今年の8月から9月にかけて、時間ができると、私はとあるデモに参加していた。それが直接の原因ではないが、しばらく部屋を片付けなかった。連れ合いのガマンもそろそろ限界だ。それで週末を利用して片づけを始めた。すると、懐かしい本がヒョコッと。以下、読書感想文「の・ようなもの」であります。
ミーハーのための見栄講座 - その戦略と展開(ホイチョイプロダクション・小学館)
その昔、抱腹絶倒して読んだ本。片づけをしながら、パラパラと頁をめくっていたら、とうとう全部読んでしまった。
この本が出版された1983年11月、私は大学を卒業し就職しているはずだった。しかし諸所の事情で留年したあげく、大学院に行った私は自分の将来を漠然と考えつつ、一緒に院生になった仲間と、昼は本屋にクラシック喫茶(当時はそういうものがあった)、あるいは仲間の誰かが突然「鰻が食べたい」とかぬかしたために浜名湖まで東名をクルマで飛ばしたりした。また夜は夜で大学近郊の下北沢あたりで飲み明かした。もともとモラトリアムの延長で院に行ったので、あまり真面目に課題に取り組んだ覚えはない。まあそれでも外書講読の課題で一晩に約100ページ近い英文を訳したりもして、生活に一定の歯止めをかけつつ、特に目標もないノンポリ学生生活を送っていた。
ところで我々がそのような生活を送れたのは、ひとへに東京の実家から大学に通えたからであろう。同期の地方出身者たちの多くは、まともに就職活動をし、まともな会社に入って、まともに仕事に没頭していた。既に立派な社会人であった。東北の名門酒蔵の跡継ぎとして生まれ、当時の最新型スカイラインで通学していた大金持ちの息子も例外ではなかった。
私の世代は、「三無主義」の世代と呼ばれている。「三無」とは「無気力」「無関心」「無責任」のことである。この「三無」に「無感動」を加え「四無主義」とも言った。ウィキペディアで「三無主義」を調べようとすると「しらけ世代」として解説されている。
~しらけ世代(しらけせだい)は、日本の学生運動が下火になった時期に成人を迎えた、政治的無関心が広まった世代を指す語。1980年代には、世相などに関心が薄く、何においても熱くなりきれずに興が冷めた傍観者のように振る舞う世代を指した。また、真面目な行いをすることが格好悪いと反発する思春期の若者にも適用された。~(ウィキペディアより)
ここに書かれていることがすべて当たっているとは思えない。特に「政治的無関心であったか?」と問われると「そうでもない」と私の場合は答える。なぜなら私の小学生のころは学生運動真っ盛りの時代。安保闘争、東大闘争、早大闘争などテレビ・新聞で学生運動のニュースが流れない日は無かった。機動隊の装甲車が10台位連なって外苑東通りあたりを早稲田方面に移動して行く光景は日常の一部になっていた。
三島由紀夫が市ヶ谷の自衛隊駐屯地で割腹自決した所謂「三島事件」の時は、小学校の先生達が職員室でテレビのニュースに見入っていて授業どころではなかった。小学校が現場に近かったこともあり、私たち生徒は早退した。曙橋方面に向かう道路は全て封鎖されていたように記憶している。
私は当時、塾に通っていたが、どうしても早稲田大学の構内を通らなければならなかった。それもデモ隊と機動隊の衝突の真っただ中をである。
ある日の衝突は凄まじかった。50年近くも昔のことなので記憶違いもあるだろうが、その日の衝突は本当に過酷であったと思う。
デモ隊が口ぐちに「安保反対!闘争勝利!」を連呼。そして「インターナショナルの歌」の合唱が始まる。一瞬の静寂の後、リーダーと思しき学生が「同志諸君!今日の闘争、絶対勝利ー!」と拡声器を使って叫ぶ。「オーッ!」と後に続く学生達が呼応する。デモ隊は機動隊に向けて一斉に拳ほどの石を投げつける。中には火炎瓶もあった。機動隊は屈んで、盾で身を守る態勢を取る。警察の放水車が大量の水をレーザーの如く噴射。そして催涙弾が学生達の群れに打ち込まれる。白手拭いで顔を覆いながら咳込む学生達。それでも学生達は投げ続ける。石が盾に当たるとボコッと鈍い音がした。