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家村浩明のブログ一覧

2017年01月15日 イイね!

【 20世紀 J-Car select 】vol.14 スカイラインGT S-54

【 20世紀 J-Car select 】vol.14 スカイラインGT S-54今回は、日本のクルマ史上で最も「伝説的」という言葉が似合うモデルのひとつ、スカイラインGTを採り上げよう。そして、数あるスカG伝説の中でも、最もその伝説度が“濃い”と思われる「S54」にスポットを当てたい。

このクルマは、たったひとつの「シーン」で伝説になった。時は1964年、ステージは鈴鹿サーキットだった。第二回の日本グランプリ、その頂点のクラスというべき「GTⅡ」カテゴリーに、この年、日本のファンがそれまで見たことがなかった形状の自動車がエントリーした。ポルシェによる最新のレーシング・スポーツカー、「カレラ」(ポルシェ904)である。

1960年代の前半、日本で「クルマ」といえばセダン型だった。そして、英国ではこういう屋根のないタイプで楽しんでいるらしいという、MGやトライアンフ、ジャガーXKといったオープンカーが少数ながら走っていた。それらがこの国の「乗用車」のすべてだったという頃に、鈴鹿サーキットにいきなり、地面にハリつくような“ペタンコ造形”のプロトタイプ・レーシングカーが出現したのだ。

当時でも、一部のクルマに詳しい人たちは雑誌などを通じて知っていただろうが、しかし、そうであっても、こうしたタイプのクルマに「実車」として触れるのは初めてだった。……これは何なんだ? こんな“自動車”があるのか! パドックで「カレラ」に接したエントラントやレース関係者でさえ、そんな驚きと感動を隠せなかったといわれている。

そして、GTⅡカテゴリーのレースが実際に始まってみると、もうひとつの驚きがグランプリの観客を待っていた。そのペタンコな“異次元マシン”に執拗に食らいつく(競ったかどうかは微妙かもしれないが、少なくともブッちぎられてはいなかった)ちょっとノーズが長すぎるようにも見える一台のセダンがあったからだ。

さらに、あろうことかそのセダンは、7周目のストレートにヨーロッパから来たスポーツカーを従えて、何と首位で還ってきた。この時に鈴鹿サーキットのメインスタンドで沸き上がった歓声は凄いものであったという。……あ、抜いてる! 日本のセダンが首位だ!

結果はもちろん、純レーシング・カーであるポルシェ・カレラの勝利だった。そのカレラは練習走行でクラッシュしていて、決勝レースに間に合うように何とか作りあげた急造のマシン。決して本調子ではなかったはずだが、しかし、そもそもはカテゴリーが違うクルマ。ツーリングカーのレースにプロトタイプ・レーサーが紛れ込んだようなもので、そこでポルシェが勝つのは当然のことでもあった。

だから問題は、それに食い下がって惜敗した“ハコ”の方である。まず、あの「41番」は健闘したと、翌日のスポーツ新聞が派手に採り上げた。当時、わが国で始まったばかりの「自動車レース」は、一般新聞にとっても新鮮なネタのひとつだった。この時に新聞紙上で「泣くな!」と讃えられ、一躍、全国的なヒーローとなったのがプリンス自動車(当時)からエントリーされていたスカイラインであった。

思えばこの1964年とは、その秋に東京でオリンピック(アジアで初!)が開催される年であり、世界と日本ということ、また日本はどこまで来ている?……といったことに人々が敏感だった頃だった。たとえ一瞬であったとはいえ、「世界基準」と日本のクルマが互角に闘った(ように見えた)。それを象徴したのが、ポルシェを従えて鈴鹿のストレートに還ってきたスカイラインの姿だった。

この時に「GTⅡ」に出場したスカイラインは、このレースのために特製したプロトタイプである。本来は1500ccクラスであるスカイラインに、自社の上級2リッター・クラスであるグロリア用の6気筒エンジンをチューンして、ノーズを伸ばしたボンネット内に押し込んだ。前年に惨敗していたプリンスとしては、日本グランプリのために満を持して作って来たスペシャル・マシンであった。

