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2016年12月04日 イイね!
映画『コクリコ坂から』~1963年的「細部」とクルマが気になる 《7》この映画は、二つの物語が併行して進行する構成である。そのひとつは、古い建物の“カルチェラタン”が取り壊しの危機にさらされているのだが、それがどうなるかということ。もうひとつは、松崎海と風間俊が「父の写真」として持っているものが同じである。つまり、二人はともに「沢村雄一郎」の子であるかもしれないという問題だ。

その“カルチェラタン”だが、松崎海の提案で始まった大掃除は、ビジュアル的に愉しめるシーンがいっぱいだ。まずは、隊列を組んでターゲットに突入する女子生徒の軍団が微笑ましい。そして、そこで先頭に立つ「海」は、下宿屋の女将としての勝負服なのか、他の生徒のようにエプロン姿ではなく、ただひとり割烹着を着ている。その女生徒たちに感謝の言葉として、水沼生徒会長が「ヴォランティーア」と大仰に発音するのも笑いどころか。

ただ、着々と「お掃除」が進み、“カルチェラタン”という場で毎日顔を合わせている松崎海と風間俊なのだが、どうも俊の行動がおかしい。メルと一緒の場にいることをさり気なく避けているようであり、また、メルには下校時の挨拶をしなかったりもする。「何かあったのか?」、繊細な水沼が気づいて親友を問いただすが、俊は何も言わない。

風間俊の様子がおかしいことに気づいた松崎海は、ついに行動した。意を決して雨の中、校門のところで待っている松崎海。自転車で通りかかった風間俊は、もうこの問題から避けられないと思ったか、メルと一緒に歩き始めた。二人の脇をクルマが通り過ぎて行く。このサイドビューはコンテッサであろう。

“意志的”な少女・松崎海は、正面突破で風間俊に問う。「嫌いになったのなら、ハッキリそう言って」。言われた俊は、胸ポケットから、写真を取り出した。「沢村雄一郎、俺の本当の親父」。言われて立ち止まる松崎海。

「まるで安っぽいメロドラマだ」「どういうこと?」「市役所に、戸籍も調べに行った。確認した」「じゃあ……」「俺たちは、兄妹(きょうだい)ってことだ」「……どうすればいいの?」「どうしようもないさ。知らん顔をするしかない」

そして、「いままで通り、ただの友だちだ」と言い残して、風間俊は自転車で去って行った。雨の中、立ちすくむしかない松崎海──。その晩、松崎海は寝込んでしまった。「空ちゃん、学校で何かあったの?」、心配するコクリコ荘の人々。布団の中で「海」は、アメリカに行っている母、いまは亡き父に、夢の中で会っていた。

パジャマ姿で階下へ降りた「海」、台所からは炊事の音が聞こえ、ご飯と味噌汁ができている。振り向いた母が、優しく言った。「よく眠れた?」。そして父は「海!」と呼び、航海の無事を祈るあの二枚の旗を持って両手を広げる。そんな父の胸に飛び込む「海」の耳に、父の声が聞こえた。「大きくなったなあ!」

……というのは、すべて夢だった。涙を拭いて「海」は起き上がり、着替えて、階下の台所へ。お釜には、既に米が入っている。マッチでガスに火を点け、花の水を取り替えた。そして旗を持って掲揚柱へ行き、いつもの旗を揚げる。

傘をさして、学校へ向かって歩く「海」を、スクーターが追い越して行く。これはシルバーピジョンだ。そして、風間俊と松崎海の間はモヤモヤしていても、“カルチェラタン”の清掃は着々と進んでいる。時計台も復活し、鐘の音が鳴り響いて、生徒たちが拍手した。

しかし、そこにニュースが! 生徒会長の水沼が報告する。「緊急集会だ。理事会が夏休み中に(カルチェラタンを)取り壊すと決定した」。

急遽、対応策を協議する生徒たち。風間俊は、港南学園の校長なんかは飛び越えて、「理事長に、直談判したらどうかな」と提案する。「徳丸財団の理事長だぞ。会うのはむずかしい」と言う水沼。しかし、生徒たちの後押しを受けて、風間俊が言った、「行こう、水沼。東京へ」。それに応えた水沼は、松崎海を指名した。「行くか! “海”も来てくれ、三人で行こう」──

