長期休暇で特にお出かけもしなかったのだが、小雨の降る中、河津桜を見に出かけました!
もちろん1人で感染対策をしながらになります(笑)
埼玉県さいたま市岩槻区浄土真宗本願寺派嵓月山浄源寺になります♪
まず、山門の前に駐車場があり、親鸞聖人の幼少期の像とともに浄土真宗の教えのパネルがあります。
『明日ありと 思うこころのあだ桜 夜半に嵐の 吹かぬものかは』
親鸞聖人が9歳で得度をし詠んだ句になります。
『明日があると思っていても今は満開の桜が夜中に嵐が吹いて散ってしまうかもしれない』
~私の「いのち」は明日をも知れぬ不確かな「いのち」であること。
限りあるいのちをどのように生きていくかが問題である~
9歳ですって。
すごいですね(笑)
あとは、浄土真宗の教えの紹介。
『善人なほもって往生をとぐ いはんや悪人をや』
これは有名な悪人正機論である。
阿弥陀仏の本願は罪深い悪人を救済することであり、悪人こそ仏の教えを聞いて悟りを得る能力や資質を備えた、往生するにふさわしい者であるという理論である。
但し、ここでいう『悪人』とは悪行をすすめるものではなく真実に背いている悪人を真実に向かわしめようとする阿弥陀仏の教えである。
『他力本願』
他力をあてにすることではなく阿弥陀如来の力こそが他力である。
本願とは極楽浄土に導きいれる願いです。
つまりは念仏によって阿弥陀如来の本願のはたらきによる救いを得ることである。
このような解説のパネルがあります☆
山門。
河津桜。
これは梅?
本堂。
親鸞聖人像。
念仏法恩塔。
墓地の手前に河津桜があるがまだ五分咲きである。
ちょっとした遊歩道のようになっている。
しだれ桜?
お花詳しくないので大変(笑)
まだ五分咲きだがキレイなところを撮るとキレイに見える(笑)
浄源寺本堂。
浄源寺の創建年代等は不詳ながら、曽我兄弟の末裔河津三郎祐重(釋祐存僧善正)が出家して開基とされる。
ちなみに浄土真宗のお寺はほぼ訪れたことがない。
少し説明をしよう。
日本で一番門徒が多いのが浄土真宗である。
そもそも浄土系には浄土宗、浄土真宗、融通念仏宗、時宗などがあるが
浄土真宗は浄土宗を学んだ親鸞聖人の創始になります。
ただし親鸞聖人はお寺等の建立はせず没後弟子達により教団として成立したと言われている。
もともと古くは一向宗、門徒宗と呼ばれた。
戦後に真宗十派から本願寺派が浄土真宗、他9宗が真宗と呼ばれるようになった。
本尊は、阿弥陀如来一仏である。ただし、高田派及び一部門徒は善光寺式阿弥陀三尊形式である阿弥陀如来・観音菩薩・勢至菩薩を本尊としている。
さて、先ほど書いたが浄土真宗には真宗十派と言って、10の宗派に分かれている。
その中でも東本願寺の真宗大谷派と西本願寺の本願寺派が最大のものです。
京都の本山でも「お東さん」(真宗大谷派)と「お西さん」(本願寺派)と京都駅を挟み対極に位置しています。
ここからはネットにて良い解説があったので抜粋します。
『本願寺分裂の話』
実は本願寺は戦国時代までは1つだった。
しかし織田信長が石山本願寺を攻めた石山戦争をきっかけに2つに分かれた。
当時の石山本願寺は、室町時代に浄土真宗を再興した蓮如(れんにょ)によって建立された浄土真宗の一大拠点であり、難攻不落の砦でした。
織田信長は、石山本願寺を10年以上攻め続けましたが、結局石山本願寺を降伏させることはできなかった。
しかし浄土真宗との戦いに天下統一の足止めされることを嫌った信長は、当時の正親町天皇(おおぎまちてんのう)を間に入れて和睦を求めました。
その時に本願寺内で信長と和睦するか、徹底的に戦うかで議論が分かれ、この2つの考えによって本願寺内が2派に分かれたそうです。
これが本願寺が東と西に分かれるきっかけです。
当時の石山本願寺のトップは顕如(けんにょ)でしたが、顕如と三男の准如(じゅんにょ)は和睦を主張し、長男の教如(きょうにょ)は徹底抗戦を主張、激しく対立しました。
最終的には顕如が和睦を決め、石山本願寺を明け渡して准如と共に和歌山の鷺森別院(さぎのもりべついん)に移転したのです。
これで信長と浄土真宗の争いはひと段落しましたが、争いの火種はまだ残っていた。
信長はその火種を完全に消そうと明智光秀に本願寺の攻撃を命じましたが、光秀は「敵は本願寺にあらず、本能寺にあり」と言って、返って信長を討ってしまいました。
これが本能寺の変です。
この結果、浄土真宗は滅亡の危機から逃れることができた。
しかし顕如と教如の間に生まれた溝は埋まることがなく、顕如は浄土真宗のトップの座を長男の教如ではなく三男の准如に譲ったのです。
納得できないのは教如です。時代の支配者は徳川家康に移っていましたが、家康にとっても浄土真宗は目の上のたんこぶでした。
家康はこの勢力を弱めようとして、不満を持っている教如に寺地を寄進して、東本願寺を別に建てさせました。
この結果、本願寺は東と西に完全に分かれ、敵対してしまったのです。
徳川家康は当時でも大名以上の日本最大の集団で、結束力も強く、武装もして政権に対する大きな抵抗勢力であった浄土真宗の力をそぎ落とすために、画策をして2つに分断しました。
2つに分かれた本願寺は、徳川幕府に抵抗する以前に、浄土真宗内で争うようになり、お互いの力を減少させていきました。
その点で言えば、家康の目論見は見事に当たったわけです。
したがって、江戸時代の初期にはお東とお西は非常に仲が悪くなっていました。
敵対と言って良いほどです。
しかし江戸時代の後半になってくると、その対立は徐々に弱まり、内容によっては共同歩調をとるようになりました。
明治になると、江戸初期の確執も随分と薄れてきたこともあって、お東とお西の間では雪解けムードが広がり、第2次世界大戦以降は融和とも言ってよい関係性になりました。
現在ではお東とお西を含む浄土真宗の10派で真宗教団連合というものを組織し、互いに盛んに交流しています。
しかし一方では、信者間ではあからさまに敵対はしていませんが、たとえばお東の本願寺派系の高校の生徒は京都に修学旅行をしたときに、本山である東本願寺には参っても、西本願寺には行かない、というような潜在的な対抗心は残っているようです。
そういう意味では公式にはお東とお西の敵対はありませんが、心情的な違和感はまだまだ一般門徒の間には存在していると言えるでしょう。
(お墓さがし 浄土真宗より抜粋、引用)
↑駐車場にも宗派の紹介パネル(笑)
まー私は密教系寺院が好きなんですが今回は桜メインで来てみました(笑)
良いところでしたね☆
さて、続いては埼玉県久喜市の鷲宮神社です!