そして、ホモロゲーションのために100台を作っだけのはずが、鈴鹿でのレース後、あまりの反響の大きさに、改めて市販車としてまとめたという“新伝説”が続く。そうして登場したのが「S54」と呼ばれることになるスカイラインで、市販の“スカG”としての、これが最初のモデルであった。

当然、小さめのボディに強力な6気筒エンジンという市販“スカG”も、マーケットで大人気となり、1960年代半ば以降のこの国の「スポーツ車」に強い影響を及ぼした。そのひとつが、見かけだけの(?)スポーツカーよりも“速いハコ”がカッコいい!……というトレンドで、国内各社がこの“スカG”コンセプトに対応し、自社のセダン系モデルに高性能バージョンを加えるという動きになった。

ニッサンのブルーバード(1960年代半ば時点ではニッサンとプリンスは別会社)は、その高性能版をスーパー・スポーツセダン(=SSS)と称し、トヨタのコロナ・マークⅡといすゞのベレットは、プリンスと同じように、その速い仕様を「GT」と名乗った。少し時間が経って1970年代に登場するコンパクト・スポーツのレビン/トレノにしても、セダン系の車種に速いバージョンを設けるという“スカG”が作った流れ(伝説)の中の産物であろう。(そういえばトヨタは、カローラにも「GT」を設定していた時期がある)

そして当のプリンスは、鈴鹿サーキットで走らせた“スカG”が、彼らにとってのプロトタイプ・スポーツであった。そこから、その発想をそのまま適用し、今度はポルシェ・カレラと同じフィールドで、そのカレラに勝てるクルマを作ろうということになる。プリンスがニッサンに吸収・合併されて以後も、そのレーシング・スピリットは衰えることなく、「R380」に始まる“一品生産”的なプロトタイプ・レーシングカーを作っていく。

(2002年 月刊自家用車「名車アルバム」より 加筆修整)
Posted at 2017/01/15 10:59:14 | コメント(0) | トラックバック(0) | 00年代こんなコラムを | 日記
2017年01月11日 イイね!

映画『コクリコ坂から』~1963年的「細部」とクルマが気になる 《10》

映画『コクリコ坂から』~1963年的「細部」とクルマが気になる 《10》徳丸理事長との交渉を終えた高校生は、新橋駅へと向かった。「いい大人って、いるんだな」「まだ、わからないよ」「でも、よかった!」と言葉を交わす三人組。駅頭のガード下には、坂本九が歌う「上を向いて歩こう」が流れている。

そして駅前に来ると、生徒会長の水沼は気をきかしたつもりか、「俺、神田の叔父のところへ寄って行くわ。じゃ、明日」と二人に声をかけ、ひとり地下鉄入り口に消えた。松崎海と風間俊の二人は、来たときと同じ京浜東北線に乗って、横浜へ帰る。

ただ、こうして、電車の中で松崎海と風間俊が二人だけの“デート状態”になっても、映画はそのまま「上を向いて歩こう」を流しつづけるのだが、これはどうなのだろう? 実はこの歌、この映画では前にも登場して、あたかも“第二の主題歌”であるかのように重用されているのだが。

まあ、1960年代前半当時の日本を象徴する歌として使っているだけなのかもしれないが、でもこの歌は、作詞の永六輔渾身の“悲しさ極まりソング”。この歌の中の人物は、何故「上を向いて」歩いているか。それは「涙がこぼれないように」で、顔を普通の状態にしていたのでは涙が流れ落ちてしまうからだ。

そのくらい悲しいことがあって、「ひとりぼっちの夜」を噛みしめながら、それでも何とか夜道を歩いている……というのが、この歌であると思う。タイトルに「上を向いて」という言葉があるので、何があっても上昇志向で行こう風の応援歌に聞こえるかもしれないが、そういう歌ではない。

……というわけで、せっかく二人で夜の京浜東北線に乗っていることだし、そうした松崎海と風間俊の状況に被せるなら、そして、映画として当時のスター坂本九の歌を使いたいのなら、ここでの曲は「見上げてごらん、夜の星を」の方ではないだろうか。(♪見上げてごらん、夜の星を。小さな星を、小さな光りを ♪ささやかな、幸せを祈ってる)

