---【北海道 室蘭市】---
本道の南西部に位置し、天然の良港「室蘭港」を基幹として
鐵鋼業、造船、石炭積出、石油精製などに依り發展した北日本唯一の重化學工業都市である。
新日鐵竝びに日本製鋼の二大工場を擁し、”鐵の都”と謳はれてゐる。
日沒と共に、港に面した化學工場群と東日本最大の威容を誇る白鳥大橋に無數の燈が灯り、
”工場夜景都市”の名に恥ぢぬ、美しく幻想的な光の藝術が現出する。
重厚な工場群による近代的な美を湛える一方、新日本觀光地100選に選ばれし地球岬や
日本の渚100選に選出されたイタンキ濱と云つた、美しき自然の景觀にも恵まれてゐる。
雄大なる大自然と美しい建築物の調和した景觀都市、其れが室蘭市である。
室蘭の名前の由來は、アイヌ語で「小さな坂道の下りた所」を
意味する「モ・ルエラニ」が轉訛したものである。
室蘭は鐵礦石を産出する鑛山や良質の石炭が得られる炭礦を擁し、
なほかつ其れらを搬出するのに適した天然の良港に恵まれた都市である。
皇紀2567年(明治40年)に兵器製造の爲の製鋼所が設立されて以來、
我が國の富國強兵政策と轟く歩調を合はせつつ、
日本有數の重化學工業地帶として發展を遂げ、一大軍需産業都市に成長せり。
然し其れが故に室蘭に試煉の嵐、吹き荒れる。
12萬4千人の市民で榮える鐵の都に、鐵の雨が降り注いだのだ。
皇紀2605年(昭和20年)7月14日から15日に掛け來寇せる、室蘭空襲及び室蘭艦砲射撃である。
特に、日本製鐵輪西製鐵所竝びに日本製鋼所室蘭製作所は
近代的設備を誇る國内でも屈指の大工場であつた事から米軍は之を重點目標に指定、
最新鋭戰艦3隻を投入する大規模な作戰を發動したのであつた。
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皇紀2604年(昭和19年)7月9日
6月15日より大舉來寇せり米鬼と死鬪を繰り廣げし我が守備隊は
太平洋の防波堤たらんとし總員玉碎 、絶對國防圈の要衝サイパン島の失陷に至れり。
米軍は占領したサイパン島アスリート飛行場(現・サイパン國際空港)の
擴張整備を推し進め、日本本土空襲の爲の一大據點へと變貌させた。
皇紀2604年(昭和19年)11月24日、サイパンより來寇せる
超重爆撃機ボーイングB29スーパー・フォートレス88機が東京を空襲。
”超空の要塞”と謳はれたボーイングB29スーパー・フォートレス
此の日より終戰に至るまで、B29は聯日襲來し、
非人道的な無差別絨毯爆撃に依つて日本本土は字義通り焦土と化せり。
其の一方、北海道は航續距離の關係からB29の行動範圍外であつた爲、
戰爭末期に至つても尚、殆ど被害を受けてゐなかつた。
然し乍ら、昭和20年に入ると我が方は制海權・制空權共にほゞ喪失し、
太平洋沿岸ですら敵機動部隊の跳梁を許す状況に陷つた。
北海道は食糧や石炭の一大生産據點であり、凾館-青森間をはじめとする
海上交通路を寸斷し、本州と北海道の聯絡を杜絶させる事によつて
日本の戰爭遂行能力を著しく低下せしめる事が可能と考へられた。
斯くて、我が方の繼戰能力の完膚なきまでの打倒を目指す米軍は
遂に北海道にも來寇したのであつた。
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【北海道空襲】
昭和20年7月14日早朝、東北及び北海道方面に對する空襲が同時且つ多重的に開始された。
航空母艦13隻を基幹とするアメリカ海軍第38任務部隊は北海道登別市沖合に展開。
宏大な太平洋を制壓せんとする米機動部隊の正規空母群
優に1000機を越える艦載機は次々と發艦、雷鳴の如き轟音を伴ひて全道各地に散開した。
甲板上に艦載機を滿載した航空母艦エセックス(CV-9)
室蘭では14日07時30分、白老監視哨が敵小型機(艦載機)94機の侵入を報告。
グラマンF6Fヘルキャット艦上戰鬪機
室蘭港上空に到達したグラマンF6F艦上戰鬪機、グラマンTBF/TBMアヴェンジャー雷撃機、
カーチスSB2Cヘルダイヴァー急降下爆撃機からなる戰爆聯合は、
手始めに港内に居た海防艦2隻、汽船4隻、機帆船5隻を攻撃し次々と撃沈破した。