それを合図に機動隊が突進。忽ち顔面を割られ血だらけになって崩れ落ちる最前線の学生。流血こそしていなかったが、仰向けに倒れ、泡を吹いている女子学生。学生に殴られ酷い痣を作りながらも、警棒で必死に応戦する機動隊員。そして肉弾と化した人体同士の激突。担架、救急車、夥しい数の警察車両。舞い上がる粉じん、何かの煙、割れたサングラス、折れた角材。腐臭としか言いようのない汗臭さ。怒声、罵声、呻き声、そして悲鳴。「これは戦だ!」子供心に私はそう思った。大河ドラマ(「天と地と」とかやってた記憶があります)の作り物の戦シーンではない。本物の戦だ!そんな阿鼻叫喚の中を転げるようにして、私は塾に通っていた。よくぞ無事で済んだものだと今更ながら感心する。
そんなある日、一月末の厳冬の晩であったか、塾帰りにいつものように早稲田大学の構内を歩いていると、焚き火で芋を焼いている三人の学生がいた。私は、彼等に気づかれないよう、恐る恐る歩いていた。 だが一人が私を見つけ、「どうした少年!学校の帰りか!?」と尋ねてきた。私が、しどろもどろに塾帰りであると説明すると、「そうか君は東京の少年か、羨ましいな」と言った。「なぜ羨ましいのか?」私は怯えながらも問い返した。「ずっとここで闘争できるじゃないか」と別の一人が答えた。そして焼き芋をくれた。傍らのベンチにはヘルメット、サングラス、AMラジオ。背もたれには、血と汗で汚れたボロボロの白手拭いが何枚も掛けられていた。ラジオからは、フォークソングが流れている。その三人とはそれから週3回程度会うようになる。彼等はよく、今日の活動の総括と称し「このままでは日本はアメリカ帝国主義のいいなりだ」とか、「やはり革命しかない」などと語り合っていた。そのうちの一人は瓶ビールをラッパ飲みしながら、私にこう言った。
「革命の志士になれ」。
だがあとの二人は「早稲田なんかに入るな。もっとまともな学校に行け」と言った。家に帰って親にそのことを話すと特に母親が心配した。「そんな人達と付き合って、あんた大丈夫なの!」と詰問されたのを覚えている。私は母の言葉を聞き流していた。当時の私は彼等の言っていることの意味がよく分からなかったし、今でも理解しているとは言い難い。ただ彼等に対して悪い人間という印象は持っていなかった。むしろ人の良い素朴なお兄さんだったと記憶している。しかしそんな彼等も翌年の3月には居なくなった。会った年の5月あたりから集う機会が少なくなっていった。同じ活動でも就職活動に転身したのであろう。私も中学受験の準備で忙しくなった。幸いなことに学生運動も少しづつ小さくなっていった。塾に通いやすくなったのだ。
彼等が(おそらく)卒業した年の4月、私は私立の中・高一貫校に入学した。
既に学生運動は見る影も無く、世の中は平穏になった。と、思っていたのも束の間、連合赤軍が「浅間山荘事件」を起こす。三島由紀夫の割腹騒動の時と同じように、教師達は職員室に籠ってテレビに夢中になった。担任の教師はテレビの実況中継を伝えに来る伝令係と化していた。事件が解決した日(=警察が山荘に突入した日)は結局、終日、授業は行われなかった。趣味のスケッチを始める者、読書をする者、当てにならない教師を待たずに自習に励む者、自作の漫才を披露する者。我々は教師の居ない教室で各々、自由に過ごした。
そしてその少し後、私は荒井由実(=ユーミン)の曲に出会う。当時、開局間もないFM東京やTBSラジオ「林美雄のパックインミュージック」から荒井由実のファーストアルバム「ひこうき雲」に収められている曲が盛んに流れてきた。私は、今までに会ったことのない、不思議な感覚の虜になる。それはメロディーも日本離れしていたし、それまでの日本の楽曲にはない、物質的な豊かさに満ち溢れていた。荒井由実の曲が、かぐや姫などに代表される四畳半フォークと決定的に違うのは、誤解を恐れずに言えば、田舎臭くなく且つ貧乏臭くない、ということに尽きるだろう。