それはともかく、京浜東北線は横浜の桜木町駅に着き、松崎海と風間俊は市電に乗るためか、あるいは一緒に歩きたかったからか、山下公園へ足を向けた。「1963年」の時点で、マリンタワーには「トヨタ」の文字看板があり、山下公園には氷川丸が駐まっている。

夜の山下公園、並んで歩く二人。高校生同士として進路を話し合った後に、松崎海はずっと気になっていたことを、ここで確認した。“週刊カルチェラタン”に載っていた、旗を掲げる少女についてだ。
「あの詩、風間さんが書いたの?」
「メルが揚げる旗を、毎朝、親父のタグから見ていたんだ」
「私の庭からは、船が見えなかったの。だから、応答の旗を揚げているの、知らなかった」

そして、市電を待つ停留所で、松崎海はついに告白する。
「風間さん、私、……私ね」
さらに、ほとんど叫ぶように、海は続けた。
「私が毎日毎日、旗を揚げて、お父さんを呼んでいたから、お父さんが自分の代わりに、風間さんを送ってくれたんだと思うことにしたの」

そこに、市電が来た。
「私、風間さんが好き」「血がつながっていても、たとえ、きょうだい(兄妹)でも、ずーっと好き!」
市電のドアが開いた。両手で、海の手を取る俊。
「俺も、お前が好きだ」
頷いて、市電に乗る松崎海。電車には「元山下」行きの標示がある。

そしてこの夜、松崎海にさらなる“事件”が起きた。「ただいま」と帰宅した海は、玄関の三和土にミハマの靴(おそらく)揃えてあるのを見る。海は勇んで、部屋に駆け込んだ。
「お母さん!」「海、ただいま」「お帰りなさい、アメリカ、どうだった?」「勉強ばかりの毎日だったわ。空、ボーイフレンドできた?」「まだ」

この時、弟の陸は「お母さん、これ、美味しいね!」と、嬉しそうに母のアメリカ土産を広小路さんと一緒に囓っていた。1960年代のレア物、ビーフジャーキーである。当時、アメリカ文化はこの日本で“強かった”。アメリカのさまざまなものが、日本人にとっての憬れと称賛の対象だった。

しかし、その夜の松崎海には、母からのアメリカ話よりも、もっと重要なことがあった。深夜になって、みんなが寝静まった頃、海はパジャマ姿で、母が荷物の整理をしている部屋へ行く。「お母さん……」「どうしたの、こんなに遅く」「お母さんに、聞きたいことがある」

母は「お座りなさい」と海を座らせると、「時差で眠れなくて……。片付けを始めたら、ますます目が冴えて来ちゃった」と笑うが、海が発した次の言葉で表情が硬くなった。
「学校の一年上で、風間俊という人がいるの」「北斗さんの送別パーティの時に来て、お父さんの写真を見せたら、風間さんも同じ写真を持ってて……。沢村雄一郎は、風間さんのお父さんだって」

立ち上がった母は、一枚の写真を取り出す。「この写真?」、それを見て、頷く海。
「そうね、ちょっとややこしい話かもしれないわね」

「お父さんと私が駆け落ちした話はしたわね。あなたも憶えてるでしょ、六郷の稲村さんの家の二階で暮らしてたこと」
「雄一郎は航海に出ることが多くて、私はその間、あなたをお腹に抱えて、学校に通っていたの」
「でも、勉強ができることが嬉しくて、張り切ってたわ」

(つづく)
Posted at 2017/01/11 19:49:27 | コメント(0) | トラックバック(0) | クルマから映画を見る | 日記
2017年01月07日 イイね!