電信濱沖を航行中であつた大型汽船3隻も、
雲霞の如く群れを成す敵機に爲す術も無く撃沈された。
グラマンTBF/TBMアヴェンジャー艦上雷撃機
洋上の船舶を悉く撃沈した敵の大編隊は更なる獲物を求め、室蘭の市街地へと侵攻。
凾館船梁(ドック)室蘭造船所に於いて修理中であつた戰時標準貨物船「永歴丸」は、
500ポンド(250瓩)爆彈が船體中央に命中し眞つ二つに引き裂かれた。
構内の倉庫や工場にも4發の爆彈が立て續けに降り注ぎ、
跡に殘つたのは仕上機械工場の鐵骨の枠のみと云ふ慘状であつた。
カーチスSB2Cヘルダイヴァー急降下爆撃機
室蘭市民が頼みとする室蘭防衞隊は、艦船や機帆船の搭載機銃、
ビル屋上に据ゑ附けられた機關銃により果敢に對空戰鬪を行なつたが、
量・質共に壓倒的優勢を誇る米機動部隊との戰力差は如何ともし難かつた。
また、八丁平(現・高平町)の室蘭飛行場には陸軍飛行第54戰隊第2中隊所屬の
一式戰鬪機”隼”が配備されてゐたが、終ぞ飛び立つことは無かつた。
國際法に反する非人道的な機銃掃射も執拗に行はれ、多くの無辜の民が凶彈に斃れた。
海上交通を完全に破壞せしめ、日本の抗戰能力の喪失を狙ふ米軍は
北海道空襲に於いて港灣都市である室蘭・根室・釧路に對し集中攻撃を加へた。
12隻が就役してゐた青凾聯絡船も8隻が沈沒、2隻大破炎上、2隻航行不能の損害を蒙り、
北海道と内地の聯絡は完全に杜絶、雙方は孤立するに至れり。
米機動部隊は北海道全域に徹底的な波状攻撃を加へた一方で、占領政策を見越して
司令部を置くのに適した札幌を攻撃目標から除外すると云ふ餘裕も見せ附けた。
2日間で襲來した敵機は延べ3000機にも及び、
北海道のほゞ全域が蹂躙され死者は2000人超を數へた。
然も其の殆どが一般市民であつた。
本道の全域が空を埋め盡くす敵機に釘附けと成つてゐる最中、
室蘭の沿岸僅か27粁餘地點に巨大な艦影が聯なりて現出。
さらなる地獄繪圖、室蘭艦砲射撃の始まりであつた。
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【室蘭艦砲射撃】
前日より續く大空襲の最中、敵水上部隊は室蘭に對する艦砲射撃を實施した。
艦砲射撃の爲に、空母機動部隊である第38任務部隊より
戰艦5隻(アイオワ・ミズーリ・ウィスコンシン・ノースカロライナ・アラバマ)
輕巡洋艦2隻(デイトン・アトランタⅡ)
驅逐艦10隻からなる水上戰力を抽出し分遣した
第34.8.2任務部隊(オスカー・C・バジャー少將指揮)が編成された。
上掲の17隻の内、戰艦3・輕巡2・驅逐艦9の計14隻が室蘭艦砲射撃に投入された。
米側が實施部隊に下した艦砲射撃の作戰目的は、以下の命令書の一文に表されてゐる。
「室蘭港にある2つの重要な鐵鋼製造工場を、砲火に依つて破壞せしむる事」
約1時間に渡る艦砲射撃で1000發を越える巨彈が降り注ぎ、工場地帶は潰滅状態に陷つた。
特に、最重要目標とされた日本製鋼所室蘭製作所竝びに日本製鐵輪西製鐵所には、
最新鋭の巨大戰艦3隻(アイオワ・ミズーリ・ウイスコンシン)が直々に差し向けられた。
アメリカ海軍が誇る16吋3聯裝砲塔3基9門、總排水量5萬7千頓超の
最大・最新鋭の超弩級戰艦3隻は日鋼竝びに日鐵に照準を絞り、
日鋼に對し414發、日鐵に對し446發の計860發もの主砲彈を撃ち込んだ。
アイオワ級1番艦 アイオワ(BB-61)
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【アイオワ級戰艦 主要諸元】
1番艦アイオワ/竣工時(1943年2月22日竣工)
總排水量:5萬7216頓
全長:270.43米
全巾:32.97米
吃水:11.51米
最大速力:33節
航續距離:1萬5900海里/17節
最大出力:21萬2000馬力/4軸推進
主機
バブコックス&ウィルコックス 重油專燒罐8基
ジェネラル・エレクトリック ギヤード・タービン4基
主兵裝
主砲:16吋(40.6糎)/50口徑 キャリバーMark7(3聯裝砲塔/3基9門)
副砲:5吋(12.7糎)/38口徑 キャリバーMark12兩用砲(聯裝砲塔8基/16門)
