自分にとって古き良きヨコハマを感じさせてくれていたイラストレーターの柳原良平氏がお亡くなりになりました。マドロスパイプを咥えた船乗りの絵などで古いハマを思い出させてくれた縁(よすが)がこれでひとつ失われた気がします。ここに謹んでご冥福を祈ります。合掌。
さていよいよ
ヨコハマ昔ばなしの初回の始まりです。
皆さんはヨコハマというと何処を思い浮かべますか?今なら
みなとみらいとか
横浜駅周辺、それとも
山手の丘の上でしょうか? 意外かも知れませんが昔、横浜の外れに住んでいた自分がヨコハマ(この場合は中心地、と言う意味)に行くというのは当時最も人の集まる繁華街であった
伊勢佐木町を指していました。日本初の洋画封切館「ヲデオン座」を始めとして東映、大映、日活系列館など幾つも映画館が並び大衆娯楽に飢えていた若者達が大勢行列を作っていたのを覚えています。また商店街は大変な人出で、ここを休日にぶらつくのを
イセブラ、ザキブラなどと呼んでました、銀ブラと同じ感覚で。当時
国鉄(JRじゃない)京浜東北線の終点はまだ桜木町でしたのでやや歩きましたが後になり根岸線が開通して関内が最寄りの駅となりました(知ってました?)。でも徐々に人の流れが遠のいて行き横浜の中心地は横浜駅周辺へと移って行きました。横浜駅西口が整備され地下街が出来た辺りからでしょうか。それ迄は東口が正面玄関で西口は完全な裏口扱いでした。大きな時計がメインの東口駅舎にあり国道1号に面していて、そこからちょっと下れば蒸気機関車が入れ替え出来る
扇形車庫がありました。京都の梅小路ほどではありませんでしたが横浜駅のすぐ近く、今で言うと高島一丁目ですがいつの間にか消えてしまったのが残念です。
話を伊勢佐木町に戻せば
野澤屋、
松屋などの百貨店もあり人で賑わっていました。夏は入り口に花の入った氷柱が置かれていてよく手で撫でたものでした。我が家では年に1,2回は贅沢をして
有隣堂(現存)近くの
不二家(現存)に行き、2階にあったレストランで食事をしたのが楽しい思い出になっています。当時としてはとびきりハイカラな行動だったものです、今じゃ笑われそうですが。だから行く日はとても楽しみでした。ああ、それから有隣堂の隣には
博雅というシューマイの名店がありました。ここはいつでも大きな丸い蒸かしたてのシューマイを店頭でも蒸かしていて、もうその味といったら!.....崎陽軒のシウマイとは味が全く違うものでしたが今でもその味を覚えています。確か自分が高校か大学の頃に店が無くなってしまい寂しい思いをしました。その後十数年たって一時復活したもののやがてまた閉鎖という経緯を辿ったので、更にその後東京駅八重洲口裏に同名の中華料理店を見つけて勇躍入ったもののがっかりした(全然違ったゾ!)思い出もあり今でも大変残念に思っています。ああ、もう一度食べたいゾ! 話がまた食べ物のことになってしまいましたが、あの伊勢佐木町商店街にかつて存在した名店の中には二十四時間営業のハシリ、飲み屋ながら蕎麦や饂飩の旨かった
根岸屋もありましたがある時火事を出して店が灰となってしまい、以後再建されなかったのが残念です。それから野澤屋のその後ですが商売がふるわず
松坂屋に買収されました。その横浜松坂屋も結局は閉店に追い込まれました。松屋はもっと前に閉店して松坂屋が買って西館としましたが無理な二館体制が無駄な投資となり閉館時期を早めました。今ではモールの休日の人の流れもかなり減って県下随一の繁華街の看板を完全に下ろしました。残念ですがこれも時の流れか....
青江三奈の吐息で有名になった「
伊勢佐木町ブルース」なんて唄もありましたね。
いしだあゆみの「
ブルー・ライト・ヨコハマ」と並んでこいつはハマのご当地ソングなんだナ....あとは
ゆずの「
桜木町」か、ゆずは
売れるまでここのモールでずっと路上ライブをしてたんですね。
おっと、忘れる処でしたが自分が小学校に入る前つまり昭和三十年から三十三年頃にかけて小児喘息の治療でこの近くの医者に通ってました。もっとも母の背に負われていたかもですが、記憶では人が多かったのは伊勢佐木町から長者町に掛けてのメイン・ストリートだけで道1本はずれた大通り公園の通りは
空襲で焼け野原のままでした。その焼け野原を整備して飛行場にして何と
セスナが離着陸していたんですよ!! 今だと弥生町から阪東橋に掛けての辺りだったでしょうか、米軍から返還された直後かな......記憶の中のあの髙い視点は負われた母の背中からでした。今じゃとても考えられませんよね、でも夢でも記憶違いでもない事実なんです。
ああ、初回から衝撃的な思い出を語ってしまった。笑) これでオフ会の時に皆さんから一歩引かれてしまいそうです。(^0^;)
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ヨコハマ昔ばなし | 旅行/地域
Posted at
2015/08/20 22:55:44