映画『コクリコ坂から』~1963年的「細部」とクルマが気になる 《9》

映画『コクリコ坂から』~1963年的「細部」とクルマが気になる 《9》キーワードは三つ……などとワケ知り風に書いてしまったが、朝鮮戦争についてはいくつかの断片的な知識はあったが、この戦争での日本人死者、あるいは「LST」といったことについては、この映画を見るまで実は何も知らなかった。『コクリコ坂から』はどうも、これを見ると歴史を学びたくなるタイプの映画であるらしい。

その「LST」だが、これは米軍の用語で「戦車揚陸艦」の頭文字を並べたものだという。そして、本来はその用途の船だけをこう呼んでいたはずだが、1950年の6月に勃発した朝鮮戦争──北緯38度線の「北」から侵入した北朝鮮軍(+中国軍)と、それに応戦した「南」の韓国軍+アメリカ軍(=国連軍)との戦いでは、米軍側が物資の輸送に用いていた船の全般を総称して、この「LST」という語が用いられたようだ。

1945年に第二次大戦が終わった後、世界は「東西」(米ソ)が対立する「冷戦」の時代に入った。朝鮮半島を南北二つの国家にに分断する「北緯38度線」も、もとはと言えば、そんな冷戦構造の産物だ。ただ激しく対立はしても、実際に戦争はしない。だから“冷たい戦争”だったのだが、そんな中で例外的な“熱戦”が朝鮮戦争だった。

その時に、国連軍=米軍の補給基地となったのがわが国で、内地から戦地の朝鮮半島まで、この戦争を遂行するための物資が船で運ばれた。その際、一帯の地理に詳しいということで、日本の商船関係者や旧・海軍軍人が、その役目に就くことになった。

(米軍が“日本国”に要請したのはこれだけではなく、沿岸に「北」が設置した機雷の除去、つまり「掃海」を、当時の日本の海上保安庁=旧・日本海軍に依頼したといわれる。ただ、この映画での松崎海の父・沢村雄一郎は軍人ではなく、商船大学出身の船乗りと思われるので、ここでは彼は「掃海」より「輸送」に従事していた船長という解釈を採る)

この戦争が勃発した当時、つまり「1950年」の日本は、敗戦後に連合軍によって占領され、その統治下にあった。そして、新たに制定した憲法(1947年)によって、国としてはもう「交戦」はしない、つまり「非戦」を掲げていた。そんな状況の時に、わが国の超・近隣地域で“熱い戦争”が勃発したのだ。

そして米軍占領下の“日本国”(オキュパイド・ジャパン)は、その戦争遂行のための兵站担当、具体的には「輸送」を担うことになる。戦時下での「輸送」はもちろん軍事行動だが、この時、戦後日本の“平和憲法”は、自由主義陣営防衛のための闘いであるという朝鮮戦争の圧倒的な「現実」の前には、まったく無力だった。

……というより、戦争が始まった「1950年」は日本にとって、サンフランシスコ条約(連合国側からの対日平和条約)を締結するための交渉がようやく始まろうかという時期。つまり当時の日本は「独立以前」の状態で、国として何かの判断を独自に行なうことは、そもそもできなかったであろう。(サンフランシスコ条約は1951年に締結され、1952年の4月に発効した。この平和条約によって、日本と世界との敵対関係がようやく終わり、日本国は独立国となる)

そして、仮に「輸送」だけであったとしても、それは実質的な参戦で、そのようにして人が戦地で行動している以上、そこでの犠牲も不可避となる。ある資料によれば、朝鮮戦争開始後の最初の半年間で、日本人の戦死者は50人を超えたという。映画での松崎海の父、つまり沢村雄一郎は航海中に「北」が設置していた機雷に触れ、乗っていた船が爆発・炎上して帰らぬ人となる。

この映画での徳丸理事長は「マスコミ人」でもあるので、朝鮮戦争と日本人の関わりについては、当時の一般の人々よりも多くの事実を知り、その情報を得ていたはず。松崎海から「父の死」について聞いた時に、理事長は「そうか。お母さんはさぞご苦労をして、あなたを育てたんでしょう」と言ったが、この言葉には、朝鮮戦争の内実についての知識と、そして否応なくそんな状況に巻き込まれた人々への同情と感慨がこもっていたと思う。

そんなことを考えながらこの映画を見ると、高校生のいきなりの陳情話に多忙な理事長がすぐに「動かされた」としても、それはそんなにフシギではないと思える。理事長の目の前には、ひとりの“歴史を背負った少女”がいた。そして彼女は港南学園の通称“カルチェラタン”が「大好き」で、それをみんなでお掃除したので、一度見に来てほしいと言ったのだ。それを聞いて理事長は瞬時に判断し、「わーった、行こう!」と応じたのだ。