こうして翌日、三人の高校生がJRの……ではない「国電」の京浜東北線、その桜木町駅に集合するが、ここは「クルマ」も含んで、いろいろと愉しめるシーンになっている。

まず、駅前の広い通りを、市電やバスと並んでクルマが行き交う様子が描かれる。トヨタのパブリカが行き、続く小型のセダンはヒルマンの旧型(“ダルマ”と呼ばれたマークⅣ、PH10型)だろうか。そして、マツダの大型オート三輪が行き、それに続く赤い小さなクルマはR360クーペのようだ。

駅には、風間と水沼が先に来ていて、そこに松崎海が合流した。駅構内には広告の看板が並び、パイロット万年筆、赤玉ポートワイン、そして山猫軒のシュウマイといった文字が見える。横浜のシュウマイと言えば有名な老舗があるが、パイロットや赤玉が実在のものであるのに対して、ここで「山猫軒」とフィクションになっているのは、何か理由があったのか?

また、集合した三人の背景として、切符売り場と「30円区間」の自動販売機が映る。「1963年」当時の最短区間の切符は30円で、そしてこの切符だけは、無人による自動販売が行なわれていたようだ。チラッと映った路線図から、彼らが横浜駅ではなく、桜木町駅に集合したことも、それとなくわかる。

そして、彼らを乗せた栗色の京浜東北線が東京へ向かうと、やがて画面は、東京の市街の「絵」になる。桜木町駅前以上に多くのクルマが走っており、その中で目立つ青いコンパクト車はフォードのアングリアだろうか。そして初代のクラウン、そのマイナーチェンジ版のサイドビューが、目の前を過ぎていく。

新橋に着いた彼ら三人は、アポなしで、徳丸ビルに突入した。受付で四階に行くように指示されると、そこに秘書がやって来る。「社長は忙しいんです、予約なしで来ても、会えないかもしれませんよ」。言われて、水沼が応えた。「申し訳ありません、あらかじめお願いしてはお会いしていただけないと思い、押しかけました」

(つづく)  (タイトルフォトはパブリカ初代、トヨタ博物館にて)
Posted at 2016/12/04 18:16:03 | コメント(0) | トラックバック(0) | クルマから映画を見る | 日記
2016年12月02日 イイね!
映画『コクリコ坂から』~1963年的「細部」とクルマが気になる 《6》「白い花の咲く頃」をみんなで歌った討論集会が終わった後で、松崎海と風間俊は夕暮れの坂道を一緒に歩いた。そこで「海」が提案する。
「あのね、お掃除したらどうかしら?」
「古いけれど、とってもいい建物だもの。キレイにして女子を招待したら、みんな素敵な建物だって思うわ」
この後の別れ際、俊が「ありがとう、メル」と、初めてアダ名で呼びかけ、二人の距離がまたひとつ縮まった。

夜のコクリコ荘では、討論集会の様子を聞いた北斗女史が「相変わらずねえ」と笑い、そこにウイスキーが登場。ツマミにチーズが切られ、ゴキゲンになったのか北斗女史が、自分のために開かれる送別パーティに、港南学園の「男の子たちも呼ぼうよ!」と言い出した。後日、風間と水沼の二人がコクリコ荘にやって来るのは、こういう経緯からだ。

この夜にコクリコ荘で持ち出されたウイスキーは、ジョニーウォーカーの黒、通称「ジョニ黒」だった。また、コクリコ荘での送別パーティで合唱される曲が「赤い河の谷間」。そして、もう少し後のシーンになるが、アメリカから帰国した「海」の母が配ったお土産がビーフ・ジャーキー。

この頃、つまり「1963年」頃は、ウイスキーといえばスコッチで、「舶来」ならジョニー・ウォーカーだった。そして赤よりも黒ラベルで、“ジョニ黒”の方がプレミアム。カントリー・ミュージックの「レッド・リバー・バレー」は、これをビートに乗せたインスト曲「レッド・リバー・ロック」の方が、多くの人に記憶されているかもしれない。そしてビーフ・ジャーキーは、この頃では珍しかった外来の食べ物のひとつだった。