中学3年か高校1年ぐらいの時だったか、私のクラスに洋行帰り(今で言う帰国子女)の転校生がやって来た。彼は私の友達になる。彼は家が遠かったため、学校が終わると、母上がクルマで迎えに来た。そのクルマは初代のセリカであった。当時からクルマが好きだった私は、なんだかんだ理由をつけて毎日最寄の駅まで乗せてもらった。彼の綺麗な母上が運転するセリカのDOHCエンジンが発する素晴らしいサウンド、カチッ、カチッと決まるマニュアルシフト、GTラインの入った明るいメタリックブルーのボディカラー、そして「カーステ」から流れてきた「中央フリーウェイ」をよく覚えている。休みの日などにはお宅にお邪魔して、ちょっとだけの遠出をねだったりもした。彼の家は東京郊外のとある住宅地に建つお屋敷で、セリカの他にW116(S450SEL6.9)と思しきメルセデスの姿もあった。彼の母上は運転がお好きな方であったのだろう。首都高の合流などお手の物だった。しかも速い。ある日、私たちは、中央道を相模湖方面に向かって走っていた。ふと、「速いな」と思ってメーターを覗き込むと140キロ辺りを指していた。この時期、中央道は片側一車線の対面通行だったと記憶している。しばらくしてその一家は、父上の仕事でベルギーに行った。
早稲田の学生達と焼き芋を食べていた頃からわずかに4年余り。東京の社会状況、世相は大きく変わった。
197X年、高校に入ってから全く勉強しなくなった私は、とある私鉄沿線の大学に入学した。いわゆる「有名人」や「良家」の子弟子女が多く集まる学園で、東京・横浜あたりでは結構有名だが、地方に行くと全く知名度が無いといった大学である。ランチでも当時の金額で1,500円くらい払うことがよくあった。コンパともなると一人 5,000円は軽く超えていたように思う。今思うとあの金は一体どこから出ていたのだろう?…親にもらった覚えはないのだが…しかし当時の手帳に記してあるバイトの収入を見てみると、やはりもらっていたのかもしれない。あの頃、東京や横浜の私立大学には、なんとなく気だるくアンニュイ(古い言葉だなぁ)な、金銭に頓着しない感覚が満ちていた。
もちろん地方出身の学生もいた。彼等は主に二つのパターンに分かれた。一つは、傍から見るとそんなことは決して無いのだが「自分はあきらかに場違い」と思い込んでしまっている人。彼等の中には学校に行かず、代わりに予備校に通う者もいた。もう一回、東大あるいは早慶を目指すのだ…と。大学の学費に生活費、それにプラスして予備校の費用まで送ってもらっているのだから地方でも結構な名門な家の方だと思うのだが、ひたすら「馴染めない」と言っていた。もう一つはこれを機会に徹底的に都会人になってやろうと積極的にいろいろと活動する人。一年も経つと彼等は我々東京人よりも東京に詳しくなった。服のセンスも我々よりも遥かに垢ぬけた。入学当初、訛っていたしゃべりも見る見る標準語になっていった。だが、ある時、その一人が自虐的に言った一言が忘れられない。
「俺、顔つきが訛ってるんだ」。
私は、演劇サークル、バイト、コンパ、自動車教習所通いと勉学以外のことに勤しんでいた。父親がサブで乗っていたアウディ 80GLEを格安で譲ってもらい、これに乗って箱根や伊豆、信州などによく行った。
私が留年し進路を大学院に決めたころ、ホイチョイプロダクション制作の「見栄講座」が週刊ビッグ・コミック・スピリッツに短期集中連載される。「見栄講座」は同じホイチョイプロダクションの「気まぐれコンセプト」の一環として制作された。私は「見栄講座」の方が好きだった。
「ある特殊状況下におかれた人間の咄嗟の対処マニュアル」。「見栄講座」のコンセプトはこれに尽きる。しかし騙されてはいけない。この本に書かれてあることはすべてがパロディーなのだ。しかもそのパロディーのおかしさは「東京・横浜の比較的アッパーな家庭に育った者」にしか分らない類のものであると言われていた。
「見栄講座」が世に出る3年前、田中康夫が「なんとなく、クリスタル」を発表する。