映画はこの後、京浜東北線で横浜へ帰る二人、そして山下公園での語らい、松崎海の“告白”と続くが、そのへんは次回に回すことにして、ここでは徳丸理事長の行動と“カルチェラタン”のその後について書く。

高校生たちと約束を交わした翌日。徳丸理事長は、横浜の港南学園の校門前にクルマを乗りつけた。これはたぶん、新橋の本社から“港の見える丘”まで、クルマで駆けつけたという設定だ。

乗ってきたクルマのフロントマスクが映り、さらに、リヤのトランクリッドへカメラが移行すると、そこには「トヨペット」の文字。そして後席のドアが「観音開き」の形式で開いて、校門前に理事長が降り立った。彼が乗ってきたのは、初代のトヨペット・クラウンである。

ただ、この場面で登場したクラウンは、フロントグリルが1955年デビュー時のオリジナルなのに、サイドビューやリヤビューは、その初代の後期型というか、よりデラックスな方向へマイナーチェンジしたモデルの細部であるような気がする。でも、そんなカー・マニア的な視点は、ここでは持ち出さない。重要なのは、この映画の作者がここでクラウンを登場させた。そして、そのクラウンを初代にしたことだと思うからだ。

まず、この映画の「時制」が「1963年」なのは明らかだが、トヨペット・クラウンは1962年にフルチェンジをしていて、1963年であれば、既に二代目が登場していた。しかし徳丸財団の理事長は、二代目のクラウンに買い換えることなく、初代をそのまま使っていることになる。

さらに言うなら、1960年代前半当時にクルマを買える立場であったオカネモチや会社社長であれば、キャデラックやビュイックといったアメリカ車に乗る選択肢があり、それが常道でもあった。しかし、この映画の徳丸財団・理事長は敢然と国産車を選んでいた。

また、1950年代の前半、日本の多くの自動車製造会社は外国メーカーとの提携(ノックダウン)を選び、それをベースにして、1950年代後半から60年代はじめに“自社モデル”を作った。しかし、この映画の作者は、同じ国産車でも、そっちのラインにあるクルマはここで登場させなかった。ご承知のようにトヨタは、その時期に「純国産」にこだわって乗用車を開発した数少ないメーカーのひとつ。そして、その成果で、実際にもヒット作になったのが初代のクラウンだった。

この初代は、後席VIPの「乗降性」を考慮して、後ろ側ドアをいわゆる“観音開き”にしたといわれている。そして映画は、そのドアが開くシーン、つまり理事長がクルマから降りる場面をわざわざ設けていた。二代目クラウンでは、このドアの開き方は廃されたので、このシーンを描くためには、クラウンは初代でなければならないことになる。

まあ、以上のようなことが重なって、そして理事長のキャラクターを際立たせるためにも、ここでは「国産車&クラウン」が必要だったのであろう。そんな映画制作側の意図を反映するのに、ここでの「初代クラウン」の登場はとても有効であったと思う。

そして映画に戻れば、理事長は“新生カルチェラタン”を隅々まで見た後に、新しいクラブハウスは別の場所に建てる、この古い建物は存続すると宣言して、生徒たちの拍手と喝采を浴びるのである。

(つづく)
Posted at 2017/01/07 08:43:58 | コメント(0) | トラックバック(0) | クルマから映画を見る | 日記
2017年01月02日 イイね!

【 20世紀 J-Car select 】vol.13 マツダR360クーペ

【 20世紀 J-Car select 】vol.13 マツダR360クーペ小さなルーフを持つこのクーペ・ボディを見る今日の読者は、ひょっとしたら一種の同類項として、登場したばかりのスズキ「ツイン」をイメージしたりするかもしれない。そのツインは2003年に、爛熟の(?)日本マーケットに出現、そしてこの「マツダR360クーペ」のデビューは1960年であった。

そしてツインが、クルマが隅々までゆきわたったが故に、逆に、機能を絞り込んだ作り方の方が新鮮であろうという提案であるのに対して、このR360が登場した時は、まだ多くの人がクルマなんか持っていないよ……という時代だった。

