、そこがなかなかいい。ミリタリーおたく達に高値で売ろう。この帝国陸軍以来の絶望的ダサさを楽しまなくっちゃあ。

ここのクリスマスコンサートが中止になった。選挙の日とぶつかったみたいだ。素晴らしい軍楽隊だ。戦前の戸山陸軍軍楽隊を彷彿とさせる。

春の桜は見ているだけで涙が出てくる。

ところで、藤井貞文駐屯地司令には申し訳ないが、僕はこの基地にはいい思いだけを持っているわけではない。

まず、ヘリコプターからものを落とすな。危ないじゃないか。演習を見学したことがあるがさすが日本の軍人さんだと感心したことがある。地上戦の推移に対応して秒単位でヘリで強襲する。僕はテントがはがれてどこかに飛ばされるかと思った。ま、きわどいことより基本です。

ひき逃げもいかんぞ。89歳のおばあちゃん。轢いた人が逃げちゃったらおばあちゃんは心細かったと思うぞ。

火を出しちゃあいかんな。560㎡焼失。ちょっと広すぎると思う。

それよりも何よりも軍人としての基本が全然できてない。事故はどの事業所にもあり従業員が増えれば必然的に起こる。しかし、頭痛がするからと言って頭を切り離すことはできない。火事の一つや二つで自衛隊を廃止することはできない。

ポイントは、上官に対する欠礼を厳しく指導しろ。それで辞める奴がいたらドンドン辞めさせろ。どうせがれきの片付けにしか役に立たん奴だ。

笑われない行進をさせろ。僕は出かけて行ってひき倒そうかと思った。隣の奴と話す奴、駆け足の時も歩く奴。

いいか。ここから何百という特攻機が飛んだんだぞ。よい日本ができることを信じて死んだんだぞ。なんだこのザマは。税金を返してもらおう。ただ免許をとりに自衛隊に来るな。

将校がゴロゴロいる。旧軍は兵が将校にあうことはほとんどなかった。しかし、一糸の乱れもなかったぞ。

思わず目達原シリーズを続けます。
Posted at 2012/11/27 20:51:55 | 日記
2012年11月25日 イイね!

それは公権と私権の戦いだった。室原知幸(むろはらともゆき)

それは公権と私権の戦いだった。室原知幸(むろはらともゆき)1953年6月福岡県筑後地方を豪雨が襲う。160名あまりの死者を出した。この豪雨により、一気にダム建設の機運は盛り上がった。

ほどなく55年に日向神(ひゅうがみ)ダムは建設に着工した。水系は異なるが下筌(しもうけ)ダムのそばにあるダムである。今日はそこまでドライブに行って来た。落下式のみならず導水式の水力発電をする。ただ、合わせて6000kwだから今となっては、ままごとだ。1963年に完成する。

隣の下筌(しもうけ)ダムは規模が大きい。15000キロワットの発電をし洪水調整も目的にしている。筑後川水系だ。

ところがこの下筌ダムは水害から14年たっても着工できずにいた。今は完成したダム湖を渡ると室原という地名の村に出る。そこから行けども行けども針葉樹の美林が続く。その村には室原姓が多い。

建設省は住民を舐めたまねをした。どんな山奥に住んでいようと、きちんとした教養を積んだ紳士はいるのだということを、下品にも理解できずにいた。札束でほっぺたを叩けば低能住民は「はい」というものだと確信していた。もちろんわかりの悪いバカもいるだろう。そいつらに対しては土地収用法で脅せばいい。変に反対運動をしていたら二束三文でお前の土地は収容(用)するぞ、と。

反対する住民の根本的心情は「不安」にある。この不安を解くために建設省は十分な努力をしたとはいえない。逆の立場からも動員された人たちがいる。この住民の[不安」を利用しようと、折からの安保反対闘争をしていた労組員が動員されてきた。現場の建設作業員の代表では決定権がない。巷のなりあがり似非右翼は、お国の方針にたてつく奴らは「アカ」だ、と罵った。

かくしてダム反対闘争はこじれにこじれていく。

ひと雨降れば杉の木が直径何ミクロンか大きくなる。ところが彼の所有するその杉の木は500haある。つまりひと雨100万だ。彼は十分な資産家の家に生まれた。早稲田を出た彼は法律の知識を生かし命がけで抵抗する。彼をそこまで駆り立てたものは何か。

そもそも、彼が公権力に勝とうはずはない。知識も能力もある彼にそれが分からぬはずも、またない。それでも彼を突き動かす信念はこうだ。

「公共事業は理に叶い、法に叶い、情に叶わなければならない。」

建設省は理と情を無視した。つまり、室原はこれが許せなかったポイントである。私権と公権の戦いであることを最初っから認識していた。所有権に対する国家権力の優位は、20世紀においてたしかに寛容になってきた。そうでなければ社会権的基本権の存立の余地はない。

しかし、乱用が許されたことはない。その乱用は理と情の蹂躙という形をとる、というのが室原の主張であった。

公共の福祉(全体の利益)の下には基本権(人権)は制限されることが多い。しかし、お上がひとたび公共の福祉を振りかざせば私権は無制限に制限されるといった考えは許されない。

端的に言うと、公共目的の遂行のため、公共の福祉というファシズムにつながる概念を乱用することは許されないのである。

室原はやみくもにダム反対をしたわけではなかった。彼のプランとしては室原(地名)一帯の総合環境改善プランがあった。動員されたロボット労組員たちの、ハトが豆鉄砲食らった顔が目に浮かぶ。政府側も決定権のない下級役人を出してきて、話し合いをしようというのは欺瞞的だ。室原が望んだのは実効性ある話合いであり「蜂の巣」ではない。当時、環境とか公害反対といえば即座に「赤」呼ばわりされた。それが20世紀の島国の現状だった。室原の先見性に気づいた人は支援者の中にも多くはない

そこのけそこのけお馬が通る、と建設省が通るとき、彼は確実にファシズムの足音を聞いていた。67年、ダムはできる。しかし、彼の死後、伝家の宝刀、土地収用法は改正され公権力の恣意的乱用はできなくなった。

室原のこの戦いがなかったら土地収用法の改正はなかっただろう。権力がこの土地収用法の発動に慎重になったのは、下筌ダム反対闘争があったからだ。そうでなかったら山は今以上に不要なコンクリートで覆われていたはずだ。

ネトウヨにしろそこらの右翼にしろ、およそ右翼たるものは彼の主張に同意するはずだ。なぜなら室原は所有権(私権)の国家権力(公権)に対する優位性を示す先兵たろうとした。

あらゆる権力が国家に集中する制度を民主集中社会主義という。つまり社会主義という国家だ。なぜか労組員が動員されてきて所有権の優位を叫ぶという倒錯した構図になった。

一方、右翼も自虐性を持つ。守るべき資産もないくせに日の丸を振って「アカ」を批判し、チンピラ資本家の仲間入りができたような錯覚はするな。

あの世で彼は満足だったに違いない。日の丸は、窮鼠が猫を咬むと怖いことを学習した。

有象無象のヒステリーには国も室原も迷惑した。






Posted at 2012/11/25 00:06:17 | 日記

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「0円ジョルノ AF24 花立山 http://cvw.jp/b/849485/48711144/
何シテル?   10/14 09:26
続けて読んでいただく方々に感謝しております 裏切り者、舞い上がった者、偉そうなバカと戦うブロガーであり続けます ...
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