その北斗女史の送別パーティの日。初めてコクリコ荘に来た風間俊に、古い建物の中を案内しながら、松崎海は自身について語っていく。

父は「船に乗ってたわ」「こんな家でしょ、お父さんとの結婚に、お爺ちゃんたちは猛反対」「だからお母さんは家を出て、駆け落ちしちゃったの」
(信号旗は)「私が子どもの頃ね。旗を出しておけば、お父さんが迷子にならずに帰ってくると教わって」「物干し台に旗を出して、お父さんの帰りを待っていたわ。毎日、毎日……」

「でも、朝鮮戦争の時、父の船が沈んで、それっきり」
「それでも毎日、旗を出してた」「あの旗竿は、この家に来た時、旗を揚げられないって私が泣くもんだから、お爺ちゃんが建ててくれたの」

そして、いまはアメリカに行っている母の書斎へ行く。壁に貼られた古い写真を見る二人。「それはお爺ちゃん。父はこっち。ハンサムでしょ」。話題が父のことになったので、「海」は、「私、この写真が好きなの」と三人が並んで撮った写真を取り出して、俊に見せた。

しかし、その写真と、そこに記された署名を見た俊の様子がおかしくなる。「沢村雄一郎……」

パーティが終わり、運河沿いの家に、帰宅した風間俊。父は晩酌をしながら、茶の間で野球中継を見ていた。テレビからは、「長嶋、三振!」というアナウンスが聞こえている。

当時、テレビの野球中継といえば、日本テレビの巨人戦だった。そして、その巨人軍の四番打者が長嶋茂雄。記録よりも「記憶」に残る選手として、いまもなお、日本の野球史で語り継がれているスーパースターだ。帽子が飛んでしまう豪快な空振りとともに三振するのも、彼の愛されるパフォーマンスのひとつであった。

そんな父を横目に、二階に上がった俊は、戸棚からアルバムを出して、自室でそれを開いた。そこにあるのは、沢村雄一郎ら三人で撮った写真。何と、松崎海と風間俊は、それぞれ「父の写真」として秘蔵していたフォトがまったく同じものだった。

その翌朝。風間父子を乗せたタグボートが行く。息子の俊が、船を操縦している父に言った。「父さん、聞きたいことがあるんだ」

「沢村雄一郎って人が、俺の本当の父親なんだよね」
「そのことは、前に話したろう。……お前は、俺の息子だ」

そして、“養父”は“息子”に語っていく。「あの日は、風の強い日だった。沢村が、赤ん坊のお前と戸籍謄本を持って、俺の家に来た」「俺たちは、子どもを亡くしたばかり」「母さんが、お前を奪い取るように抱いて、乳を含ませた」

「沢村は、いい船乗りだった。朝鮮戦争で、機雷にやられちまってな」
「ミルク代を、ずっと送ってくれていた」
「近頃、あいつによく似てきたな」「お前は、俺たちの息子だ」

風間父子のタグボートが、コクリコ荘の前を通り過ぎようとしている。しかし今日の俊は、答礼の旗を出す気配がない。一方、“丘の上”では旗が揚がり、その様子が海から見えた。

コクリコ荘で、いつものように旗を掲揚した「海」は、下宿の二階、広小路の部屋に駆け上がった。メルが訊く、「広さん、来ました?」
窓から、港を見る広小路。「今日は、通らないみたいね」

実はコクリコ荘では、メルが旗を掲揚するところからは、海=港の海面が見えなかった。しかし、二階の広小路の部屋からは港が見えるので、画学生の彼女は「答礼するタグボート」をテーマに、港の絵を描いていた。それを知ったメルが、一度、そのボートが掲げる旗を見たいと、広小路に頼んでいたのだったが……。

この日、メルと広小路の前を、答礼旗を掲げたタグボートが通ることはなかった。

(つづく)  (タイトルフォトはスタジオ・ジブリ公式サイトより)
Posted at 2016/12/02 13:43:55 | コメント(0) | トラックバック(0) | クルマから映画を見る | 日記
2016年11月30日 イイね!
【 20世紀 J-Car select 】vol.04 サニー1200GX5近年こそ対決色がやや薄れた感はあるが、1966年以降の日本クルマ史で、最も激しいライバル・ストーリーを繰りひろげた組み合わせのひとつ。それが、ニッサンのサニーとトヨタのカローラだった。

