1959年の現天皇陛下の結婚パレード放映を切っ掛けに、我が家にテレビがやってきた。
1964年の東京オリンピックのときも、家族全員がテレビの前に揃ってた。
相撲中継は民放もやっていて、2~3のチャンネルから同時に流れてた。
見ないときはテレビの前面に幕を下ろしてた。
テレビが茶の間の主役に躍り出た。
そんな時代。
1963年5月のとある日曜日、
テレビをつけたら、空いた道路をクルマが一方通行で走ってた。
鈴鹿サーキットで行われた第1回日本グランプリだった。
クルマなんて生活に無縁の時代。
ましてやレースってなに?
とにかく???????の連続。
見たこともないクルマが先頭を走ってた。
でも、衝撃度は
龍馬が黒船を見たときよりも、
ニカウさんがコカコーラの空き瓶を拾ったことよりも
大きいと断言できる。
説明できない興奮の種が心の奥底に蒔かれた瞬間だった。
鈴鹿サーキットとの出会いだった。
興奮の種を忘れたまま成長を続けた。
あまりにもクルマとはかけ離れた生活を続ける時代だった。
でも、16になりバイクの免許を、18でクルマの免許を取るころには、
興奮の種が芽を吹き始めた。
『そうだ! 鈴鹿に住もう!』
鈴鹿に住めばその先が見える。
だって鈴鹿にはサーキットがあるじゃないか!
1974年夢は現実のものとなった。
鈴鹿サーキットを走ることを仕事にできた。
小さなビルダーが次々店を開いた。
モリワキさんもやってきた。
二輪の8耐が始まった。
同僚からモトGPライダーも出た。
F1-GPが鈴鹿で始まった。
エキビジションだがタイレル009(高橋国光仕様)にも乗れた。
F1開催時は道端でジュースを売った。
儲かった。
サーキットへは混むので行かなくなった。
『鈴鹿サーキットの思い出』
・ダンロップそれともゴキブリ?
逆バンに続く上りの左コーナー。
F1-GP開催以前にはダンロップタイヤの看板がコースをまたいでた。
でも、メインスタンドから見ると車の屋根が見えゴキブリに見えた。
・デグナー
1962年の第1回全日本選手権ロードレース。
ドイツ人ライダー、エルストン・デグナーがこけた。
・まっちゃん
ヘアピンからスプーンに向かう複合右コーナー。
1969年の4輪耐久レースで松永喬(通称まっちゃん、焼死)
・雨の日、スプーン出口はアウト・アウト・アウト!
当時スプーン出口コーナーのイン側は他と舗装が違い
雨の日は信じられないくらい良く滑った。
ほんと?と興味深深で突っ込んだ誰かは身をもって体験、
二度と同じ過ちは繰りかえさなった。
【鈴鹿サーキットにまつわる都市伝説】
~鈴鹿には4サイクルエンジンを勝たせるための設計が~
当時の2輪レースは2サイクル有利だった。
しかし、4サイクルを手がけるホンダは、
少しでも4サイクルに有利になるようにコースをデザインした。
1)スプーン出口の急なくだり
2ストに比べ不利な立ち上がり加速を補うため
2)だらだら下るストレート
絶対馬力が不利な4スト。
それを補う下り坂。
来月9月、鈴鹿サーキットが50周年を迎える。
おめでとう、そして、ありがとう。
Posted at 2012/08/28 14:45:56 | |
トラックバック(0) | 日記