本項は、年表
プリンスのあゆみを補足する獨立項目となります。
プリンスのあゆみ・・・①・・・(1884~1945)
プリンスのあゆみ・・・②・・・(1946~1959)
プリンスのあゆみ・・・③・・・(1960~1969)
プリンスのあゆみ・・・④・・・(1970~2012)
本項は、プリンスが1956年の第3回 全日本自動車ショウに出展した
プリンス BNSJ 試製大型高級乘用車に関する詳細を記載し、
年表
プリンスのあゆみを補完することを期するものであります。
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1953年5月 プリンス自動車、新型乘用車(後のスカイライン)に関する技術懇談会を開催。
新型乘用車
スカイライン(ALSI型)の青写真が描かれ、本格的研究に着手。
同時期に石橋正二郎會長より
大型乘用車の開發案が提示された。
これに応えるべく
SJ乘用車委員会を發足させ、
スカイライン(ALSI型)と
並行して、大型高級乘用車
BNSJの開發にも着手。
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1956年4月20日~29日 第3回 全日本自動車ショウに
BNSJを出展。
東京都千代田区の日比谷公園内広場で開催された第3回 全日本自動車ショウに、
プリンスは
グロリアの源流と云える試作車を出展した。
GB1型1900ccエンジンを搭載し、小型車規格に縛られない
堂々たる体躯を誇る大型高級乘用車
BNSJである。
第3回 全日本自動車ショウに展示された威風堂々たる
BNSJの姿
BNSJの企画は、1953年5月から開始された
スカイライン(ALSI型)の開發に際しブリヂストンの
石橋正二郎會長から、米車に比肩する大型高級乘用車の開發を提案されたことに端を発する。
ブリヂストン 石橋正二郎會長
石橋正二郎會長は当時の國産自動車に對し、性能・外観とも全く不十分であると感じていた。
これには、当時の日本の情勢が大きく関係している。
まず経済的な障壁として、復興途上にある貧弱な日本経済の状況、大型高級車を購入できる
富裕層の絶対的な不足、3ナンバー車に課せられる非常に高額な税金が挙げられる。
次にタクシー中心の需要情勢と、劣惡な道路環境が挙げられる。
当時の日本では個人需要がほぼ皆無に近く、タクシーに代表される
フリート・ユースが最大の顧客であった。
当時の営業車は客を1人でも多く拾おうとする余り、危険かつ乱暴な運転をすることから、
神風タクシーと揶揄され、酷使に次ぐ酷使を強いられる中で、
接触事故やエンジン・ブローは日常茶飯事となっていた。
舗装率の極めて低い日本の
國道は
酷道と揶揄され、晴れならば砂埃で覆われ、
雨ならば泥濘が出現し、凹凸の惡路でリーフ・スプリングを折損することも日常茶飯事であった。
これらの酷使と惡路に耐え得る堅牢さと耐久性を確保する為に、車輛重量は増加し、
加速性能は低下、高速性能に至っては發輝する道路すら未だ整備されていなかった。
更に性能向上を阻むものとして、自動車の生命線とも云える石油を
全量輸入に頼らざるを得ない、というお國の台所事情があった。
故にガソリンを大喰いする大排気量車は容易には認められず、小型車規格は1500ccを
上限とし、それ以上の大型車には重課税を掛けることにより実質的に發賣を阻害するという
法規制の壁の前にして、小型車枠を越える排気量増大による性能の向上は難しかった。
そして、日本の自動車産業の未成熟があった。
戰前から長年の蓄積のある欧米に對し、日本を代表する自動車メーカーである
豊田・日産が自動車産業に進出したのは、1930年代になってからと云う状況であった。
参入から日が浅い故の経験の差が、外國製大型車との隔絶した
性能差の原因のひとつとして存在していた。
石橋會長が不充分に感じていた原因は、これらに代表される諸問題に起因するものであった。
また、後發メーカーの富士精密工業には資本・人員・設備・企業体力・販売網の不足と云う
問題が山積しており、現場の技術者からしてみれば市販車の改良・開發で
手一杯という状況で、さらなる要求に応えるのは難しいと感じていた。
(無論、純粋な技術的好奇心や大型車への挑戰心は別として、であるが)