1960年代半ば、「モータリゼーション」という風潮が一気に盛り上がり、そんな中で「大衆車」という言葉とともにデビューしたのがこの両車である。この時、人々はクルマというものが身近になったことを強く実感した。

そして、当時の“ビッグ2”であったトヨタとニッサンがコンパクト車=大衆車を作ったというインパクトもあった。この二台が登場したことで、一般カスタマーにも“クルマ世界”とその魅力が一気に浸透したはず。日本におけるクルマの大衆化と一般化において、この2モデルが果たした役割はとてつもなく大きいと見る。

そして、1970年代、この両モデルともに第2世代となった。初代でエンジン排気量に「100ccの差」があることを強調されて、カローラに遅れをとったサニーは、搭載エンジンを1200ccにスケールアップする。その後に、とくにレーシング・シーンで“名機”と呼ばれることになるA12型の登場だ。そしてスタイリングでも、初代の「直線主義」から脱して、やや丸みを帯びた“豊かさ”をアピールするものとした。

ただし、スタイリングとしてはマイルドなイメージになったものの、このサニーは、折りから第2世代からはじまったカローラとの“スポーツ度”競争では、激しいチャージを見せる。

デビュー後すぐに、サニーは、キャブレター(燃料供給装置のひとつ、当時はまだ「燃料噴射」は一般化していなかった)を強化した「GX」というスポーティ・グレードを、セダンとクーペの双方に加えた。これが、トータル・バランスにすぐれ、扱いやすく、かつ俊足のマシンとしてヒットした。トヨタからのリトル・モンスター、あのレビン/トレノは、このGXへの対抗策という意味が含まれていた。

さらにサニーは、1972年、そのレビン/トレノ登場とほぼ同時期に、今度は「GX5」を投入する。この「5」は、マニュアル5速ミッション搭載車であるを意味していたが、しかし、これは並みの5速ではなかった。

当時もまた今日でも、5速のシフトパターンは、1~4速をH型にして、そして5速を右上などの別立てに配置するのが普通だ。しかし、GX-5の5速シフトはそうではなかった。H型に配されていたのは2~5速で、別立てになっていたのが1速だったのである。

これは、いったん発進してしまったら、1速まで落とすことはまずない。それなら1速を発進専用として別に置き、2速から5速を使いやすいように配した方がいい。ドライバーは、クロスレシオにした各ギヤを駆使して走ってほしいというコンセプトとアピールで、そのシフト・パターンがレーシング・マシンと同じということでも、サニーのファンを喜ばせた。

トヨタのレビン/トレノが、いわばストリート・ファイター的な押し出しだったのに対して、サニーのスポーツ性とそのイメージは、サーキット・レースと結びついていた。そんな「レーシーな」スタンスとストーリーも、この「GX5」には似合っていた。

(2002年 月刊自家用車「名車アルバム」より 加筆修整)
Posted at 2016/11/30 11:25:16 | コメント(0) | トラックバック(0) | 00年代こんなコラムを | 日記
2016年11月27日 イイね!
【 20世紀 J-Car select 】vol.03 カローラ・レビン/スプリンター・トレノ 1972年これが初代の「カローラ・レビン/スプリンター・トレノ」(TE27系)で、今日でもゲンキに街や街道を走り回っている「ハチロク」(AE86系)の祖先にあたる。駆動方式はもちろんFR、全長4mに満たないコンパクトなボディに、1600ccのツインカムエンジン(2T-G)を搭載していた。

ここで「もちろんFR……」と記したのは、この「レビン/トレノ」がデビューした1972年という時点で、トヨタにFF車は存在しなかったからである。サイズ的に最小であったパブリカに至るまで、当時のトヨタ車は、そのラインナップのすべてがFRだった。エンジン縦置きによるFF方式のターセル/コルサが登場するのは1978年になる。

ただ、後年の「ハチロク」と初代の「レビン/トレノ」では、小さなボディ+ハイパワー、駆動方式はFRなど、共通項目は多いのだが、どうも“何か”が違っていた。「ハチロク」は、このいささかランボーだった(?)祖先と較べると、クルマとしてはるかに優等生であると思う。