對空兵裝
ボフォース40粍/56口徑 4聯裝機關砲15基80門
エリコン20粍/70口徑 單裝機關砲49基49門
艦載機:チャンス・ヴォートOS2U”キング・フィッシャー”水上偵察機3機
射出機(カタパルト):2基
乘員:2700名(戰時)
起工:1940年6月27日
進水:1942年8月27日
竣工:1943年2月22日
造船所:ニューヨーク海軍工廠
愛稱:”ビッグ・スティック”
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室蘭沖に來寇せる3隻の”黒船”、アイオワ・ミズーリ・ウイスコンシンが搭載する
計36門の巨砲、16吋50口徑”キャリバーMark7”から放たれる
直徑40.6糎、全長170糎、重量1225瓩の巨大な”Mark8超重砲彈”は、
09時36分から10時30分までの約1時間に渡り、工場及び社宅等の周邊施設に降り注いだ。
雷鳴の如き巨砲の咆哮が大氣を震はせる
砲聲が響く度、砲彈が炸裂する度、地震の樣に大地が搖らいだ。
あらゆる物が吹き飛び、工場の鐵骨すらも飴細工の樣に拉げた。
一齊射撃の衝撃波に依り、海面が大きく抉られる
最重要目標に定められた日本製鋼所室蘭製作所の砲身工場は、
其の高性能から米軍をして「特に警戒を要する」と謂はしめた秋月型防空驅逐艦の
六五口徑九八式一〇糎高角砲の生産設備を有する日本で唯一の工場であつた。
皇紀2598年(昭和13年)に正式採用されし此の新鋭高角砲は、從來の
四〇口徑八九式十二糎七高角砲と比して最大射程・最大射高・發射速度の孰れに於いても
約1.4倍の性能向上を見てをり、航空機の發展に伴ひ熾烈さを増す對空戰鬪で威力を發揮した。
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【六五口徑九八式一〇糎高角砲 主要諸元】
採用年:皇紀2598年(昭和13年)
口徑:100粍
砲身長:6500粍(65口徑)
初速:1000米/秒
最大射程:18700米(若19500米)
最大射高:13300米(若14700米)
發射速度:19發/分(計劃)
俯仰角:-10度から+90度
俯仰速度:16度/秒
旋囘速度:10.6度/秒
動力:電動油壓
重量:33.4頓(A型聯裝砲塔)
彈藥包全長:1163粍
彈藥包重量:28.2瓩
彈丸重量:13瓩
裝藥重量:5.83瓩
信管:九八式時限信管
製造數:169門
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室蘭で製造されし新鋭高角砲を搭載する防空驅逐艦 秋月
【一等驅逐艦 秋月型(乙型)主要諸元 】
一番艦 秋月
計劃:第四次海軍軍備充實計劃(昭和14年度マル4計劃)
起工:皇紀2600年(昭和15年)7月30日
進水:皇紀2601年(昭和16年)7月2日
竣工:皇紀2602年(昭和17年)6月11日
喪失:皇紀2604年(昭和19年)10月25日
沈沒地點:北緯20度29分/東經126度30分(フィリッピン・エンガノ岬沖)
除籍:皇紀2604年(昭和19年)12月10日
要目(計劃)
基準排水量:2701頓
公試排水量:3470頓
全長:134.2米
全巾:11.6米
吃水:4.15米
主機
ロ號艦本式重油專燃水管罐3基
艦本式オール・ギヤード蒸氣タービン2基
最大出力:5萬2000馬力/2軸推進
最大速力:33節
航續距離:8000海里/18節
燃料槽容量:1080頓(重油)
乘員:263名
兵裝:於皇紀2604年/昭和19年時點
六五口徑九八式一〇糎高角砲:聯裝砲塔4基8門
九六式25粍3聯裝機銃:5基15門
九六式25粍單裝機銃:13基13門
九六式25粍單裝機銃取附台坐:7基
九三式13粍單裝機銃:4挺
61糎4聯裝魚雷發射管:1基4門/次發裝填裝置附
九三式酸素魚雷:8本
九四式爆雷投射機:2基
爆雷投下軌條:2基
九五式爆雷:54個
短艇:1艙
對空警戒電波探信義
二式二號電波探信儀一型(二號一型電探/21號電探):1基
三式一號電波探信儀三型(一號三型電探/13號電探):1基
水測裝置
九三式探信儀:1基