プリンス セダン(AISH型)は、当時の國産乘用車の中で最大の排気量とボディ・サイズを
誇っており、これ以上大きな乘用車の生産と販賣には前途多難が予想された。
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石橋會長は大型乘用車の開發を指示するにあたって、2種類の案を提示した。
ひとつは現行市販車である
プリンス セダン(AISH型)を基礎とし、
エンジンを
1500ccから
1900ccに拡大し、
ボディを全長で
200mm延長、巾で
100mm拡幅した發展型の上位車種案であった。
参考:1956年型
プリンス セダン(AISH-V型)
もうひとつは、最新の
OHC(オーバー・ヘッド・カムシャフト)機構を備えた
2400ccの大排気量エンジンと、斬新なスタイルを誇る完全な新規開發車種である。
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※以下は完全な推測であるが、1963年2月に登場した日産 セドリック・スペシャル(H50型)の
為に開發されたK型6気筒・2800ccエンジンのような、既存の
4気筒エンジンに
2気筒を継ぎ足した
6気筒が構想されていたのでは無いだろうか。
FG4A型エンジンは
4気筒・1484(イシバシ)ccで、1気筒あたりの排気量は
371ccとなる。
1484÷4=
371
このピストンを流用し6気筒化した場合
371×6=
2226
となり、石橋會長の提案の
2400ccに近くなる。
FG4A型エンジンは、後に
グロリア(BLSIP型)に搭載された
GB30型で実現したように、最大で
1862ccまでボア・アップの余地があり、6気筒化による
2400ccへの拡大は充分可能であった。
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理論的には完全と謳われる回転バランスを誇る6気筒エンジンは、長時間の高回転運転や
静粛性・耐久性といったあらゆる面で、小排気量4気筒エンジンを上廻っており、
これにOHC機構を与えることにより、OHV機構よりも高回転・高出力を実現可能であった。
しかしながら、既存の4気筒エンジンのボア・アップで作ることが可能だった
1900ccエンジンに對し、6気筒・2400ccエンジンは新規にエンジン・ブロックやクランク・シャフトを
開發せねばならず、しかも当時の國情からして商品として成立するかには
疑問符を付けざるを得ず、市場に於ける競争力は低かったと云わねばなるまい。
完全な新型車となれば、新たにプレス機や加工機械を導入し生産ラインを整備するという
厖大な投資が必要とされ、当時の富士精密工業の資本力では過大な要望であった。
それ故に
BNSJと違い、2400cc車は試作もされなかったのだと推測される。
しかしながら石橋會長は無理難題を押し付けていたのでは無く、本来あるべき車の姿、
外國の本格的な自動車と比肩する國産車という、理想の姿を追求していたに他ならない。
石橋會長は、長年の夢であった自動車産業への参入に並々ならぬ情熱を抱いていた。
足袋に始まり、タイヤ、各種ゴム製品、自転車、モーター・サイクルと事業を拡大してきた
石橋會長は、自動車製造での成功を自らの事業家人生の集大成にすべく臨んでいた。
石橋正二郎會長は当時既に還暦を過ぎており、短期間でプリンスを
國際的メーカーに育てるべく、リスクを覚悟の上で積極的な事業拡大に打って出た。
(尤も、若い頃から周囲の反對もどこ吹く風と積極果敢な事業展開を敢行していたが)
法規や諸事情に縛られ日本國内でしか通用しない車から、世界で堂々と渡り合える
國際レベルの高性能車への飛躍こそが、石橋會長の狙いであった。
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しかしながら、富士精密工業の現場の技術者達は石橋會長の提案に困惑した。
当時のプリンス技術陣はシャシー/ボディ設計課が18人、実験部隊が12人しかおらず、
新型市販車
スカイライン(ALSI型)の開發、既存市販車の改良・クレーム対処等に
忙殺されており、更なる別のプロジェクトに人員を割く余裕は持ってはいなかった。