何といっても1980年代生まれである「80系カローラ」は、クルマの全体が総合的なバランス感覚の中で企画・設計されていた。そのコンセプトは、駆動方式にFRを踏襲した「86系」も同じだった。しかし、1970年代前半という時代に生きたレビン/トレノには、そんな平衡感覚は乏しかった。あるいは、1960年代的な奇妙な“熱さ”を引きずっていた。

この「27系」レビン/トレノは、大衆車カローラのセダンに対するスペシャル版としてシリーズに加えられたクーペがその出発点になっている。そして、このクーペに、キャブ・チューンでエンジン出力を上げた「SR」が、まず追加された。この仕様でも既にけっこうスポーティであり、十分に《走り》も楽しめたのだが、しかしトヨタは、そこで立ち止まらることをしなかった。「もっとパワーを!」である。

そのテーマのもとに行なわれたモディファイとチューニングは、はからずも、1960年代に(プリンス時代の)スカイラインGTが行なった手法と同じだった。そう、上級車用エンジンの移植だ。小さなカローラのボディに、兄貴分がスポーツ車を作ろうとした際のエンジン、セリカ/カリーナのGT系が積んでいた「2T-G」を押し込んだ。その結果、エンジン出力は「SR」の95psに対して115psとなり、最高速も190km/hに達するというリトル・モンスターが出現することになった。

外観上では、何といっても「ビス留め」されたオーバー・フェンダーが渋かった! それまでの「SR」は性能は向上していても、ノーマルのクーペと外観上はあまり変わらなかったが、このクルマは違っていたのだ。

さらに室内に入ってみると、新設計のスポーツシートがドライバーを待っていた。そしてその目の前には、油圧ゲージや油温計、また電圧計といった“多眼”の光景が広がり、ステアリングを握る者のココロをときめかせた。この「27系レビン/トレノ」は、実質的にも相当な高性能車であったが、それだけではなく、安価ながら、こうした演出にも配慮があったコンパクト・スポーツだった。

(2002年 月刊自家用車「名車アルバム」より 加筆修整)
Posted at 2016/11/27 11:13:42 | コメント(1) | トラックバック(0) | 00年代こんなコラムを | 日記
2016年11月26日 イイね!
映画『コクリコ坂から』~1963年的「細部」とクルマが気になる 《5》全学集会での白熱した討論の最中に、突然、生徒会長が歌を歌いだし、しかし何故か、それにみんなが素直に唱和した──。そんな生徒集会があった夜に、コクリコ荘の茶の間で、「空」がその様子を報告した時のことを思い出したい。下宿人のひとりで、港南学園の卒業生である北斗女史は少しも騒がず、「相変わらずねえ」と笑い飛ばした。

そういえばあの時、「海」や「空」はフシギそうな顔もせず、「白い花の咲く頃」を歌っていた。つまり、何らかの状況になれば、みんなで歌を歌う。これは集会参加者の共通の認識だったのだ。そこで歌われたのは、音楽の授業で教材になるような歌ではなく、NHKの「ラジオ歌謡」の曲だった。NHKの同番組でその曲「白い花が咲く頃」」がリリースされたのは、1950年のことであったという。

そんな古い曲を、いま風に言うなら13年も前の“Jポップ”を、リーダーがイントロ部分を歌っただけで、どうして、そこにいた生徒みんなが唱和できたか? これはつまり、“そういうこと”をするのが初めてではなかったからであろう。

この生徒集会、思えば彼らは手慣れていた。討論会場となったの講堂だと思われるが、その外にしっかり見張り番を立てていた。もともと生徒間で意見が対立しているのだから、討論が白熱するのは想定内。怒号が飛び交うだろうし、乱闘寸前という状況もあるかもしれない。

しかし、だからと言って、学校側がそれを理由に、生徒の“集会の自由”に立ち入ってくるなら、それは断固、阻止する。おそらくこの学校には、そうした「生徒の自治」をめぐる“抗争”の歴史があって、それを繰り返しているうちに、生徒側に、ひとつのアイデアが生まれたのだ。生徒集会・会場での“騒音”を聞きつけて、学校側が見回りの教師を派遣してきたら、その時は「合唱」をしていたことにする。──あ、音が聞こえました? 歌の練習ですよ、ほら、お聞きの通り……。