九三式水中聽音機:1基
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我が方の防空戰能力を徹底的に破壞せんとするアメリカは
”元を絶つ”べく、新鋭戰艦群を室蘭に差し向けたのであつた。
日本製鋼所室蘭製作所の砲身工場は完全に破壞し盡くされ、
其の他の工場も3日から10日間に渡り操業停止に追ひ込まれた。
日鐵は煙幕を展張し敵の眼を欺かうとしたものの、懸命の抵抗も虚しく目標を確實に
捕捉する電探に加へ、彈着觀測機の誘導に依り徹底的に打ちのめされた。
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來寇せる醜敵を迎へ撃つは、帝國陸軍室蘭防衞隊である。
皇紀2603年(昭和18年)8月19日に發令せられたる軍令陸甲第八十八號を以て
編成されし室蘭防衞司令部の陣容は以下の通りであつた。
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【帝國陸軍室蘭防衞隊 編成】
室蘭防衞司令部:堀毛一磨少將指揮
第8獨立警備隊:大山柏少佐指揮
高射砲第141聯隊:武久太郎中佐指揮
獨立防空第32大隊(高射砲中隊4/照空中隊2):中田勝實少佐指揮
特設警備第355大隊:森芳夫中尉指揮
歩兵第26聯隊より抽出せる1個中隊
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室蘭防衞隊に課せられし主たる任務は、凾館方面の攻略を狙ひ噴火灣へ
侵入を試みる敵艦隊を撃破せしめる事竝びに津輕要塞の背面防禦にあつた。
皇紀2605年(昭和20年)3月中旬より建設が開始された室蘭臨時要塞も、
道南及び津輕方面に於ける敵の上陸作戰に對する備へに主眼が置かれてをり
室蘭の軍需工場地帶や市街地の防禦は二次的なものに限定されてゐた。
室蘭臨時要塞には2門の15糎砲を備へる小橋内砲台と、測距儀に依り砲の射撃を指揮する
測量山觀測所の建設が竝行して進めらてゐたが、7月の時點では未完成の状態にあつた。
一方の米軍は航空偵察冩眞、無線傍受、暗號解讀と云つた各種の諜報活動に依り
防衞隊側の詳細な情報を得てをり、配備されてゐる砲の種類や性能までをも把握してゐた。
小橋内砲台に配備されてゐる九六式十五糎加農砲の最大射程は約26粁であつた事から
米艦隊は約27.7粁の海上より砲撃を加へる事(アウトレンジ戰術)で我が方の火力を無效化した。
砲撃位置も南東~東南東の方角とし、噴火灣方面を指向する
要塞砲の射界制限を突くと云ふ、距離・方位共に隙のない攻撃であつた。
敵艦隊の電探射撃は恐るべき精度で我が方を壓倒した
米軍は諜報活動に依り得たる我が方の詳細な情報を基に、可能な限り危險を排除しつつ、
尤も效果的な攻撃方法を選擇する事で我が方に甚大な被害を與へた。
室蘭艦砲射撃に投入されたアイオワ級戰艦が搭載する16吋(40.6糎)砲の最大射程は
實に3萬8000米に達し、正攻法を採るならば我が方も戰艦を差し向けなければ
對抗不能であつたが、聯合艦隊の主力艦は既に多くが海底深く沈み、
殘存戰艦4隻も深手を負つてをり、何より燃料の重油が底を着いてゐた。
北海道は戰爭末期に至るまで大規模な空襲を受ける事がなかつた爲、今や最前線と成つた
九州や關東へと兵力を抽出され、來寇時には反撃の爲の戰力を殆ど保持してゐなかつた。
結果として、我が方は有效な反撃を行なふことも出來ぬまま一方的に蹂躙されたのであつた。
空襲、續く艦砲射撃の一聯の攻撃で室蘭が蒙つた損害は死者436名、重輕傷者49名、
被災世帶1941世帶、被災者8227名、家屋448戸大破とされてゐるが、
戰災と終戰の混亂の中で充分な調査が行へず、實際の死者數は更に多いとも云はれてゐる。
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前述せる通り、室蘭は重化學工業都市であると共に、
豐かな自然と美しき景觀に恵まれた風光明媚なる觀光地としても其の名を知られてゐる。
【地球岬】
繪鞆半島南端部に位置する地球岬(チキウ岬)は、本道を代表する素晴らしき眺望を誇る。