かといって、経営者たる石橋會長の意向を無視する訳にはいかなかった。
そこで、市販車の開發・改良は日村卓也氏を中心とした設計班の手に依り進める一方、
石橋會長の提案に對しては、新山春雄專務が委員長の
SJ乘用車委員会を發足させ、
田中次郎氏が中心となって開發を担当することになった。
厳しい条件の中で、本命の市販車の開發に支障がないように出来るだけ
人員と予算をかけない範囲で石橋會長の意向に沿う、という方針が採られた。
この対応について石橋會長は後に「自分の意向を示すと、多くの人達が冷ややかに見ていた」と
語っており、既に石橋會長とプリンス側との意思疎通が巧く行っていなかったことが察せられる。
このような摩擦が、石橋會長がプリンスを手放す遠因のひとつになったとも考えられる。
当時の厳しい諸条件を鑑みると、石橋會長の提案は(少なくとも)その時点では現実的では
無かったが、そう遠くない將来に訪れるであろう貿易自由化に伴う外國車との競争を予期して
先手を打つ、という先見の明は後世の視点で安易に否定することがどうして出来ようか。
石橋會長が大型高級乘用車の開發を提案した前年の1952年7月1日には、関税と外貨割当制限が
あるものの、外國車の國内取引制限が撤廃され輸入の原則自由化が実施された。
制限撤廃により、高性能かつスマートな外國車はその高価格にも関わらず飛ぶように売れ、
1953年度の乘用車市場は輸入車の比率が実に68%に達し、トラック・バスはともかく、
乘用車に関しては國産車不要論が大手を振って罷り通る有様であった。
この様な状況を改善しない限り、國産車の未来、延いては日本の産業そのものに早晩
致命的な危機が訪れると大局的な視点で考えたならば、それは杞憂とは呼べないものであろう。
なればこそ石橋會長は、無理を承知で大型高級乘用車の開發を指示したのではないだろうか。
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1953年5月頃から開發の始まった
BNSJは、1956年の春に完成した。
エンジンは、
プリンス セダン(AISH型)に搭載されている
FG4A型1484ccをベースに開發された。
参考:ベースとなった
FG4A型エンジン【1956年型
プリンス セダン(AISH-V型)用】
シリンダーのウェット・ライナーを取り去り一体鋳造に改め、ボアを75mmから84mmに拡大。
ボア×ストロークを84mm×84mmのスクエアとし、ボア・アップの上限である
1862ccまで排気量を拡大したエンジンは
GB1型と命名された。
エンジンやシャシー関係のパーツ類の多くは、
プリンス セダン(AISH型)用を流用。
並行して開發の進められていた
スカイライン(ALSI型)のサスペンション等も
試験的に採用され、車輛の大型化と重量増に対処すべく一部は強化の上で使用された。
BNSJは本命と云える
スカイライン(ALSI型)と並行して開發が進められ、部品も共有した
寫眞は試作段階の
スカイライン(ALSI型)で、リヤ・ウィンドウは
まだラップアラウンド・タイプでは無い面積の小さなもので、フロントウィンド・シールド上部の
特徴的なレイン・ガーターも備わっていない。
試作された2台の
BNSJは、自動車ショウに出展された1台が黒のモノ・トーン塗色、
公開されなかったもう1台がベルト・ラインで塗り分けた2トーン塗色を施されており、
それぞれ違うデザインのベルト・ラインが採用されていた。
公開されなかったもう1台の
BNSJ、撮影場所は荻窪工場内の実験棟前広場
リヤ・フェンダー後端の鋭いテール・フィンは、まさに飛行機屋の面目躍如と云えよう。
プリンス セダン(AISH型)や
スカイライン(ALSI型)と云ったプリンス車の
デザインにはフォードの影響が強く感じられ、
BNSJにもそれは表れている。
当時の標準的なスタイリングと呼べる、1954年型
フォード メインライン4ドア・セダン
ルーフ・ラインやリヤのラップアラウンド・ウィンドウ形状、Cピラーのクローム・フィニッシャー、
丸みを帶びたトランク・フードのライン、フロント・フェンダーやスクエアなウィール・アーチ、
スカイライン(ALSI型)にも採用された、フロントまで廻り込んだレイン・ガーター等に
近似性が見てとれるデザインとなっている。