この小説に描かれた地名、ブランドなどは今でこそありきたりであったりするが、当時は東京の良家で育った人間にしか分らなかった。サークルの女子が、この小説の特徴である註釈を読み「よくこんなものを見つけてくる」と感心していたのを覚えている。
やがてこの小説の影響を受けて「クリスタル族」と呼ばれる女子大生の一群が青山あたりの街を闊歩するようになる。彼女たちは、ブランド物を纏い、青山とか六本木あたりの洒落たレストランで食事をし(ビストロなんて言葉が流行り始めていましたね)、成城のテニススクールに通い、夏は軽井沢に避暑に行ったりした。そして私の大学にも当たり前のように「クリスタル族」が出現する。しかしそれは誰にでもできるものではない。東京あるいは横浜の良家の子女であるということが最低条件である。
この最低条件に合致しない、しかし上昇志向の強い若者が必死になって「クリスタル族」のようなハイソ(古い言葉だなぁ)な世界に食い込もうとした。だが、その結果出来上がったものは極めて軽佻浮薄(あるいは滑稽)な文化だった。それを「薄っぺらい表層文化」として面白おかしく皮肉ったのがこの「見栄講座」である。
別の言い方をすれば「薄っぺらい表層文化」とは、それ(ハイソな世界)に至るまでの努力やプロセスを省き、ただただ「見栄」をはることによって出来上がった「見かけ上」のものである。それ故、その「見栄」の手法を「マニュアル」化し、その「マニュアル」を実践すれば「誰も」が「直ちに」「見かけ上」はハイソになれるということだ。これは凄いパロディーである。逆に言えば「本物とは何か?」という問いでもある。解答はこの本の紙背に隠れている。このパロディーマニュアルは現代でもそこそこ通用するはずだ。
ホイチョイプロダクションは、吉祥寺にあるS学園に小学校から大学まで通った連中が立ち上げた、生粋の東京っ子の集まりであると聞く。彼等は後年、バブル時代の絶頂期に「私をスキーに連れてって」「彼女が水着にきがえたら」など、当時の世相を見事に具現化した映画を発表する。
既に社会人であった東北出身の友達が「この本は田舎もんをバカにしとる!」とかなり本気で怒っていた。しかし彼は、この本から既に垣間見えていたバブル時代の到来とともに、自ら立ち上げた会社が軌道に乗り大儲けをした。その後の「失われた20年」をも上手く乗り切った彼は、現在、それはそれは綺麗な女性と結婚し、中目黒に豪邸を建て、二人の子供は、東京のいわゆる名門私立に通っている。
後年、彼は酒席でこう言った。「あの本はけっこう意識した…」
現在、東京で成功している人は殆ど地方出身者であるという。私の世代もしかり。彼らが一代で築き上げた資産は相当なものだろう。
「なんとなく、クリスタル」「見栄講座」これらバブル到来前夜の東京の世相を現した本を「無意味だ」と切って捨てる向きもいる。だが、もしこれらの本が本当に「無意味」なら、彼等は成功しなかったかもしれない。
「見栄講座」が彼等の発奮の原材料の一つになっていたとすれば、それは(結果的に)この本が「東京・横浜の比較的アッパーな家庭に育った者」だけに向けて書かれたものでは無かったということだ。
荒井由実時代のユーミンに「14番目の月」というアルバムがあって、その中にアルバム名と同じ「14番目の月」という曲がある。確か「あしたから欠ける満月よりも14番目の月が好き」といった歌詞だったと思う。
この時代の東京はまさしく「14番目の月」であった。そしてすぐに「満月」というバブルの時代がやってきた。そして「満月」が欠けると月はずっと欠けつづけた。所謂、「失われた20年」である。
もう一度「14番目の月」はやって来るのだろうか?しかしそれがもしまたやって来たとしても、それは「満月」には成らない方がいいと思う。なぜならあの時代は、言わば、テキーラの飲みすぎで日本中が二日酔いみたいな状態だったのだから。そして覚醒すると、何も残っていなかった。店を出ようとしても既に支払う金は無く、後に続く世代に大きなツケを回しただけであったのだから。
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