繪鞆半島の太平洋側は海拔100米前後の斷崖絶壁が、實に14粁に渡り聯なつてをり、
特に地球岬展望臺は海拔147米に在りて、宏大な海原を一望出來る天然の望樓と成つてゐる。
アイヌは斯樣な斷崖の地形を「チケウ(削れたもの)」または「チケウエ(其の斷崖)」と呼ぶ。
繪鞆半島南端に聳ゆる斷崖を特に「ポロ・チケウ(親である斷崖)」と呼び習はしてをり、
和人に傳はる過程で「チケウ」が「チキウ」へと轉訛した。
そして「チキウ」に「地球」を當てた事により、現在の名稱と成つた。
然し乍ら水平線が圓弧を描き、地球が球體である事を實感出來る眺望は
斷崖を意味する言葉からの轉訛にも關はらず、期せずして相応しいものと成つてゐる。
なほ、「チケウ」は「チケプ」と表記する事もある。
古來より口承を以て傳へられてきたアイヌ語の書記言語への轉冩は
容易ならざるものがあり、いづれの表記も誤りではない。
遙か對岸には駒ヶ岳の莊重な稜線が浮かび上がり、
快晴に恵まれた日には遠く恵山岬や下北半島までをも望むことが出來る。
地球岬こそは室蘭八景の代表格であり、初日の出の名所としても知られる。
喩うる言葉もなき素晴らしき眺望は昭和60年の「北海道の自然100選」、
續く昭和61年の「あなたが選ぶ北海道景勝地」で首位の榮冠に輝いた。
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【チキウ岬燈台】
太平洋を望むチキウ岬の突端、切り立つた斷崖の上には
紺碧の海に色映ゆる白亞の燈台が聳え立つてゐる。
太平洋航路の安全を見守る”チキウ岬燈台”である。
59萬カンデラの眩い光を以て、遙か24海里先の洋上を照らし出す
水銀漕廻轉式フレネル・レンズは大正9年4月1日に初めて其の燈を燈した。
白亞の燈台の周圍には、塀や建築物の基礎が殘存してゐる。
チキウ岬燈台は皇紀2651年(平成3年)4月12日を以て無人化されたが、
かつては霧笛舎や官舎、工作室が置かれ燈台守や帝國海軍部隊が駐留してゐた。
紺碧の海を臨む岬の尖端に在りし、緑の芝も眩い美しき庭は
かつて此処に暮らし、航路の安全を守り續けた防人の名殘である。
竣工より78年を經た皇紀2658年(平成10年)11月1日には、
第50囘燈台記念日を祝して行はれた「日本の燈台50選」に選定された。
續く皇紀2665年(平成17年)には「土木學會選奬土木遺産」にも選定されてゐる。
竣工より百年を迎へんとす美しき白亞の燈台は、
煌々と輝く燈火を標として、今日もまた船乘り達を導かんとす。
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【チキウ岬燈台 諸元表】
點燈年月日 皇紀2580年(大正9年)4月1日
位置 北緯42度18分08秒/東經141度00分04秒
構造:八角形塔形コンクリート造
塗色:白色
燈質:群閃白光/毎22秒を隔て8秒間に2閃光
Fl(2) W 30s
レンズ:第3等小型フレネル式(水銀漕廻轉式)
光度:59萬カンデラ(實效光度)
光達距離:24海里(約44粁)
塔高:15米
燈高:131米
沿革
皇紀2579年(大正8年)2月1日 霧信號所設置
皇紀2580年(大正9年)4月1日 燈台設置、初點燈
皇紀2613年(昭和28年)11月1日 無線方位信號所設置
皇紀2649年(平成元年)7月31日 霧信號所廢止
皇紀2651年(平成3年)4月12日 無人化
皇紀2652年(平成4年)10月31日 無線方位信號所廢止
皇紀2665年(平成17年) 土木學會推奬土木遺産に認定
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【金屏風】
チキウ岬とトッカリショの間に位置する斷崖絶壁が”金屏風”である。
拂曉と黄昏時、旭光が美しい淡黄の崖面を照らし、
金の屏風を立て連ねたかの樣な莊嚴たる景觀と成る事が地名の由來である。
對を成す景觀として、夕陽に映え銀色に輝く”銀屏風”がある。
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【トッカリショ】