そもそもダイハツや「くろがね」とともに、オート三輪メーカーとしての長い歴史を持っていたマツダ(当時は東洋工業)にとって、これは最初の軽自動車であり、さらにはこの「クーペ」が、メーカーとして初めて世に問う四輪車でもあった。そういえば「クーペ」と名乗ったのは、日本のクルマ史上ではこのモデルが最初だったはずだ。

ただ、マーケットがそんな草創期であるのなら、もっと量販が見込めそうな、そしてユーティリティ機能も高くできそうな、たとえばワゴン・タイプでも作った方がよかったのでは?……と、今日の読者なら考えるかもしれない。

ただ、当時の感覚では、だからこそのクーペ・スタイルだったように思う。ともかく自動車というものが“高嶺の花”であった時代、小さくて軽量なクルマなら、それは少しでも安価に仕立てられるかもしれない。現に2年前の1958年に登場していたスバル360は、その見慣れない格好で42・5万円で、これは日野ルノーが60万円以上していた当時としては、普通車と軽自動車という違いがあったにしても、大幅なバーゲン価格といえた。

そんな時代に、「スバル」をもっと突き詰めれば、クルマはさらに安価になるのかもしれない? そんなイメージを庶民に抱かせたのが、このクーペだった。R360はMT仕様で30万円というプライスで(AT版は32万円)登場、スバル360以上に、クルマが身近になったと庶民の夢をかき立てることになった。

「2+2」といった言い方は、当時はまだなかったはずだが、実際にもこの小さなクーペの後席は子どもしか乗れないミクロ・サイズで、実質は二座席のクルマだった。クルマを小さく作れば、鋼板などの材料も少なくて済み、販価も下げられる。それと同時に、軽自動車というジャンルであっても、実用性重視のセダンやバンばかりでなくて、スタイリングを愉しむことをしてもいいはず──。このクルマを日本初の「クーペ」に仕立てたメーカーには、こんな意図と提案があったと見る。

そして、提案といえばほかにもあった。このクルマはスタイル追求だけのクルマではなく、たとえばエンジンは、小排気量では2ストロークが普通であった時代に、先進・軽量(アルミ合金使用)の4ストローク・エンジンを採用していた。そのV型2気筒エンジンはリヤに置かれ、「RR」として後輪を駆動した。

また、普通車であってもマニュアル変速(MT)が常識だった時代に、このクルマはいち早く、AT搭載モデルをそのラインナップに持っていた。軽自動車というジャンルで、ツーペダルでドライブできるAT(トルコン)を装備したのは、このR360が初である。そしてその特性を生かした、手だけで運転できる(いまの言葉でいう)福祉車両も、1961年にラインナップに加えていた。

ただ1960年代、時代の変化は急だった。クルマが“遠い夢”であった頃が意外に早く過ぎて、とくに1966年にサニーとカローラが登場してからは、庶民にとってクルマを買うことがあり得ないことではなくなった。そしてその時、このクーペの小ささとユーティリティ性の少なさは、やっぱりちょっと“非現実的”に過ぎたようだ。

もちろん、メーカーとしてのマツダ(当時は東洋工業)も、当然そのことは読んでいて、このクーペを追うかたちで、セダンとしての軽自動車キャロルを1962年に登場させている。とはいえ、この先駆としてのクーペはすぐに消滅することはなく、キャロルと併売されて、その後もマーケットに残った。

(2002年 月刊自家用車「名車アルバム」より 加筆修整)
Posted at 2017/01/02 12:11:22 | コメント(0) | トラックバック(0) | 00年代こんなコラムを | 日記
2016年12月30日 イイね!

【 20世紀 J-Car select 】vol.12 スバル1000

【 20世紀 J-Car select 】vol.12 スバル1000スバルの「名車」といえば、その“プロジェクト”が某有名TV番組で採りあげられたりで、やはり「テントウ虫の360!」というのが定番であるかもしれない。しかし、そんな“名車度”で言うなら、この「1000」も負けず劣らずであり、そして実はこのクルマも、その「360」と同じ開発チームによって作られたものであった。

しかし、「スバル360」はリヤエンジン/後輪駆動だが、これはフロントエンジン/前輪駆動(FF)ということで、メカニズム的には前後がまったくひっくり返っている。ただ、そのあたりがまさに、このチームが“独創を好む”精神の結果であったのではないか。