そうした「合唱」によって学校側の介入をやり過ごすという作戦は、昨日今日に思いついたものではなかったはずだ。「対学校」の交渉ごとや闘争の中で、この学校の生徒会がさまざまな戦術や作戦を行なってきたうちの一つがこれだったのだろう。そして、この「合唱」作戦は、既に1950年代に確立されていたもの。ゆえに、みんなで合唱する際の歌が「白い花の咲く頃」だったのだ。

“その時”に歌うことにした曲が、音楽授業での曲やスコットランド民謡などではなく、いかにも通俗的な「ラジオ歌謡」からの歌だったというのは、これまた、1950年代当時の生徒たちの反骨精神だったであろう。その夜のコクリコ荘で、卒業生の北斗女史が「相変わらずねえ」と笑ったのは、「まだ、同じ曲なのね!」という驚きも混じっていたと推察する。

こうした港南学園の校風は、北斗女史の送迎パーティにやって来た学園OBたちの会話からもうかがい知ることができる。彼らは語り合っていた、「校長はタヌキだからなあ」「孤立を怖れず。だけど、戦術には知恵が要るなあ……」「戦術? タカが知れてるぞ」……。

そんな北斗女史のための送迎パーティが始まる、その少し前。コクリコ荘へ続く坂道を、リヤビュー見せて、紺色のクルマが登っていくシーンがある。ルーフに表示灯らしきものがあるので、これはタクシーか。ファストバックのリヤ、そのエンジンフードには「スリット」が切られていて、クルマがリヤ・エンジン仕様であることを窺わせる。

このクルマは、フランスの「ルノー4CV」を日野自動車がノックダウン(KD)生産していた「日野ルノー」。当時のクルマとしては俊敏な走りをすることで定評があり、ドライバーにも人気があったと聞く。ただ当時は、一般ピープルが自分のクルマを所有するというのは、夢のまた夢だったので、この場合の運転者とは、主にタクシーのプロ・ドライバーを指す。

「日野ルノー」は、軽い車重と、それなりにパワーのあるエンジンがリヤに積まれていた。おそらく、けっこうテールヘビーなバランスであったはずで、その結果、このクルマはテールを「振り回して」曲がるという走りができたようだ。そんなことから、ルノーは運転者に、これは fun であるとして好まれた。その頃に非難も含めて、速くて動きが俊敏(乱暴?)な自動車のことを“神風タクシー”と呼んでいたが、こうした粗暴な動きをするクルマのほとんどは、車種でいうと、どうもこのルノーであったらしい。

当時、この「日野ルノー」は日本の街を元気に走り回っていたが、それを反映して、映画ではこの時の坂道シーンだけでなく、街を切り取ったほかの場面でも、ルノーがその姿を見せる。付け加えると、この映画は「日野ブランド」のクルマをけっこう重用していて、同社がルノーのKD以後に、自社オリジナルとして開発・生産した「コンテッサ」も、何度か画面に登場してくる。

初代のコンテッサ「900」は、この映画の時制である「1963年」より2年前の1961年のデビュー。そして、1960年の三菱500とマツダR360、1961年のトヨタ・パブリカなどが画面の中を走り、さらに、重要なキャストとしてトヨペット・クラウンの初代が登場するが、このクラウンについては稿を改めて採り上げたい。

なお、この映画は「歴史」をきちんと描きたいという意図からか、「耳をすませば」や「おもひでぽろぽろ」のように車種を露わにしない描写のスタイルではなく、登場するモデルは基本的に、バッジ類も含めてリアルに「絵」にされている。

(つづく)
Posted at 2016/11/26 07:09:02 | コメント(0) | トラックバック(0) | クルマから映画を見る | 日記
スペシャルブログ 自動車評論家&著名人の本音
プロフィール
「映画『コクリコ坂から』~1963年的「細部」とクルマが気になる 《7》 http://cvw.jp/b/2106389/38954361/
何シテル?   12/04 18:16
家村浩明です、どうぞよろしく。 クルマとその世界への関心から、いろいろ文章を書いてきました。 「クルマは多面体の鏡である」なんて、最初の本の前書きに...
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