チキウ岬の東、金屏風とイタンキ濱の間に位置する景勝地が”トッカリショ”である。
此の海岸には冬に成ると海豹(アザラシ)の群れが集まる岩が在り、
アイヌは其處をトカル・イショ(アザラシ・岩)と呼んだ。
其れが轉訛し、トッカリショと呼ばれる樣に成つたと云はれてゐる。
海豹はアイヌにとつて肉と毛皮を授けて呉れる貴重な動物であり、
トッカリショは糧食の不足する嚴しい冬を耐へ拔く爲の大事な漁場でもあつた。
かつては海豹の集まつた岩のみをトッカリショと呼んでゐたが、
今では砂濱全體を指す地名と成つてゐる。
金屏風から程近くには、アイヌ語で「我ら矢を射る所」を意味する”アトカニ岩”がある。
アイヌは難所を越える際、魔除けの爲に崖や岩に矢を射込むと云ふ風習を有してをり、
此處アトカニ岩もまた、矢を以て魔を祓ふ神聖なる場所である。
金屏風とトッカリショには、神祕的な傳承が殘つてゐる。
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ある夜のこと、トッカリショの空に二つの月が昇つた。
アイヌ達は其の異樣な光景を目の當たりにし騒然と成つた。
「月」の正體は、日の神が眠つてゐる隙に掠め取つた光の衣を纏う魔の神の姿であつた。
文化の神オイナ・カムイは「月」の正體を見破りて、
アトカニ岩に立ちたると、銀の弓を以て銀の矢を放ち魔の神を射落とした。
虜の月は地に墜ちたりて、空に平穩が戻れり。
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【イタンキ濱】
チキウ岬の北東に廣がる、太平洋に面した約1.7粁の砂濱が”イタンキ濱”である。
”日本の渚百選”にも選定された此の美しい砂濱の地名は、悲劇的な傳承に基づいてゐる。
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遙か昔
日高沿岸のコタン(アイヌの聚落)は、稀に見る不漁に見舞はれた。
餓ゑに苦しむアイヌ達は住み慣れた故郷を離れ、
糧を得られる場所を求め彷徨ひ、やがて此の砂濱に辿り着いた。
極度の饑餓から、沖に浮かぶ岩盤を寄り鯨(坐礁した鯨)と信じ込んでしまつた
アイヌ達は、焚火を圍み乍ら鯨が砂濱に打ち上げられる時を待つた。
眼前に浮かぶ”寄り鯨”は微動だにせぬ儘、徒に時だけが過ぎ、
遂には焚火を起こす爲の薪も盡き果て、先祖より受け繼ぎし大切な儀禮具である
イタンキ(アイヌ語で”椀”の意)までをも火に燒べ、猶も待ち續けた。
父祖らが眠る故郷を斷腸の思ひで離れ、險しい山道を乘越え、
死中に活を求めたアイヌ達は、其の切なる願ひも虚しく皆が砂濱に斃れたのであつた。
此の故事に基く地名”イタンキ濱”は、昔日の悲劇を今に傳へる。
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上掲の故事に由來する呼び名とは別に、アイヌは此の砂濱を
フム・ウシ・オタ(音・する・砂濱)や、ハワノタ(聲する砂濱)と呼び習はしてゐた。
此の地名の由來を明かすべく、皇紀2646年(昭和61年)9月に調査が行はれた結果、
イタンキ濱は「鳴き砂海岸」である事が確認された。
アイヌが”聲”と形容せるは、砂の發する音のことであつた。
鳴き砂が成立する條件は、砂に丸みと艷がある事、石英粒が多く含まれる事、
そして何より肝要とされるのが、砂濱が綺麗である事だと云ふ。
我々は、子孫より借り受けてゐる此の美しい砂濱を護り、
鳴き砂と云ふ神祕的な現象を保ち續けねばならない。
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海の青と空の蒼が映ゆる白い砂濱には、アイヌの傳承の他にもうひとつの悲劇が傳へられてゐる。
其れが”イタンキ濱事件”である。
皇紀2614年(昭和29年)10月9日、イタンキ濱に於いて遺骨發掘調査が行はれた。
當時の事情を知る地元住民の證言等を頼りに發掘された遺骨は實に125柱にも及んだ。
戰時下、日本は不足する勞働力を補ふべく支那より多數の勞働者を聯行した。
製鐵所や港灣で連日重勞働を課された彼らは劣惡な環境下で命を削られ、次々と斃れた。