ただこちらは何度も紹介していますので簡単に♪
2018年に木製大鳥居が老朽化のため倒壊しましたが、
久しぶりに来たら鳥居が新しくなってました☆
良かった良かった!
拝殿。
神楽殿。
鷲宮神社の神楽は国の重要無形民族文化財に指定。
本殿。
鷲宮神社は、「出雲族の創始に関わる関東最古の大社」、「お酉様の本社」と称する。
天穂日命とその子の武夷鳥命、および大己貴命を祭神とする。
このことから出雲系列の神社と言える。
いづれ詳しく出雲大社と伊勢神宮の関係性や出雲王朝と大和朝廷の関係性などを書き記してみようと思う(笑)
光天之(みひかり)池。
境内にある池には、龍神さまがいましたが、雨風などの影響により土砂が流れ込み、長い間池が埋もれてしまいました。
1999(平成11)、古来の御神池に復元しようと、整備を始めたらなんと池から湧き水が溢れ出し、さらには龍のような雲が空を覆ったようです!
御朱印です。
『鷲宮神社まとめ』
社格:准勅祭社
旧社格:県社
現在神社本庁:別表神社
創建:
(伝)神代(別宮・神崎神社)
(伝)景行天皇の時代(鷲宮神社)
アニメ「らき☆すた」の聖地。
鷲宮神社の近くにある青毛堀川の河津桜です!
まだちょっと早かった(笑)
青毛堀川とは埼玉県加須市から久喜市までを流れる河川で、騎西領用水およびその分水となる用水路の農業排水路である。
(Wikipedia抜粋)
この日はあいにくの小雨でまだ五分咲きでしたがそれでもキレイですね☆
さて、少し経って3/14。
晴天に恵まれたこの日再び河津桜を見に行くことに☆
千葉県成田市にある真言宗豊山派鳴鐘山医王院東勝寺です♪
義民・佐倉惣五郎の霊が祀られていることから宗吾霊堂(そうごれいどう)とよばれています。
宗吾様御廟。
お線香をあげます☆
大山門。
鐘楼堂。
大本坊。
大本堂。
非常に珍しいのが真言宗の本尊は大日如来が多いのだが、ここでは佐倉惣五郎の霊が祀られているところである☆
開創年代等については不詳であるが、寺伝によれば桓武天皇の勅命により、坂上田村麻呂が創建したという。
たびたび火災にあって寺地を転々とし、1662年(寛文2年)澄祐により再興され下方字鐘打に移った。1910年(明治43年)火災により焼失し、1921年(大正10年)現在地に再建された。
(Wikipedia抜粋)
宗吾霊宝殿。
宗吾御一代記館。
我が国の代表的義民として有名な佐倉宗吾(本名 木内 惣五郎)様は、今から350年前に佐倉藩国家老による暴政のため領民の救済を4代将軍 家綱公へ直訴し、その罪により公津ケ原刑場で磔刑(はりつけ)に処せられました。
この時、当山の住僧 澄祐(ちょうゆう)和尚は遺骸を刑場跡に埋葬されました。
現在のお墓がそれで惣五郎様の処刑後、佐倉藩はその失政を悔い、宝暦2年(1752年)、百回忌の時に堀田 正亮(まさすけ)公は宗吾道閑居士の法号を諡号しました。
(ホームページ抜粋)
キレイな庭園です。
大本堂裏。
奥之院。
宗吾殿。
聖天堂。
薬師堂。
この辺りの河津桜がとてもキレイです♪
天気も良いのでピンクが映えますね☆
慈眼閣。
梅?
梅?
お花詳しくないのでお花見ても何の木だかあまりわかっていません(笑)
御朱印。
いつ来てもキレイな境内です!
大本堂裏手に広がる境内には7,000株の紫陽花が植えられていて、6月には紫陽花まつりも行われます。
それはそれはキレイみたいですよ☆
以上河津桜を見に行く編でした(笑)