なお、1953年秋にデビューした1954年型フォードは1955年にデビューした
トヨペット・クラウン(RS10型)のデザインにも大きな影響を与えている。
一般公開されなかった2トーン・カラーの
BNSJには、フロント・フェンダーから
延びるモールディングが、ドアの部分で一段下がる獨特のデザインが与えられていた。
このベルト・ラインのデザインには、1955年型
プリマス ヴェルヴェディーアの影響が感じられる。
1955年型
プリマス ヴェルヴェディーア
※情報提供・・・inQue氏
後退翼のエッセンスが薫るテール・フィンの造型には、1955年型シボレーの影響が感じられる。
テール・フィン先端にリヤ・コンビネーションランプを組み込んだ1955年型
シボレー ベルエア
薄く成型されたルーフや、湾曲したラップアラウンド・ウィンドシールド、
長大なリヤ・オーバーハング等は流石に真似出来得ぬものであったが、
全体的なシルエットの印象には共通するものが感じられる。
ウィール・キャップの造型は、後の
グロリア(BLSIP-1型)に影響を与えたように思える。
上部にヘッド・ランプ、下部にターンシグナル・レンズを配置した小判型の
ランプ・ベゼルのデザインには、1953年型及び1954年型ビュイックの強い影響が感じられる。
楕円型のランプ・ベゼルとフロント・グリルが特徴の1954年型
ビュイック ロードマスター
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小山のように盛り上がったボンネット先端には
「 P R I N C E 」のエンブレムが誇らしげに並び、
格子状のパターンを持つグリル中央には、大きなV字型のクレスト(紋章)が燦然と輝いていた。
ベルト・ラインはフロント・ドアで枝分かれする、2段構えの凝った形状となっている。
試作された2台に、別々のデザインのベルト・ラインが奢られている。
サイド・シルは、先端がストーン・ガード形状のスカート・モールディングで引き締められていた。
特徴的なランプ・ベゼルやグリル・パターン、もう1台とのベルト・ライン形状の違いに注目
BNSJは第3回 全日本自動車ショウに展示された車輌の中では
唯一の新型車であると共に、日本のモーター・ショーの歴史に於ける
初の参考出品車(ショー・カーないしコンセプト・カー)であった。
それ故に注目度も高く、その巨躯と相俟って多くの来場者達の視線が注がれた。
一段高いターン・テーブルに飾られ、多くの来場者から視線を注がれる
BNSJ(中央)
手前に見えるのは、サン・バイザーを装着した
プリンス セダン・スペシャル(AMSH-1型)
ラヂオや新聞は、進駐軍が我物顔で乗り廻す米車並みの巨体を誇る
國産車を見て「日本でもこんなクルマが作られるようになった」と報道した。
敗戰國である日本から、戰勝國である米國の大型車に比肩する威風堂々たる高級乘用車が
登場したと云う事実は、困窮に耐える國民に対し未来への自信を与えるには充分であった。
飛行機開發に携わった技術者達の多くは、日本が戰爭に敗れたのは飽く迄も
圧倒的な物量に押し潰されたのであって、技術的には決して劣ってはいないと信じていた。
この想いは國民も等しく抱いており、大東亞戰爭に於ける緒戰の大捷を何よりの証左とし、
同じ土俵に立ったのならば負ける道理が無いと確信していた。
(実際には基礎工業力や技術力の面でも大きな差を付けられていたが)
日米の鬪いは戰後、飛行機から自動車へとステージを変えながら継続していたのであり、
BNSJこそは、立川/中島飛行機の技術者達が造り上げた
新型決戰機であったのだ。
「國際分業の中で日本が自動車産業を育成するのは無意味である」と、日本銀行総裁である
一萬田尚登が發言し、自動車は総て輸入で賄えば良いという
國産車不要論が
大手を振って罷り通っていた当時に於いて、日本の技術者が國際レベルの大型高級乘用車を
作り得たことは、例えそれが試作車と云えど極めて大きな意味を持っていた。
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プリンス BNSJ 試作大型高級乘用車(1956)諸元
全長:4740mm 全巾:1765mm 軸距:2650mm 車輛重量:1390kg