落命せる彼らの遺體は、港から程近いイタンキ濱に無造作に埋められた。
發掘調査では小さな穴に9柱の遺骨が折り重なるやうに埋められてゐる事例も發覺し、
とても埋葬とは呼べないものであつた事がわかる。
室蘭に聯行された約1800名の支那人の内、實に560名以上が斃れたと記録されてゐる。
遙か異國の地に於いて、故郷や家族に想ひを馳せ乍ら
斃れし人々の無念たるや、如何許りであつただらう。
戰時下に於ける強制勞働問題は、日本が直面してゐる支那共産黨の支配する現在の支那との
敵對とは別に考へなければならない問題であり、先の大戰に於ける
反省すべき點は詭辯を弄する事無く、眞摯に向ひ合ふことが肝要であると考へる。
他方、過去の悲劇を利用し捏造や擴大解釋を以て自らの政治的主張や日本政府及び
現在・過去を問はぬ日本人への攻撃材料とする事は犠牲者の冒涜に他ならず、
反體制側のプロパガンダに安易に騙されぬやう、智識を深め眞贋を見極める事が肝要と成る。
多民族國家である共産支那に「支那人」なるものは存在せず、多種多樣な民族が
共産黨の壓政下、力づくでひとつに纏められてゐるにすぎない。
戰爭終結に伴ひ、多くの日本人が支那共産黨や不逞鮮人に虐殺されると
云ふ悲劇が多發した一方、中國國民黨の蒋介石は
「徳を以て怨みに報いる」の言葉の下に日本人への報復を禁じ、鄭重に祖國に送り返した。
領土的野心を隱さぬ支那共産黨とは決して相容れぬが、
其の壓政下には隣人として信頼に足る人々が居る事は慥かである。
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【白鳥大橋】
戰後の荒廢から復興を果たし、高度經濟成長を支へた鐵都室蘭の新たなる象徴として
君臨してゐるのが、皇紀2658年(平成10年)6月13日に開通した白鳥大橋である。
白鳥大橋は室蘭港を跨ぐ灣口聯絡橋であり、其の名は室蘭港が工業港と成る以前、
”白鳥の澗”と呼ばれし白鳥の飛來地であつた事に因んで名附けられた。
優美なる白鳥を聯想させる、白亞の大橋梁に相応しい名である。
關東以北最大の規模を誇る吊橋であると共に、
積雪寒冷地に於ける日本で唯一の大規模な吊橋でもある。
室蘭港の深い海底地盤や強風、降雪及び着氷に代表される樣々な技術的困難を、
世界初と成る新技術の投入を以て克服し建設された一大橋梁である。
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【白鳥大橋 主要諸元】
主塔基礎:地中連續壁併用逆卷剛體基礎工法
側塔基礎:地中連續壁剛體基礎工法
橋台(アンカレイジ/アンカー・ブロック):壓氣工法(ニューマチック・ケーソン工法)
主塔:自立型クレーン工法
鋼索:PWS工法
補助桁: 直下吊工法及び横取工法
制振裝置:電子制禦複合型チューンド・マスダンパー
全長:1380米(中央徑間:720米)
主塔高:140米
形式:3徑間2蝶番補剛吊橋(側塔2基)
航路限界:TP+54.45米
航路幅:300米
巾員:14.25米
道路構造規格:第1種3級
設計速度:60粁
車線數:2車線
總事業費:1153億圓
路線名:一般國道37號
區間:室蘭市陣屋町乃至同祝津町
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◆主塔基礎工事
最深部が20米にも達する室蘭港の海底地盤は
中央部に向かひ擂鉢状に傾斜してゐる上に、複雜な形状の地層を有する事から
橋の建設に際しては樣々な困難を克服せねばならなかつた。
橋の要である主塔基礎工事に於いては先づ人工島を建設、大深度掘鑿機を用ゐて堀込み、
厚さ1.5米、内徑34米の假設土留め止水壁を築きつつ
6米毎に鐵筋製籠を入れ、此處にコンクリートを流し込み
直徑67米の巨大な圓形の壁を築き上げた。
此の手法は「地中連續壁併用逆卷剛體基礎工法」と呼ばれ、液化天然ガス用の
地下埋設タンク建設の爲に開發されたもので、橋梁工事への応用は世界初の試みであつた。
地中連續壁は海面下103米、基礎本體73米と世界的にも前例のない大規模なものと成つた。
◆橋台基礎工事