1960年代当時、“普通のクルマ”では「FR」が常識だったが、スバルは新しい小型車で「FF」を選択する。「富士重工50年史 六連星はかがやく」には、この「1000」が「FF」を採用した理由として、「長いプロペラシャフトでリヤへ動力をつなげ、さらに駆動軸を経て車輪に至るというFRのパワートレーンは、乗用車としてはいかにも合理的ではない」という技術陣の言葉が紹介されている。

ここでは名前が登場しないが、この言葉を発したのが「スバル360」の開発を指揮した百瀨晋六技師であることは、業界では知られている。もともと中島飛行機のエンジニアで、根っからの「ヒコーキ屋」であった百瀨技師にとって、わざわざエンジンから離れた場所に駆動輪(プロペラ)を設定するようなレイアウトは、とても納得できるものではなかったのであろう。

そういえば、このクルマがショーで公開された1965年という時点で(発売は1966年5月)、わが国の普通乗用車で「FF」を採用していたのはこのモデルだけだった。つまりこれは、日本車における初の“本格FF”という栄誉を担うクルマでもあるのだ。(FF方式は、軽自動車では1950年代にその採用例がある)

また、そもそも前部エンジン/前輪駆動の方式を「FF」と呼ぶという慣わしは「1000」登場時にスバルが言い出したものという説があり、実際にもこのクルマは、エンジンをサイズアップした際には車名を「FF-1」と改めている。

また、車名の通りに1000ccのエンジンを積んだ、今日でいうリッターカーでありながら、車重がわずか670㎏(スタンダード)しかなかった(注1)というのは、軽量車体を実現するために腐心した、あの“テントウ虫”と共通のスピリットから生まれたものだった。

ボディの構造は、当時の最新コンセプトであるモノコック。そしてエクステリアのデザインは、どうすればボディが軽量に仕上がるかというテーマとつながっていて、決して“デザインのためのデザイン”ではなかった。たとえばCピラーの造形は、剛性を実現しつつトランク容量を十分に取るための、ほとんど唯一の形状だったといわれる。

そして、この駆動方式だけでなく、(いまのスバルにまでつながっている)アルミ合金を多用した軽量の水平対向エンジン、またインボード・タイプの前輪ブレーキといったメカニズムも、それぞれ日本車では初だった。さらには、デビュー後1年を経た1967年の時点で、145SR-13という聞き慣れないサイズのタイヤを履いたスポーツ・セダンがシリーズに追加されたが、ラジアルタイヤを標準で装備したのも、このスバルが日本での先駆であった。

ただ、こうして、独創性に満ちたセダンとして生まれた「スバル1000」だったが、残念ながら、機能性とも密着した、このプレーンかつクリーンなデザインは長くはつづかなかった。

このモデルが1100ccへと排気量をアップした「FF-1」(1969年)へ、さらにホンダ1300と対抗したという「1300G」(1970年)へと“成長”するに伴い、スタイリングは少しずつ暑苦しくなって、ディテールでの虚飾が増えていく。そして、1971年(注2)。「1000」に始まったスバルのコンパクト車は、あのアグリーな(!)「レオーネ」へと“進化”して、その第一世代の幕を閉じるのである。

(2002年 月刊自家用車「名車アルバム」より 加筆修整)

○注1:軽量であることにこだわった1966年に登場のニッサン・サニーは、車重は625㎏でまとめていた。
○注2:百瀨晋六技師は「360」と「1000」、そしてサンバーの開発を指揮したが、この時には既にクルマ開発の現場から去っていた。
Posted at 2016/12/30 07:07:55 | コメント(0) | トラックバック(0) | 00年代こんなコラムを | 日記
スペシャルブログ 自動車評論家&著名人の本音

プロフィール

「【 20世紀 J-Car select 】vol.14 スカイラインGT S-54 http://cvw.jp/b/2106389/39179052/
何シテル?   01/15 10:59
家村浩明です、どうぞよろしく。 クルマとその世界への関心から、いろいろ文章を書いてきました。 「クルマは多面体の鏡である」なんて、最初の本の前書きに...
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