エンジン:GB1型 4気筒OHV・1862cc 最高出力:75ps/4400rpm 乗車定員:6名
懸架装置:前 ダブル・ウィッシュボーン 後 リーフ・リジッド
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プリンスは後に、
グロリア(BLSIP型)及び
グランド・グロリア(S44P型)の2種の3ナンバー車を
發売したが、いずれも小型車の
スカイライン(ALSI型)及び
グロリア(S40型)の
車体を流用し豪華装備を与え、排気量のみを拡大する手法を採用した。
その為、車輛寸法は小型車規格内に収まっていた。
車輛寸法の面でも大型車となるプリンス車は試作車の
BNSJと、7台のみが製造された
皇室御料車プリンス・ロイヤル(S390P-1型)の2車種だけに留まり、排気量・寸法の両方で
小型車規格を超える大型車の市販は、終ぞ実現出来ずに終わってしまったのであった。
1956年3月に発売され、同年に御料車として皇太子明仁親王殿下(今上天皇陛下)に
献上された
プリンス セダン・スペシャル(AMSH-1型)には、
BNSJ用に開發された
GB1型1900ccエンジンが市販車に先行する形で特別に搭載されていた。
参考:1956年型
プリンス セダン(AISH-V型)
皇太子明仁親王殿下のお車には、特別に
1900ccエンジンが搭載された。
翌年に献上された1957年型
スカイライン・デラックス(ALSID-1型)も、
GB1型1900ccエンジンが搭載された特別車であり、3ナンバーを掲げていた。
御愛用の
スカイラインにお乗りになられる皇太子明仁親王殿下、場所は軽井沢プリンスホテル(旧)
「 3 た0370 」を掲げるライセンス・プレートに注目。
グロリア(BLSIP-1型)と混同されることがあるが、ベルト・ラインの形状や
ハーフ・タイプのウィール・キャップから
スカイライン(ALSID-1型)であると判断出来る。
モノクローム寫眞なので判別不可能ではあるが、このスカイラインは殿下の御要望に従い、
標準色には存在しないモスグリーンの塗色を施され、眞に上品な仕上げとされていた。
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結果的には
BNSJは市販化されることなく、2台の試作車が製作されたに留まった。
しかし
GB1型1900ccエンジンは後に
グロリア(BLSIP-1型)に搭載される
GB30型の原型となり
デザインやボディ/シャシー試作で得られた経験は市販車開發に大いに生かされることになった。
先に示した諸般の事情故に市販化こそ叶わなかったものの、
BNSJは有形無形の財産を残し、
その後に続いたプリンスの車輛開發に多大な影響を与えたのであった。
BNSJはプリンスの目指す高級乘用車路線をより明確に示し、トヨタ・日産とは明らかに違う
別格のメーカーであることを強く訴求するに充分な説得力と迫力を湛えていた。
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1953/54年型ビュイックの影響を受けた縦型のヘッドランプ・ベゼルに、プリンスが後に
手掛けることになる
皇室御料車プリンス・ロイヤル(S390P-1型)や、
共通したデザインを持つ
プリンス・グロリア(S60型)に採用された、
縦型4灯ヘッド・ランプの面影を連想するのは考え過ぎであろうか。
直接的な関聯は無いにせよ、技術陣がプリンス自動車工業として最期に手掛けることになった
大型高級乘用車である
プリンス・ロイヤルの開發の際に、最初に手掛けた
大型高級乘用車である
BNSJのことを回顧したと考えても不思議では無いだろう。
麗しき
皇室御料車プリンス ロイヤル(S390P-1型)
高級・豪華・高性能を標榜し、國際レベルの大型高級車を日本人の手で実現するという
プリンスの方向性を世に明確に示した最初の車、それこそが
プリンス BNSJであった。
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扶桑の國の自動車産業、未だ払暁の中にありし日に
抱きし石橋會長の其の志の高さは、黎明に映ゆる富嶽の嶺をも凌ぐものなり