橋台(アンカレイジ/アンカー・ブロック)は吊り橋を支へる
鋼索を定着させる巨大なコンクリートブロックである。
橋台は主鋼索の張力を自重で受け止め、地盤に傳達する重要な役割を擔ふ。
白鳥大橋の橋台基礎は縱46米・横33米の巨大なコンクリート製の凾であり、
凾の底に作業人員と作業機械を入れ掘り進め、深さ28米まで
徐々に沈下させつつ基礎を造る壓氣工法(ニューマチック・ケーソン工法)を用ゐて設置された。
◆主塔架設工事
巨大な塔柱は38からなる部位で構成されてゐる。
補剛桁から下はボルト締めとされ、上部に於いては熔接施工が行なはれた。
各部位間の接着面は10000分の1の精度で仕上げられてゐる。
此れは實に”10米で1粍”と云ふ誤差である。
極めて高度な技術を惜しみなく傾け、寸分違はぬ精度によつて加工された事で、
140米の威容を誇る主塔の根元と尖端の差は、僅か35粍に抑へられてゐる。
室蘭港は多數の船舶が行き交ふ重要な貿易港である爲、桁下高は
航行の障碍と成る事を避けるやう充分な餘裕を以て設計された。
桁下高の決定には、室蘭港の過去の出入船の實績から檢討を重ね
最大でマスト高51.5米の26万DWT(載貨重量頓數)級礦石運搬船を想定、
此れに潮位の變化、心理的餘裕などを加味し最終的に54.45米とされた。
吊橋は風や荷重に弱く、特に白鳥大橋の樣に長大と成る場合には萬全の對策が求められる。
白鳥大橋の補剛桁は、側面に鋭角な整流裝置を備へた箱桁と成つてゐる。
此の整流裝置は強風時や着雪状態に於ける風の影響を
最小限に抑へる效果を持ち、白鳥大橋を高度な安定性を誇る橋たらしめてゐる。
直徑5.2粍米のピアノ線127本を6角形に束ねたものを、更に52本束ね
造られた主鋼索(ケーブル・ストランド)の直徑は實に47糎に達する。
風雨及び積雪、海からの塩害に晒される主鋼索は世界初と成る
S字型ワイヤ及び特殊塗料による對策(S字ワイヤ・ラッピング工法)が施されてゐる。
日本初と成る積雪寒冷地の吊橋として、着雪・着氷對策にも充分な注意が拂はれてゐる。
振り子の原理を利用した電子制禦による振動除去裝置(複合型TMD)も
導入され、極めて高度な安全性と耐久性を實現してゐる。
陽が沈み夜の帖降りたると、白鳥大橋は88個の投光器と228個の照明燈に依り
美しく照らし出され、1日中消える事なき工場群の燈火と共に幻想的な夜景を創り出す。
室蘭夜景 案内
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陽光溢るる葉月の暮れ、地球岬に一人立ちたる。
澄み渡る空の蒼を鏡に映し、紺碧に染まりたる海原。
内浦灣の深き藍色に映ゆる白亞の塔。
勿忘草色から白藍へと、清らかなる諧調を魅せる蒼空に月白の雲が棚引く。
柔らかな陽射しを受けて輝く新緑の草木を、吹き拔ける海風が優しく搖らす。
對岸に見ゆるは莊重なる駒ヶ岳の稜線。
遙か遠くには恵山岬、下北半島の姿を見出すことが出來る。
青嵐は水面を優しく撫で、漣たちて潮の香が岬を包む。
花淺葱に染まりたる海岸に、波が寄せてはまた返す。
陽光射して白銀に輝く凪の海、其の表情は刻々と移らう。
室蘭港が黄昏の度を深めるに伴ひ、測量山の頂は七色に光りたる。
夜の闇の中、白鳥大橋と重化學工場群は煌々たる光を放つ。
かつて此の街に巨彈が降り注ぎ、築き上げた文明が悉く粉碎され、
多くの人々が戰火に倒れた事を誰が知らう。
室蘭艦砲射撃より丁度1ヵ月後の皇紀2605年(昭和20年)8月15日
帝國再建に未曾有の聖斷降り、忝き大詔を拜す
大空襲と艦砲射撃の猛攻を受け甚大な損害を被り、一度は瓦礫の山と化した
室蘭であつたが、 元來持てる優れた資源と恵まれた立地、
そして何より我らが父祖の不屈の努力に依つて見事再建を果たせり。
再び火を燈せし室蘭の工場群は重化學工業の牽引役として戰後復興に邁進、
我が國の高度經濟成長の原動力として大躍進を遂げ、東洋の奇蹟を世界に示した。
鐵の都の工場の燈は日が沈めども消える事なく、鎔鑛爐は今日も眞赤に燃え滾つてゐる
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